第三十六楽曲 第一節
店の外に停められた車に唯の父親と彩は乗り込み走り去った。それを見送って唯が言う。
「あの……、迷惑かけちゃってすいません……」
「気にしないで。お父さんからの信頼を裏切らないように僕は僕にできることを頑張るよ」
それを聞いてボッと上気させる唯。しかし暗くて大和はそれを認識できない。
「唯、ご飯まだなんだよね?」
「は、はい……」
「隣に行こうか?」
「加藤さんのところですか?」
「うん」
隣とはゴッドロックカフェの通り側の隣を指しているのだが、そこには三連棟の借家に居酒屋が入っている。唯が口にした加藤と言う中年男性がその居酒屋を営んでいた。この加藤もゴッドロックカフェの常連客ではあるが、自分の店があるので専ら平日しか来ないし、来店頻度もそれほど多くない。
大和は唯に何かを食べさせたいと思っているが、ツアー後につき自宅の冷蔵庫には食料がほとんどない。更に23時近いこの時間、高校生の唯を入れてくれる店もない。だから近所を頼る意向だ。
唯は加藤と面識はあるもののそれほど話したことはない。それに加藤が隣で店を営んでいることは認識していても、居酒屋なので高校生の唯が利用したことはない。若干緊張しているようだが、しかし初めての家出でその不安の方が大きく、大和の傍を離れられないので素直について行った。
ガラガラ。
『いらっしゃーい!』
大和が居酒屋の入り口の引き戸を開けると活気あるアルバイト店員の声が響いた。続けてカウンターの中にいる加藤が大和と唯に気づき、これまた活気よく声をかける。
「あれ? 大和と唯ちゃんじゃん」
「こんばんは」
店内のカウンター席は半分ほどが埋まっている。深夜0時が閉店の店なので、その客の多くが宴もたけなわと言ったところだ。飲み物と数点の小鉢が置いてある程度である。
店主の加藤はやや禿げ上がった額を覗かせるが、頭頂は調理用の帽子で隠れている。焼き場の前で串を返しながら、愛嬌ある笑顔を見せた。
「すいません、加藤さん。こんな時間だけど、唯も入れてもらっていいですか? 彼女、ご飯がまだで」
苦笑いを浮かべながらも乞うように問い掛ける大和。それを見て加藤は口角を上げた。何か下世話なイメージを抱いたのだろうと大和は読み取って苦笑いは増す。
「おう、いいぞ。それなら個室の方がいいな」
「ありがとうございます」
いつもなら大和は1人か響輝なり杏里を連れてカウンター席に座る。そして加藤と雑談をしながら酒を飲む。しかしこの日は違う。本来は許されない時間帯の18歳未満の来店だが、気心知れたお隣さん。そして同業者。加藤が気を利かせてくれたので、大和はそれがありがたい。
大和と唯は早速小上がりになった個室に靴を脱いで上がった。アルバイト店員が注文を取りに来るかと思われたが、満を持して登場したのは加藤であった。
「どうしたんだ? こんな時間に」
尤もな質問だと思う。言いにくくはあるが、大和は口を開いた。
「実は……、唯が家出をしてきて……」
「は!?」
目を見開いて唯を見る加藤。唯は気まずそうに俯くが、小さく声を発した。
「すいません……」
「あ、いや。まぁ、大和を頼ったってことは安心だけど、なんでまた?」
「実は……、かくかくしかじかで……」
大和は全容を話した。そのうえで常連客をはじめとする口外無用を頼んだ。
「はぁ……、それは大変だったな。それでお父さんも公認ってか。人には言わないから安心しろ。て言うか、困ったことがあったら何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
大和が加藤を頼った理由はこれだった。自分たちの状況を知っても口止めをすればそれに理解を示してくれるし、ご近所として助けてもくれる。横のつながりが濃い地方都市の飲食業界では情報共有と称して口の軽い連中が多いが、その中でも加藤は祖父の代から懇意にしており信頼のおける相手である。
「注文は何にする?」
「僕は生とたこわさと枝豆。唯は?」
「あ、はい……」
唯は慌ててメニュー表を手にする。しかしここは居酒屋。一品もののメニューが多く、馴染みのない高校生の唯には決め手に欠ける。
「えっと……」
「何なら賄い丼でも出してやろうか?」
唯の様子を察した加藤がまたも気を利かせてそんな提案をする。客商売の経験が長い加藤は、人の顔色を窺うのがうまいようだ。
「いいんですか?」
「あぁ」
「じゃぁ、それをお願いします」
「飲み物はウーロン茶でいいか?」
「はい」
加藤は皺の増えた顔に笑顔を浮かべ個室を出た。その表情に唯は幾分救われ、安心できた。すると唯は大和に向けて顔を上げる。
「大和さんは食べないんですか?」
「僕はもう食べたから」
大和は杏里の自宅にお邪魔し際に夕食をご馳走になり、杏里と一緒に済ませていた。親戚なのでこちらもまた気心知れた間柄だ。
「そうだったんですか。すいません、私のために」
「気にするな」
唯は終始落ち込んでいて、迷惑をかけていると思っているのでよほど恐縮した様子だ。大和はそれを察しているからこそ、肩の力を抜いて欲しくていつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「メンバーにはどうする?」
大和のこの質問はメンバーに家出の事実を伝えるか隠すかを聞いている。大和の正面で女の子座りをしている唯は顔を上げた。
「メンバーのことは凄く大事で、私は心から信頼してるから、隠したくないです」
「そっか、わかった。杏里には言ってもいいかな? 何かと協力してくれてるし、店に関わることも多いから」
それに対して唯はコクンと首を縦に振った。徐々に唯の表情がいつもどおりに近づいていると感じて、大和はそれに安堵する。
「唯、バイトは?」
「明日から再開です」
「そっか。それなら明日も杏里が店を手伝いに来てくれるから、その時杏里に唯の分の合鍵を譲ってもらおう? 僕の仕事中に家を出入りするだろうから」
「は、は、は、はい……」
顔を真っ赤にして俯く唯。合鍵とは大和の自宅の合鍵だ。古都が代表で持っている店の合鍵とは違う。その意味を強く意識してしまって唯はドキドキが止まらない。
「ほい、お待たせー」
すると引き戸を開けて生ビールとウーロン茶を持ってきたのは加藤だ。加藤はホールから直接室内に身を乗り出して飲み物をテーブルに置くと、枝豆とたこわさびも続けて置いた。
「賄い丼は今作ってるからもうちょっと待っててな」
「はい。ありがとうございます」
それだけ言葉を交わして加藤は個室を出た。どうやらこの日この席の接客は加藤が専属でやってくれるようだとわかり、大和と唯はその気遣いに心が温かくなった。
「じゃぁ、乾杯」
「か、乾杯……」
大和は唯とグラスを合わせると、生ビールを煽った。爽快な炭酸の刺激が喉を通過する。唯はストローを使って少しだけウーロン茶を口に含んだ。
「ぷはぁ」
大和が豪快にジョッキをテーブルに置いた。ツアーから帰って来たばかりにも関わらず、この日は帰還ライブをした。そして柿倉家を経て、家出をしてきた唯を受け入れた。とても濃い一日でやっと一息吐き、暑いこの季節のビールの味は格別だった。
「うふふ」
「ん?」
唯が小さく笑ったので、大和は首を傾げる。すると唯が面白そうに言うのだ。
「白髭さん」
「あぁ」
解せた大和。鼻の下にはビールの泡が乗っているのだ。
しかし唯がゴッドロックカフェに戻ってきてからやっと笑った。大和はそれに報われた。
「はい、お待たせー」
しばらくして加藤の手で賄い丼が届けられる。唯はそれに目を輝かせた。
「わぁ、美味しそう」
「へへん。秘伝のたれを使ってるから自信あるぜ」
「いただきます」
唯は早速賄い丼を頬張った。彼女の表情に大和は目を細める。
それはとても美味しく、温かい味がした。昼はコンビニのおにぎりだけで済ませた唯なので、この日初めて口にする手料理だ。唯の胸は熱くなった。この味はこの先ずっと忘れることはないだろう。
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