第三十四楽曲 第二節
地獄のような体幹トレーニングを終えた希は着替えようと思い、キョウカに問い掛けた。
「あの、更衣室ってどこですか?」
「大和君が来るまでまだ時間あるよね?」
「はい」
質問の回答をしてもらえず疑問が残るものの、とりあえず希は返事をした。確かに大和の迎えが来るまでまだ1時間以上ある。トレーニングルームの壁にかかった時計を見て希はそう思った。
「私も今日はもう上がりだから、今から一緒にスーパー銭湯行こうか?」
「行きます」
即答である。体中が汗でベタベタして気持ち悪い。表面上はあまり変化のない希だが、内心では声が弾んでいた。
しかしすぐに思い直す。金がかかる。それにタオルは汗拭き用のスポーツタオルしかない。バスタオルにしては小さく、フェイスタオルよりは大きい。これもレンタルか購入で用意しなくてはならない。ただ大浴場に心惹かれるので、財布は痛むが言葉を飲んだ。
やがてキョウカの運転で到着したのは大学からほど近いスーパー銭湯。アツシも同行で、3人は一緒に受付に立ち、希はタオルセットのレンタルもした。すると財布を開いた希をキョウカが制す。
「いいよ。私が出すから」
「え、でも……」
「いいから、いいから。シャンプーとボディーソープは私が持ってるからそれでいいよね?」
「はい」
キョウカは半ば強引に希の分の支払いも済ませた。ただで教えてもらって、しかもその後の支払いまでしてくれたことに恐縮するものの、希は感謝の念で温かい気持ちになった。当初心配した出費は不意に解決したわけだが、キョウカからすれば今後定期的に希から身体のデータをもらうことになっているので、研究者として意義はある。
「なんなら大和君の迎え、ここにしてもらえば?」
キョウカがそう提案をするので希は納得して「そうします」と答えた。そしてすぐさまラインアプリを開き、大和に位置情報を送った。
この後3人は脱衣所の前で男女に別れ、大浴場に入った。体を洗いながらキョウカが隣の希を覗き込む。
「希ちゃん、本当スタイルいいね」
「ベースのメンバーが私よりスタイルいいです」
「へぇ、それは興味あるな」
「あ、けど、彼女は運動とか苦手かも。だから細身で胸はあるけど、筋力的な引き締まりはないです」
「そっか、そっか」
「それに私はチビですし」
「背は低くても、だからこその需要だってあるでしょ?」
「まぁ、確かに」
納得する希。家にいるうるさい奴もそうだし、ゴッドロックカフェの常連客にも心当たりはある。それにこのツアー中、大和もフェリーで一度そういう表情を垣間見せた。
ただスタイルを褒められたところで、その言葉を口にするキョウカもなかなかだと希は思う。服の上からもそれは窺い知れていたが、一糸纏わぬ今の彼女を見てその評価はより高まる。アスリートではないトレーナーのキョウカだが、彼女自身も鍛えているのだと、それはその肉体美が物語っていた。
体を洗い終わった2人は真っ先に露天風呂に入った。平日の昼間の客は少なく、この時露天風呂は貸し切り状態であった。そこで足を伸ばす希はこの時間が贅沢に思えた。貧乏ツアーの最中はなかなかありつけない癒しのひと時である。
「明日のライブ楽しみにしてるね」
隣からのその言葉に希が顔を向けると、入浴用のヘッドバンドを付けたキョウカが正面を真っ直ぐ見据えていた。湯が滴り、顎から鎖骨まで綺麗なキョウカを希は美人だと思った。
「ありがとうございます。楽しめるよう頑張ります」
翌日の広島のステージはキョウカもアツシも観覧予定だ。ここに来て出会ってたったの数時間だが、かなり協力してもらって希は随分と心を開いていた。その2人が観に来てくれるのだから、自ずと気合が入る。
「因みに希ちゃんってカレシはいるの?」
突然キョウカが振り返り、締まりのない表情を向けたと思ったらこの手の質問だ。希はキョウカから目を逸らさずに首を横に振った。そして言葉を足した。
「けど、好きな人はいます」
「あ。それってもしかして泰雅君? 若しくは大和君?」
コクンと首を縦に振る希だが、疑問が残る。
「大和さんです。なんでわかったんですか? 共通の知り合いが大和さんしかいないから当てずっぽうとか?」
「違うよ。ちゃんと根拠あるよ」
それには少しばかり驚く希。共通の知り合いと言いながらも、キョウカと大和だってこの日が初対面だ。泰雅に関してはアツシから名前だけ聞いていたのだろうが、それにしても根拠を持ち合わせるとは、キョウカは神かサトリかと疑う。
「私の立場で言わせてもらうとね、女の子の指導って凄く難しいんだよ」
「どういうことですか?」
「例えば女子のスポーツで、男の監督やコーチがセクハラでトラブルになったとか、そういうニュース見たことない?」
あまりスポーツニュースを見ない希だが、確かにニュースサイトのトピックにそういう系統の表題が表示されたのは見たことがある。
「あります」
「あれってね、確かにそういう不届きな男の指導者もいるにはいるんだけど、女のアスリートがちょっとした相手の行動に過剰な言いがかりをつけて、それこそでっち上げ紛いの場合もあるの。例えばレギュラー争いの嫉妬が原因とか」
「そうなんですか?」
少しばかり希の目が見開く。キョウカは柔らかな表情のまま希を見据えて続けた。
「競争があるから皆平等になんていかない。だから女子の指導って本当に難しくて、女子のアスリートには女の指導者しかつけない団体も今ではあるのよ」
「そうなんですね。けど、私が大和さんのことを好きなのをわかったことと、どう関係があるんですか?」
「逆に男の指導者は女のアスリートを育てる場合、相手に惚れさせるくらい相手の懐に入れって言う人もいるの。そのくらいしないとアスリートがついてこないから」
「なるほど」
納得の言葉を発する希。思い当たることは多々ある。
「一例を言うと、実業団の女子マラソン選手が一人暮らしをしてるアパートに、男のコーチが住み込むとか。コーチは妻子持ちなのにも関わらず、家庭をほったらかしにしてだよ?」
「なかなかディープな世界ですね」
「ふふ。そうだね。だから一番難しい年頃の女子を4人も抱える大和君が、聞いた話によると一年以上もうまく指導してるなんて、惚れられてるからかなと思って」
「はい、正解です」
間を空けずに素直に認めた希に対して、ここでキョウカに1つの疑問が湧く。
「もしかして他のメンバーも?」
またもコクンと首を縦に振った希。これにはさすがにキョウカの目も見開いた。
「逆にそれはそれでうまくやってることがびっくりなんだけど……。メンバー間で諍いとかないの?」
「ないです。当初は取り合ったりもしましたけど、今ではどちらかと言うとダイヤモンドハーレムの大和さんって意識が強くて、バンド以外の女が寄って来たら4人まとまって全力で排除します」
「ほえぇ。凄いわ」
感心してしまったキョウカ。怖さすらも感じるが、納得もする。
「アツシ経由で聞いた話だと、泰雅君がダイヤモンドハーレムは結束が強いバンドだって言ってたらしいけど、そういうことか。だから女子のグループを指導しながら、うまくやれてるんだ。かなり希少な例ね」
キョウカが納得を示す一方、スポーツ界のことは知らなかった希なので、少しばかり勉強になったと感じた。今度は希から質問を向けてみる。
「キョウカさんって大学の職員なんですよね?」
「そうだよ」
「職員と学生の恋愛って認められてるんですか?」
「えへへ。禁止されてるから内緒ね」
ばつが悪そうに笑みを浮かべて、秘密を乞うキョウカ。
「キョウカさんが言われて困る人に、私の知り合いはいないから安心してください」
「そうなんだけど、今時ネット社会じゃん」
「そうですね。書き込みとかもしません」
「ありがとう」
察した希にキョウカが謝意を述べる。すると質問の番手がキョウカに戻った。
「泰雅君とはどうなの?」
泰雅との関係を初めて疑われたことに希は意外に思ったが、普段を見ていない彼女だからだろうとすぐに納得もした。キョウカが期待をするような感情はないが、ただこのツアー中、泰雅のことは気にかけている。そう、家族のことと一緒に。それを思って希の表情が少しばかり曇った。
「希ちゃん?」
「実は……」
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