第三十四楽曲 第一節

 大学内のトレーニングルームで汗をかく希。この時室内にいるのは希の他、アツシとキョウカだけだ。


「ゼェ……、ゼェ……」


 マットの上で左の膝をついて右足を伸ばし、右の手をついて左腕を伸ばしている。つまり、四つん這いの状態から対角の手足を浮かせ、二点で体を支えていた。腹筋と背筋に多大な負荷がかかる。


「あと、10秒!」

「うぅ……」


 眉間に皺を寄せて目をギュッと瞑った希は苦しそうに顔を歪め、脇に立つキョウカの声に唸り声を返す。キョウカはストップウォッチを片手に薄く笑みながらも真剣な表情だ。


「3……、2……、1……、はい! オッケー!」

「ぐはっ……」


 勢いよくマットに倒れこんだ希は肩で息をしている。その希の脇で腰を下ろしてアツシがペットボトルの水を差し出した。


「あはは。キツイ?」

「当たり、前……です……」


 希は体を返して仰向けになり、水を受け取ると横になった状態のままそれをゴクゴクと喉に流し込んだ。空調は効いている室内だが、この季節のトレーニングは体に堪える。


「それでも女子高生がいきなりここまでできると思ってなかったから驚いてるよ」

「そうですか?」


 見上げるアツシの表情は天井の照明が逆光になってわかりにくい。しかしその穏やかな声色から柔らかい笑顔を浮かべているのだと希は思った。


「うん。さすがに鍛えてるだけあって、よくついてくるな」


 褒められはしたものの、もし引きこもり状態の中学時代のままなら、このメニューについてくるのは絶対に無理だろうと希は思った。ドラムを始めて、体幹トレーニングを開始したことで、筋力が上がっているのは彼女自身実感している。


「はい! それじゃ、次はスクワット」

「え……」


 水を差し出されたことでインターバルだと思っていた希。キョウカのその言葉に絶望を感じる。


「ん? なに? もしかして希ちゃん、もうギブアップ?」

「む! まだ余裕です」


 負けん気の強いことである。希はキョウカの揶揄うような挑発的な笑みを一瞥して立ち上がると、アツシに水を返した。


「それじゃ、今からやるのはマラソン選手も取り入れてるスクワットね。筋肉量を増して体を鍛えるのとは違って、今のしなやかな体系で無駄な贅肉を落として体脂肪率を絞ることが目的よ。体重を増やさず、スタイルを維持したまま贅肉を筋肉に変えるの」

「なるほど」

「芸能人を目指してるんだから、そういう鍛え方がいいでしょ?」

「はい。助かります」


 これには納得した希だが、芸能人になることよりも彼女の脳内でピンクの枠に浮かぶのは大和だ。体の外周が増さないのであれば、大和に引かれずアピールを続けられるから問題ない。

 しかし期待を胸に再びトレーニングに取り組んだ希だが、これは更なる地獄の始まりであった。


「うぁぁぁ……」


 壁面鏡を向いて中腰の状態で唸る希。上下する彼女の体をアツシが支える。脇でキョウカはストップウォッチを構え、バインダーを開いていた。


「はい! 顔はしっかり上げて」


 顔を上げた希の額からは汗がしたたり、それは頬を伝って顎から床に落ちた。今自分がどれほど顔を歪めているのか、それを正面の鏡で見る余裕もない。そんな数種類のスクワットで、時間を区切られてそれは数セット続いた。


「はい! オッケー」


 キョウカの元気な声がトレーニングルームに響く。瞬間、希の体を支えていたアツシが力を抜き、希は力なく床にへたり込んだ。もう希は声も出ない。


「よく頑張ったね。このメニューがこなせるなら上出来よ」

「は、い……」


 笑顔でキョウカが労うも、希は顔も上げられない。なんとか振り絞ったのはたったそれだけの言葉だ。


「これを毎日家で続けて」

「え……、この、セットを……毎日、ですか……?」

「うん。もしかして無理なの?」

「うぅ……、や、ります……」


 もう挑発に突っかかる元気もない。希は力なく受け入れた。


「筋力の方はこのメニューについて来られるだけのベースがあるわ。けど、希ちゃんの課題は持久力の方ね」

「持久力ですか?」

「そう、スタミナよ。ステージでバテたりしない?」


 意外な指摘だった。希は疲労で上手く働かないながらもなんとか思考を巡らせる。しかしステージでバテたという記憶がない。そんな希の怪訝な表情を察してアツシが言った。


「ステージでは1回に最高何曲ったことがある?」

「6曲です」

「今は対バンばかりってことか」


 ほとんどの対バンは5曲だが、湘南でのアンコールが6曲目を演奏した唯一である。


「既にベースがある今の体力ならそれくらいもつだろう。けど泰雅さんに聞いたけど、目標はまだまだ先にあるだろ?」

「はい。メジャーアーティストになることが目標です」

「メジャーになるためには、キャパ200~300人のライブハウスをワンマンで埋めることが一つの目安だ。けど今の体力じゃ1時間半から2時間のワンマンで演奏し切ることは厳しい」

「でも、練習は毎回2時間です」


 厳しいと指摘をされて不服なようで、希は反論を示した。しかしアツシがすぐさま更に言葉を返す。


「練習と本番を一緒にするなよ。本番はパフォーマンスも加わって体を激しく酷使するだろ?」

「む……」


 ぐうの音も出ない指摘である。確かに本番の5~6曲はもつものの、練習と本番の違いはいつも感じている。するとアツシが穏やかな態度で話を続けた。


「それに例えば短時間競技のアスリートの場合、スプリンターや柔道とかがそうだけど、本番が終わった後は、その本番と同じ時間の練習の時とは比べ物にならないほど息が切れてるんだ」


 希はまだ少しばかり呼吸が整っていないが、真剣にアツシの話を聞く。額に貼り付いた前髪が鬱陶しいものの、天井から噴出されるエアコンの冷風が汗を冷やしてくれる。


「今はイメージしやすいように短時間競技って言ったけど、これは長時間のランナーやサッカー選手にも言えることだ。練習は本番のように、本番は練習のようにって言うけど、それは精神面で間違いなくても、実際本番は体力面でそうはいかない。ステージだってそうだろ? 興奮と熱気と重圧で普段の練習とは比べ物にならないほど消耗する」

「はい」

「だからキョウカさんが言ったこのメニューをこなせば持久力も上がる。もちろん筋力だって今より上がるから、力強いドラムが打てるようになる」

「わかりました。頑張ります」


 どうやら完全に納得したようだ。それをキョウカが微笑ましく見ていた。しっかり話をすれば、素直に人の意見を受け入れられる希に好感を持った。


「因みに、希ちゃん?」

「はい」


 希は床に座ったままキョウカに向いて顔を上げる。キョウカはバインダーを捲りながら言う。


「家でやる時は体を支えてくれる人っているの?」

「……」


 希の脳裏に目の前の女と同い年の男の顔が浮かぶ。ツアー中の今なら安宿でメンバーの手を借りればいいが、ツアー後の毎日となるとキョウカに言われたように家でやるしかない。家でやるとなると協力者は限られる。そして喜んで協力するのであろう人物が一人だけいる。


「い、一応……」

「良かった。それなら安心ね」


 安心……その言葉に違和感を覚える希。果たして協力者候補は安心させてくれるだろうか? 安心して自身の体を任せることができるだろうか? どさくさに紛れてデリケート部分を触らないだろうか? そんな心配も浮かぶ。

 しかし、スキンシップは求めてくるあいつだが、露骨なセクハラの類はされたことがない。だからそれは大丈夫かと思う自分もいる。とにかくこの体幹トレーニングも自身の成長のためだ。


「じゃぁ、これがメニュー表だから頑張って」

「頑張ります……」


 希はキョウカがバインダーから抜き取ったメニュー表を受け取った。あいつのことを心配しても、なんだかんだで大丈夫だろうと結局希は楽観した。

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