第三十楽曲 第五節
この日スタッフ証を首から提げた大和は日も傾き始めた頃、客席の音響ブースに赴く。アーティストの入れ替わりのタイミングとは言え、忙しそうに無線で指示を飛ばしている無精ひげの男に気を使う。しかし大和に気づいたその久保の方が先に声をかけた。
「菱神さん。トップバッターありがとうございました」
「いえ。こちらこそこんなに大きなステージに立たせてもらってありがとうございます」
「いやぁ、もう助かりました。1発目にあれだけ盛り上げてもらって」
「恐縮です」
その後のアーティストにこれ以上ないボルテージにて繋げたことで、久保は目を細めている。大和は評価をしてもらって顔が綻んだ。
「今、メンバーは?」
「さっきまでローディーとステージを観てて、今はシャワーと着替えです」
「そうですか」
久保の表情は実に満足そうである。無論、大和が言ったローディーとはインディーズ界の先頭集団、スターベイツのツヨシとタローだ。本来恐れ多い話ではあるが、2人は鼻の下を伸ばして楽しそうにしているから今日は気にしなくていいかと思う。
すると久保がポケットから革製のケースを取り出した。そして言うのだ。
「できれば今後、もし何か一緒にお仕事ができると嬉しい」
久保が差し出したのは自身の名刺である。名刺を貰えると思っていなかった大和は慌てて財布を取り出す。普段は名刺入れを持ち歩いているがこの時は持っておらず、予備で入れておいた名刺が財布に2枚ほどあった。
「光栄です。こちらこそ」
お互いに晴れやかな表情で名刺交換をする。大和は名刺を作っておいて良かったと安堵した。
それは泉との再会の時。今まで名刺を交換するような付き合いはジャパニカンミュージックの吉成だけであった。しかしその窓口担当が泉に代わり、名刺を持ち合わせていない大和は受け取るだけだったのだ。
その反省をもとに名刺を作った大和だが、彼は個人事業主である。肩書はゴッドロックカフェの経営者とフリーの作曲家、アレンジャーだ。
「ほう。ロックンロールバーを経営されておいでで?」
「はい。そこで彼女たちの指導もしてます」
「それでしたらお届け先はお店でよろしいですか?」
「ん?」
何を送るつもりなのか解せない大和。一方久保は、飛び入りなのだから話が通っていないのは当たり前かと思い出した様子で、説明をした。
「今日のステージ映像をDVDに焼いてお渡しすることになっておりまして」
「へぇ、そうなんですか」
「はい。編集が終わったらお送りします」
「なるほど。それでしたら送り先は店で大丈夫です」
ゴッドロックカフェはダイヤモンドハーレムの拠点だ。事務所と言っても過言ではない。尤も何の事務所にも所属していないバンドだが、それでも送り先は店が一番しっくりくる。
「ただ、権利はこちらにあるので無断で公開しないようにだけご注意ください。仲間内でご覧になる分には問題ありません」
「わかりました」
大和は笑顔で了承すると、常連客達の顔を思い浮かべた。この後の話で、店内で視聴のための料金を徴収せず、彼らだけに見せることは問題ないとのことなので、立派な土産になったなと喜びが湧く。
大和はこの場を立ち去る前の最後の言葉をかけた。
「すいません。本来、ステージが終わるまでいたいのですが、今ツアー中でもう次の場所に行かなくてはならないんです。今日はここで失礼させていただきます」
「そうですか。活動が活発なようで何よりです。お気をつけて」
「今日は本当にありがとうございました」
大和は深く頭を下げてこの場を去った。そしてその足で海の家に行った。
「メンバーはまだ着替え中?」
大和は海の家の小上がりになった茣蓙の上で寛いでいたツヨシとタローに問う。大和が戻って来たことに気づいて、ツヨシが振り向いた。
「あぁ。けどもうそろそろ戻って来るんじゃないか?」
「そっか」
大和も靴を脱ぐと一緒になって寛いだ。そして2人に言う。
「今日は誘ってくれてありがとう。みんな楽しそうだった」
「いや。俺らも十分楽しんだから」
「確かに。鼻の下伸びっぱなしだったね」
「否定はせん」
ツヨシの返事にクスクス笑う男3人。全国を回ればこうして交流ある音楽仲間がまだいる。それが大和には嬉しく、そしてありがたみを感じる。
「ローディーもありがとう。助かったよ」
「それこそこっちがありがとうだよ。代役を受けてくれたおかげでケンタに恩が売れたし」
「ははは。今度一杯奢ってもらってよ」
「そうする」
「それからこれ」
「ん?」
大和が2通の茶封筒を差し出すので、首を傾げるツヨシとタロー。
「今日のローディーの日当」
「は? いらねぇよ。元々俺らに来た打診を受けてもらって、しかもローディーだって俺らが好きでやったんだから」
「そんなこと言わずに受け取ってよ。実はそれなりの額のギャラをもらうことになっちゃって……」
頭をかきながら「あはは」と笑う大和。普段のライブハウスの売り上げバックよりは多いその額に恐縮しきりだ。ギャラが発生するのはわかっていたが、厭らしい質問だと知りつつもタローが「いくら?」と問い掛ける。
「このくらい」
「ぶっ!」
大和が立てた指を見て、口に運んでいた飲み物を吹き出すツヨシとタロー。すかさずツヨシが言う。
「そんなにかよ? それなら無理やりでも他のメンバー引っ張り出せば良かったな」
「だからさ。紹介料も込みで色を付けた日当にしてあるから」
「ははは。それなら遠慮なく頂くか。うちの他のメンバーには内緒な」
「わかった」
ツヨシとタローはにっこり笑って茶封筒をポケットに突っ込んだ。
「おっまたせー!」
そこへ元気よく登場したのは古都である。他のメンバーも彼女に続いていた。皆、私服に着替えていて、シャワーを済ませた後のその髪はまだ乾いていない。
「さ、それじゃ行こうか」
「慌ただしいな。ゆっくりしていけばいいのに」
足を伸ばして床に手をついた状態のツヨシが言う。そうしたいのも山々なのだが、大和は恐縮そうに答えた。
「8時からは静岡でスタジオ練習だから」
「今まで演奏してたのに?」
「それは予定外だから」
「ほえ。頑張るね」
小上がりの男3人は立ち上がり、靴を履くと大和の車まで移動した。車内ではこの日演奏に使った機材が既に詰め込まれている。古都と希はそれぞれ窓を全開にして、古都がそこから顔を突き出して言う。
「ツヨシさん、タローさん。今日は本当にありがとうございました。すっごく楽しかったです」
その煌びやかな笑顔にクラッとする2人だが、なんとか意識を保って答える。
「いや。こっちこそありがとうな。楽しかった」
「また対バンできるといいですね」
「お! こっちに呼んだら来てくれるか?」
「もちろん!」
「おい……」
すかさず運転席の大和が口を挟む。そして目を細めて古都に言うのだ。
「運転手は僕だろ?」
「えぇ? ダメ?」
その困り顔もこの美少女が表現すると格別だ。大和は少し頬を赤くしながらもやれやれと思う。そこへ面白おかしくツヨシが割って入る。
「はっは。いいじゃん、大和。日帰りでも来れる距離なんだから」
「いやいや。ライブが夜に終わってから帰るんじゃ、地元に着くのは夜中だよ」
「そう言うなって。静岡挟んで隣だろ?」
「神奈川と隣だって認識は今までなかったよ」
「確かに。静岡が東西に長いからな」
「とは言え、対バンの誘いなら大歓迎だから、是非声をかけてよ」
「あぁ。その時は頼むな」
そんな言葉を交わして大和はシフトレバーをドライブに入れた。そしてゆっくり走り出すハイエース。古都が窓の外に身を乗り出してツヨシとタローに手を振る。
「ばいばーい。またお願いしまーす」
同じくセカンドシートの3人も窓に身を寄せて手を振る。ツヨシとタローはデレッとした表情で、傾きかけた夏日に照らさるハイエースを見送った。
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