第九楽曲 第四節
唯と古都が散歩からバックヤードに戻ってくると室内にいた3人は片づけを進めていた。その様子を見た古都が開口一番に問う。
「あれ? 終わっちゃったの?」
「うん。これから全体練習の時間だよ」
「あ、そうか」
土曜日のこの日は全体練習もある。それを美和が指摘したのだ。散歩から戻ってきた頃にはもうそんな時間であった。
「どのくらい進んだ?」
「私のパートは3曲録り終えた」
「そっか、そっか」
続けて美和に質問をすると、返ってきた返事に満足そうに頷く古都。美和のレコーディングはそれなりに順調のようだ。古都との散歩で自信を取り戻した唯ではあるが、足を引っ張ってしまったことへの恐縮の念はまだ拭えない。
バックヤードの片づけが終わるとステージに移動したメンバーと、ホールの客席に腰を据えた大和。この日の全体練習が始まった。
ステージから見える光景は大和しかいないいつもの練習風景。これには3カ月目にして唯ももう慣れている。この時は順調にベースを弾き鳴らすことができる。大和からの指導は所々入るものの、それは演奏の足を引っ張っているわけではないので、レコーディングの時とは意味が違う。
唯はこの調子でレコーディングができない自分が悔やまれる。それでも古都との散歩でいくらか吹っ切れた唯の演奏にはなんとか自信が戻っている。
練習後、土曜日のこの日の店は多くの常連客が来店し賑わっていた。カウンター席では山田と田中が古都を挟み、木村と勝が希を挟んでいる。
「へぇ、のんちゃん順調に音録りしたんだ」
「さすが希」
「……」
「本当、のんちゃんはさすがですね、お兄さん」
「あなたにお兄さんと呼ばれる筋合いはない!」
「……」
ホールでは藤田と響輝が美和と一緒に1つの円卓を囲んでいる。その隣の円卓には唯と高木が着いていた。
「視線が集まると緊張で何回も失敗しちゃって、まだ1曲もベースが録れていないんです」
「そっかぁ。とは言え慣れだからそんな気にすることないよ」
唯からレコーディングの調子を聞いて励ます高木。唯の手元にはあまり進まないレモネードが置かれている。高木は一口カクテル瓶を煽った。喉が潤いと共に熱を帯びる。
「クラシックやってた時だってコンサートはあったでしょ? その時はどうだったの?」
「あの頃は楽団の人数も多かったですし、視線の数も多かったですけど分散されているような気がしててまだ楽でした。それに私の視線は指揮者に集中してたから」
「あぁ、なるほど」
視線が集まることに緊張を感じる性格にも色々と種類はあるのだなと納得する高木。彼は胸ポケットから煙草を取り出そうとしたが、一度手を当てて思い止まった。目の前にいるのは煙草を吸わない女子高生。周囲に吸っている客はいるが、それでも目の前で臭いが付着する行為を取ることに気が引けたのだ。
「高木さんは現役の時、ステージではどうでした?」
「俺も最初は緊張したかな。そもそもベーシストって目立ちたがり屋が少ないじゃん?」
「確かに。そんなイメージです」
ほんの少しだけ笑みが零れた唯は手元のレモネードを口に運んだ。蜂蜜の風味が舌に心地いい。
「どうやって克服したんです?」
「まぁ、何回もライブやって慣れたって感じだね」
「録音とかは?」
「それは視線の数が少なかったから俺の場合は緊張しなかったな」
緊張する場面は人それぞれ。普段からあまり自己主張ができず、引っ込み思案な唯は事あるごとに緊張している自分が恨めしく思う。すると高木が思い出したように言った。
「そう言えば、一緒にやってたギターのメンバーは目立ちたがり屋でステージでは盛り上がってたくせに、録音ってなるとやけに緊張してたな」
「へぇ、そうなんですね」
「静かなところで注目を集めて演奏することが合わなかったみたい」
「克服はしたんですか?」
「バンドの
自分も一人で録音できるならうまくいくだろうかと、ふと唯は考える。しかしそれでは根本的な解決策にはならない。ライブを目指して練習や創作に励んでいるバンドなのだから、実際ステージに上がった時の不安が残る。
周囲の客が吸う煙草の煙が薄くスモーク演出を施したように店内に充満する。その煙は一度店内を彷徨うと、換気扇に吸い込まれて行った。
結局具体的な解決策は浮かばないまま、この日まだいくらかの不安を残しながらも、唯は勝が運転する車に乗って自宅に帰った。
自宅に着くなり、音楽部屋の照明が消えていることは外から確認できた。つまり姉の彩はピアノを弾いていない。少し残念にも思ったが、既に22時を過ぎているのだから仕方がないかと自分を納得させる。
「お姉ちゃんの演奏会は明後日か……」
玄関を上がるなり音楽部屋の閉められたドアを見て呟く唯。その独り言は更に続いた。
「そう言えば、お姉ちゃんはステージで緊張しないのかな」
自分ほどではないにしろ彩もあがり症なイメージを持つ唯。どうなのだろうかと興味を抱くが、この日は精神的な疲労もあって風呂を済ませると彩と顔を合わせることなく床に就いた。
翌日も昼過ぎからレコーディングが始まった。メンバーと大和はバックヤードに集まっている。
「えっと、今日は……、唯からいってみようか? どう? やれそう?」
「あ、はい。頑張ります」
「うん。多少間違えても部分的な録り直しもできるし、気にせず演奏して」
「わかりました」
商品音源ではないので部分的な録り直しは大和のやり方にはあまりそぐわない方法である。そもそもライブハウスに持ち込む目的の音源であるため、本来はライブ音源か全パート一発で録った音源が理想的だと思っている。
しかしライブの経験がまだないバンドであるし、一発録りをするにはメンバーの経験が足りなすぎる。大和はそう考えて今回の方法を選択している。それを知らない唯は大和の間違えてもいいという言葉にいくらか気が楽になっていた。
「うん、いいね」
唯が2、3回ずつ5曲の演奏を終えると大和は納得の言葉を向けた。1カ所も間違えずに弾けた曲は1曲もないがそれには目を瞑っている。
今日ももし昨日のような調子だったなら、バックヤードに唯だけ残し、ホールの音響コーナーからマイクを通してヘッドフォン越しに指示を出して、機器の録音操作をしようかとも考えていた。そこまで至らずなんとか許容範囲だと思っている。
ここで唯に過剰な重圧を与えても事はいい方向に進まないどころか、唯を潰してしまう恐れもある。同じベーシストとしてその伸びを認めている大和の現時点での妥協である。
「はぁ……」
肩に入っていた力がどっと抜けた唯。演奏に納得はしていない。それでもなんとか進んだことに安堵の色は隠せない。他のメンバー3人も心配して見守っていたのだが、一様に表情が和らいだ。
「唯、お疲れ」
明るい表情で唯の肩を叩く古都。美和も同様の言葉をかけて自身の演奏の準備に取り掛かる。希は大和と一緒にヘッドフォンを被り現時点で録り終えている分の演奏を聴いていた。
この後、美和は順調に演奏をこなし、そして古都までも少ないミスで自分のパートを取り終えた。さすがにこの2人は作曲の時に録音をした経験があるだけあって、唯と希に比べれば慣れている。
「じゃぁ、今日はここまでにしよう」
「歌は録っちゃわないの?」
切り上げようとした大和に問い掛ける古都。この時時刻はまだ夕方にもなっていない。古都は更に言葉を足す。
「今日、お店休みだし時間はあるでしょ?」
「まぁ、録ってもいいけど明日も予定してるし、今日じゃなくてもいいでしょ」
「そっか。じゃぁ、明日までに喉の状態を万全にしとく」
特にこの日の喉の調子が悪いわけではないが、古都がそんなことを得意げに言う。すると唯が遠慮がちに口を開いた。
「あの……、ボーカルとコーラスは一緒に録りますか?」
「いや。ボーカルを録った後にコーラスを録るつもり」
「えっと……、明日、少し遅れて来てもいいですか? 1時間もは遅れないと思うので」
「うん、わかった。いいよ」
ボーカル録音に立ち会わないことに団体行動の輪を乱すかと心配した唯だが、思い切って大和に相談した。それに承諾してもらえたので唯は安堵したのだった。
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