第九楽曲 第五節
祝日の月曜日、唯は備糸駅で電車を降りると市民会館に向かった。綺麗な黒髪をハーフアップにしていて、落ち着いた柄のワンピースに薄手の淡い色のカーディガンを羽織っている。手には途中の花屋で買った小さな花束を持っていた。
その清楚な出で立ちに過行く男達が振り返る。そんな視線に若干気圧されながらも唯は程なくして市民会館の小ホールに到着した。
ホールの扉を開ける前に一度時刻を確認すると13時だった。この日13時からのダイヤモンドハーレムのレコーディングを遅刻させてもらっている唯は、姉の彩のピアノの演奏会を観に来ていたのだ。
ホールの中では既にピアノの演奏会が始まっており、ちょうどこの時間からの演奏者が演奏を始めたところであった。耳に心地いいピアノの音色がホール全体に響き渡る。
「確か、お姉ちゃんは13時20分からだったから間に合ったよね」
声に出さずにそんなことを思った唯はなるべく物音を立てないように、観衆の視界を遮らないよう屈みながら進み、空いていた正面中ほどの席に座った。
周囲は皆一様に紳士淑女の格好をしている。それでも演奏者より目立たないようあまり華美にはならない服装という印象だ。幼少期からこの手の演奏会には何度も足を運んでいる唯なので、装いの選択は間違いなかったようだ。
唯はスマートフォンを取り出すと、液晶画面の光が周囲の迷惑にならないようひざ元で操作した。
『バンド遅れること言ってあるから演奏会来ちゃった』
着席一番唯が打ったメッセージは彩のスマートフォンに送信された。するとすぐに既読が表示され、返事が届いた。
『本当!? 嬉しい! 演奏終わったら少し話そう?』
『わかった。ホールの外で待ってる』
現在控室にいるのであろう姉からのメッセージに返信をして唯はスマートフォンをバッグに仕舞った。
やがてステージ上の演奏者が演奏を終えると一度照明が落ち、一時の間を経て再びスポットライトが点灯した。その時にステージに現れたのは発表会用のドレスに身を包んだ唯の姉、彩である。
盛大な拍手の中、彩は深くお辞儀をするとピアノの椅子に腰かけた。その仕草はとても上品で、久しぶりにステージ上の姉を見る唯はその立ち居振る舞いに彩が大人の女性なのだと実感させられた。
そして始まった演奏。唯は静かに聴き入った。彩の奏でるピアノは優雅で、その音の世界に唯はすぐに引き込まれた。コントラバスを始める前はピアノを弾いていた唯だが、その時は姉を目標にしていた。しかしその唯が知る姉はもうどこにもおらず、音色に癒されるとともにその技術の高さに圧倒されるばかりだった。
やがて彩が演奏を終え、椅子から立ち上がると客席を向いて再び深くお辞儀をした。途端に鳴り響く盛大な拍手。演奏の前とは全然違うそのボリュームは評価の表れであり、唯も心からの賛辞を手を叩くことに代えて観衆の波に乗った。
その時ステージ上の彩は晴れやかな笑顔を浮かべており、それがまた唯には眩しく映った。彩が自信を持って演奏をしていたことは演奏中からわかっていたが、それが改めてよくわかった。
この後席を立った唯はホワイエに移動し、隅に据えられたソファーベンチに腰掛けた。すると「唯」と名前を呼ぶ彩が穏やかな笑顔を浮かべて現れた。それにつられるように笑顔になった唯はソファーから立ち上がると手に持っていた花束を渡した。
「お姉ちゃん。お疲れさま。凄く良かったよ」
「嬉しい。来てくれてありがとう」
この後ゴッドロックカフェに行かなくてはならない唯はあまり時間がない。二人でソファーベンチに座ると感想もそこそこに、唯は気になっていたことを聞いた。
「お姉ちゃんって緊張しないの?」
「え? するに決まってんじゃん」
彩からしてみればまさかの質問であるが、唯が知る彩は自分ほどではないにしろあがり症だ。この日久しぶりに見たステージ上の彩の演奏は自信に溢れていて、演奏後の晴れやかな笑顔からも彩の緊張を感じなかったのだ。そんな彩は自身の妹にどういう意図の質問だろうかと思いながらも、優しい笑顔を向けることで先を促す。
「緊張してたのに演奏に自信を感じた」
「そりゃ、自信は持ってるよ」
「そうなの?」
「うん。そうでないと教えてくれた先生や聴きに来てくれたお客さんに失礼じゃん」
「でも、それって逆にプレッシャーにならない?」
そう、ここまでは彩の言うことに理解ができる。唯自身は軽音楽でのステージはまだ経験していないが、デモ音源のレコーディングの時点でこの体たらくだと卑屈になっている。将来のステージに対して不安が拭えないのだ。
「何年か前まではそれがプレッシャーになってて失敗したな」
そう切り出して話し始めた彩。幼少期の姉のその失敗を見た記憶のある唯は納得する。
「けどね、自信を持って演奏して、それを達成して、たくさん拍手をもらえた時はお客さんから評価してもらえたんだって嬉しくなるし、ステージ袖に下がって先生に褒めてもらえた時は、先生のその報われたって笑顔が嬉しくなるの。だからそれを目指して演奏してる」
そう言う彩は最後に「もちろん他にも自分のためとか色々モチベーションはあるんだけどね」と付け加えた。なるほどなと納得するのは唯で、プレッシャーをポジティブに捉え、それを達成できた時は大和やメンバーが喜んでくれるかもしれないと思った。いつになるのかわからないステージでも観客に喜んでもらえたらと思った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「ん?」
「私、もう行くね」
唯は立ち上がるとバッグを持ち建物を出た。その時の唯は憑き物が取れたように晴れやかな表情をしていた。お礼を言われることに心当たりがない彩であったが、妹のその表情を見て満足そうにその背中を見送った。
市民会館からゴッドロックカフェまで徒歩で十数分の距離だが、気が楽になり早くバンド活動に加わりたかった唯の足取りは軽い。時々小走りもして十分ほどで店に到着した。
「あ……」
裏口は施錠せずに開けてもらっていたが、バックヤードのドアに『録音中』のプレートが掛けられている。今開けてはまずいタイミングだと唯は悟った。それなのでスマートフォンを取り出し、バンドのグループラインに到着した旨のメッセージを送った。
するとすぐにドアが開いた。
「唯、お疲れ。ごめん、プレート録音中のままだ」
ドアを開けたのは美和で、その手で押さえて開いたままのドアの先では大和と希がヘッドフォンを被っている。しかし古都が椅子に座って唯に笑顔で手を振っているので、実際はプレートに反して録音中ではないことがわかる。
「ごめん、お待たせ」
「今、ボーカルは全曲録り終わったとこだよ」
古都の説明を聞いて状況を把握した唯は古都の隣の席に着いた。すると古都が言葉を続けた。
「なんか今日めっちゃ綺麗な格好してるね? 何の用事だったの?」
「市民会館でお姉ちゃんのピアノの演奏会を聴きに行ってて」
「そうなんだ」
古都も美和も心なしか唯の表情が晴れやかに感じているのだが、それは気のせいではない。前日までの思いつめた感じとは別人のようだ。
すると大和と希が同時にヘッドフォンを外した。
「うん、いいね。――唯、お疲れ」
「お疲れ様です」
大和と唯が挨拶を交わすと希も一言「お疲れ様」と声を掛けた。すると唯は思い切って大和に意見を言った。
「大和さん、あの……」
「ん?」
「ベースを録り直したいです」
「ベースを?」
きょとんとした表情の大和だが、唯以外のメンバーも同様だ。唯1人だけが真剣な目をしている。
「はい。演奏に納得できていないので」
「まぁ、デモだしそこまで拘らなくても……」
「ダメです。今後のこともありますから」
唯の自己主張は珍しく、その言葉から彼女の強い意志を皆が感じる。
「わ、わかった」
若干気圧された感じはあるが、大和は承諾した。そしてそのまま唯の再レコーディングが始まった。
その演奏中、大和とメンバーは一様に感動していた。元々の楽器経験から技術の高い唯であるが、そのポテンシャルを遺憾無く発揮しノーミスで5曲を弾き切ったのだ。
「はぁ……」
演奏後、安堵の溜息を漏らす唯。皆が感心する中、気分の上がった古都が声を上げる。
「私も歌録り直したい。このノリの中で歌いたい」
ピンと腕を天井に向ける古都。そんな古都のやる気を見て大和と希は断ることもできず、ボーカルの録り直しも行った。その後、コーラスを録って3日間に及ぶレコーディングは終了した。この場の全員がやり切ったと満足感でいっぱいになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます