第三楽曲 ドラマー

奥武希のプロローグ

 私のママは私がまだ小学校に上がる前に家を出た。理由は他に男を作ったからだ。今より若年の私がこの時いきなり知るべき理由ではなかった。それからはママを奪った男という生き物を毛嫌いしていた。唯一心を開けたのは優しいパパだけだった。


 小学生になると、パパが地域活動に積極的なこともあって、私は地元の郷土クラブで和太鼓を叩いていた。しかし出て行ったママのことから人間不信にもなっていて、なるべく人と関わりたくなく小学校卒業と同時にクラブを辞めた。


 パパは私が中学校に上がるとすぐに再婚をした。頭ではわかっている。パパにも幸せになる権利があると。辛い思いをして離婚歴が付いてしまったのだから。しかし、思春期の私に受け入れることは難しく、パパまでをも取られたという感情に押し潰され、私は引き篭もるようになった。

 一戸建ての自宅の2階の自室で、私は学校に行く時しか部屋を出ず、ゲームをして、漫画を読んで、アニメを見た。二次元の世界だけが私の居場所だった。今にして思えば学校に行っていただけでもマシだったのかもしれない。


 しかしそんな私にお節介にも絡む奴がいた。パパの再婚相手である玲子れいこさんの連れ子、まさる君だ。私とは8歳もの歳の差がある。


「俺も混ぜて」


 私が中学2年まで大学生だった勝君は、頻繁に私の部屋に来て迷惑にも一緒にゲームをしようと割り込んできた。


「今希が読んでるお勧めって何?」


 お勧めの漫画を教えてと本棚を漁った。アニメを見ていれば黙って隣に座って一緒に見た。はっきり言って鬱陶しかった。

 学校での休み時間は一応のグループで会話はしたし、トイレ友もいた。しかし私はリアルの人間と触れ合うのが大の苦手だった。


 私が中学3年になり、社会人になった勝君は、残業で帰りが遅くなることが頻繁にも関わらず、必ず私の部屋に顔を出すことを止めなかった。


 それは私が夜中に漫画を読んでいる時だった。廊下に漏れる室内灯から私が起きていることがわかったのだろう。


「寝る前に何か漫画読みたかったんだよ。――痛てっ!」


 私は本棚を物色する勝君に枕を投げつけた。それは見事に勝君の頚椎にクリーンヒットしたのだ。クッション素材と言ってももしかしたら痛かったのは本当なのかもしれない。私の口数があまり多くないことは認識している。そんな私が振り返る勝君に怒鳴った。


「いい加減にして! 私は一人の時間が好きなの!」


 勝君は表情を無くして立ち尽くしたが、すぐに我に返り「ごめん」と小さく言って私の部屋を出て行った。そして勝君が私の部屋に寄り付くことはなくなった。


 それから私は存分に引き篭もり生活を楽しんだ。どこか心にぽっかり穴が空いている感覚にも気づかず。いや、意識的に気づかないようにしていた。だから漫画とアニメとゲームに没頭した。


 そんな日が流れ、中学三年の私の誕生日だった。朝起きると一日の最初の日課である時刻確認をしようとスマートフォンを探した。私は瞼を下ろしたままの暗い視界の中で枕棚を手探ったのだ。


「ん?」


 すると、スマートフォンとその充電器しか置いていないはずの枕棚に壁を感じた。何事かと思い、私は身を捩って目を開けた。視界に映った枕棚にはラッピングされた箱が置かれてあった。

 これは誕生日プレゼントで贈り主は勝君だとすぐに気づいた。パパならオープンに渡すはずだし、玲子さんに私は心を開いていない。プレゼントをもらえたとしてもこんなやり方はしないだろう。


 私はとりあえずと言った感じで箱を開けた。そこには私が気になっていた漫画が総勢20冊も入っていた。


「どうして……」


 こんな言葉しか出なかった。目が熱くなるのを感じるが、そんなことは気にする余裕がない。私の好みをしっかり把握して、喜ぶものを贈ってくれた。私をちゃんと見てくれていた。その気持ちが嬉しかった。


 私は急いで1階に下りた。キッチンで玲子さんが朝食の準備をしており、私を見るなり笑顔を向ける。パパはもう仕事に出掛けたようだ。


「希ちゃん、おはよう」

「おはようございます。勝君は?」

「今日は早出しなきゃいけないって言ってもう出掛けたわ」

「そうですか……」


 感情で出てきてしまったが言葉を用意していなかったことに気づき、私は胸を撫で下ろした。ここで顔を合わせても何も言えない。おかげでこの日一日学校から帰宅して勝君が帰って来るまで、心を落ち着かせることができた。


 そして私は夜更けに行動に移った。勝君がもう帰ってきていることは確認している。そしてお風呂も済ませて今はただ自室で寛いでいるのだともわかっている。動くなら今だ。


 コンコン


 私は勝君の部屋のドアをノックした。室内から「どうぞ」と勝君の声が返ってくる。私は数冊の漫画を持った手とは反対の手で恐る恐るドアを開けた。


「あ、希。どうしたの?」


 普段はセンター分けの髪型にお洒落な眼鏡を掛けているが、お風呂上りのこの時は髪が無造作に下りていて、淵眼鏡を掛けていた。整った顔立ちをしている勝君。私の部屋に立ち寄らなくなってからも、顔を合わせれば接し方を変えることはしない彼を私は見据えた。


「これ」


 私は短くそれだけ言うと手に持っていた漫画を差し出した。


「ん? これは?」

「今私が一番お勧めの漫画」

「わぁぁぁぁぁ」


 この時の勝君の嬉しそうな顔と言ったらない。とても無邪気だった。世間では見た目歳相応のイケメンと呼ばれる部類なのだろうが、一切浮いた話も出ない勝君が子供みたいに喜びを表現したのだ。


「私の本棚の並びわかるよね?」

「うん!」


 勝君は弾んだ声で返事をする。私は終始俯きながらも目を上に向けなんとか勝君を捉えている。


「読み終わったら仕舞っといて」

「わかった!」

「あと、気が向いたらまた今度ゲーム付き合ってあげる」

「やった!」


 この時23歳とは思えないほどの無邪気振りである。私は意を決して最後の言葉を喉まで通した。恥ずかしかったので、踵を返し部屋のドアに手を掛け背中越しに言ったのだ。


「プレゼントありがとう、お兄ちゃん」


 私はそそくさとドアを閉めた。その時のドアの音と一緒にバタンと部屋の中から音がしたのだが、この時は何の音かわからなかった。後から知ったのだがその音はお兄ちゃんが床に倒れた音だったらしい。なんとお兄ちゃんは萌えて倒れたのだ。私の「お兄ちゃん」と言うワードに。ここまで歩み寄ったのは今にして思えば失敗だったと思う。


「ちょっと。近い」

「ん? そう?」


 これは私の部屋で一緒にゲームをする時に毎回出る会話だ。お兄ちゃんはいつも肩を密着させてくる。


「希、膝枕」

「絶対嫌」


 これは一緒に漫画を読んでいる時の会話だ。


「このヒロイン萌えるけど、希の方が断然上だな。希は神だ」

「……」


 これは一緒にアニメを見ている時のお兄ちゃんの独り言だ。


 そう、お兄ちゃんは重度のシスコンだったのだ。ずっと妹に憧れていたそうで、親の再婚を機にそれが実現した喜びからこじらせたらしい。だから浮いた話がないのかと納得してしまった。

 お兄ちゃんからのスキンシップは正直気持ち悪いが、一緒に遊んでいるのはあまり悪い気がしない。ただこのお兄ちゃん、お給料から捻出されるお小遣いと言える枠を全て私のために使う。何でも買い与えようとするのだ。さすがにこれには気が引ける。


 そんなこんなで高校生になった私だが、相変わらず外の人との距離は一定に保つ生活を送るつもりでいた。しかしシスコンの兄に並ぶべく私の懐にズカズカと踏み込んできた御転婆娘と出会う。


 ――なんと言うことだ、私の気楽なシングル生活が。完全に犯されている。


 出会いは高校の入学式の翌週だった。私は学校帰りにゲームセンターに1人で来ていた。そこで和太鼓のゲームをしていたのだ。プレイ中から背後に人の気配を感じていたのでナンパだったら嫌だなと思っていた。


「凄い! リズム感いいんだね」


 ゲームが終わった私の背中に飛んできた声は女の子のものだった。振り返るとそこには、同じ備糸高校の制服を着て満面の笑みを浮かべた美少女が立っていた。

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