第一楽曲 第一節
それは3月の寒さが残る日だった。開店直前、
「いらっしゃいませ。開店もうすぐなんですが、掛けてお待ち下さい」
大和にとって初めて見る客だった。スーツ姿で頭を整髪料でしっかり整えたダンディーという言葉が似合う中年の男だ。シャープな眼鏡を掛けていて清潔感が見て取れる。その男はカウンター席の前に立つと椅子には座らず大和に名刺を差し出した。
「カウンター越しに失礼します。私、ジャパニカンミュージックの吉成章吾と申します」
「は、はい……」
吉成と名乗った男は嫌味の無い笑みを薄く浮かべている。大和は差し出された名刺を受け取りまじまじと眺めた。
「え!?」
聞いた瞬間こそピンとこなかったが、大和は社名のロゴを見て思い出した。ジャパニカンミュージックは業界大手のレコード会社である。しかもこの吉成、肩書きが専務になっている。
東京にオフィスを構える有名会社の重役が、なぜこれほど離れた街のバーに来ているのだ? 大和のその疑問を知ってか知らずか、吉成は続けた。
「菱神大和さんにお仕事のご依頼をさせて頂けないかと思いまして」
「お仕事……ですか?」
「はい。当社と専属で契約しているアーティストへの曲の提供や、当社から発表する楽曲の編曲をしていただけないかと思ってお邪魔しました」
お仕事……つまり作曲家としての楽曲提供とアレンジャーの依頼だった。これは大和にとって願ってもいない話で、この店を引き継いでから最初の吉となった。
4月に入ったばかりのこの日、大和はゴッドロックカフェのバックヤードで作曲をしていた。時間帯は昼間。店の開店まではまだ余裕があり、大和以外店内には誰もいない。
ゴッドロックカフェは営業時間が19時から0時までだ。大和は開店準備のため基本的に17時には店に入っている。と言っても、店の2階に1LDKの住居があり、大和はそこで一人暮らしをしている。そのため通勤時間は屋外階段を1フロア下りるだけだ。
店には10席ほどのカウンター席とホールに4人掛けの円卓が4卓ある。そのホールでは生演奏ができるようになっていて、ホールに向いて小さなステージがあり、ドラムセットやアンプなど一通りの楽器と機材は揃っている。ホールのステージとは対面に位置する背面に、音響や照明の調整をするPAコーナーがある。
大和は店内の裏手に当たるバックヤードにステージほどではないが大きめのアンプを、ギター用とベース用の2台置いて作曲をしていた。
このバックヤードは広い空間なので、店の備品庫のほか、パソコンが置かれていて事務所の役割も担う。更に4人掛けのボックステーブルを据えて、その上にミキサーや録音機器であるMTR、キーボードなどが置かれている。
曲作りの時、ドラムの音は電子音で吹き込んでいるものの、大和はギター、ベース、ドラムの演奏は一通りできる。鍵盤楽器の演奏は苦手と言ったところだ。
大和がエレキギターを弾き鳴らしているとスマートフォンが光った。特に録音中でもなかったので、大和はスマートフォンを優先するため演奏を止めた。すると単純な着信音が耳に届く。
「もしもし?」
『開けてくれ』
電話の相手は
この二人は実家が近所で、且つ小学校で同じクラスになった時、五十音順で並んだ座席が前後だったことがきっかけで仲良くなった。よくある単純な経緯である。
裏口を抜けた響輝はバックヤードの椅子を1脚拝借した。そしてギターを弾き鳴らす大和に問い掛けた。
「これが依頼受けた作曲か?」
「うん。とりあえず1曲だけど。出来を見て次からも依頼するって」
「ふーん。依頼してきておいて上からなんだな」
「創作の仕事ってそんなもんでしょ。響輝も紹介しようか?」
「いや、俺はパス。作曲でプロになるほどもう熱がないから」
響輝はこの4月から工場での仕事を始めており、就職後は初めて来店する。営業時間中に来ることもあれば、こうして開店前や閉店後に来ることもある。土曜日のこの日、響輝は休日なのでこの時間帯の訪問なのだと大和は理解していた。
「仕事どう?」
「うーん……。色々気使うかな。夜勤がない部署だから大手の割に給料は安いし」
「そっか」
2人しかいない店内のバックヤード。大和が弾き鳴らすギターの音が度々止まると、そこに2人の会話が挟み込まれる。
「これいつまでに提出なんだ?」
「月曜日の朝に確認できるように送ってくれって言われてる」
「ん? 今日と明日しかないじゃん」
「そう。結構切羽詰まってる」
「手伝おうか?」
「うーん……。編曲の依頼だったらお願いしたいけど、作曲だけだからな」
「そっか。無理すんなよ」
そう言うと響輝は店のカウンターの内側に直接繋がったドアを開けてバックヤードを出た。勝手知ったる他人の店である。響輝はカウンター内で手慣れた様子でアイスコーヒーを2人分淹れた。
「大和。コーヒー淹れたから休憩しようぜ?」
「あ、うん」
大和はギターをスタンドに立てるとカウンター席に回った。そして椅子に座るなり大和から失笑が漏れた。
「何だよ?」
「いやさ。僕がカウンター席で、響輝がカウンターの中ってのもなんかシュールだと思って」
響輝は頬をポリポリと掻いた。目元まで伸ばした茶髪がその指に振れている。それが鬱陶しそうだから、大和は切ればいいのにといつも思っているのだ。更に細目の響輝は一度前髪が真っ直ぐに下りてしまうと完全に目が隠れてしまうのだ。
対して短髪の大和はいつもすっきりした表情をしている。それ以外にこれと言って特徴のない顔立ちだが、優しい印象を抱かせる顔つきだ。
「今作ってる曲が通ったらこれで大和も晴れてフリーの作曲家か」
「何か作曲家って言葉が恐れ多いけど」
「まぁ、大和にはチャンスなんだから頑張れよ」
「あぁ」
そんな話をしているとカウンターに置かれた大和のスマートフォンが鳴った。またしても着信である。昼間はあまり電話の着信が鳴らないスマートフォンなので、大和は珍しいなと持って液晶画面に目を向けた。
「え? 長勢先生?」
「マジ?」
大和が口にした「長勢先生」に響輝が反応した。大和のスマートフォンに表示されたのは高校時代の軽音楽部の恩師、
「もしもし」
『おう、大和か?』
「お久しぶりです」
大和が長勢と話すのは大和の祖父の葬儀以来である。この長勢は大和の高校時代、度々この店に来ており懇意にしていた。響輝が「俺にも代われ」と口と仕草で大和にアピールするがとりあえず大和は無視した。長勢は挨拶も程々に本題に入った。
『昨日、うちの高校入学式だったんだよ』
「そうなんですか。それなのに新学期早々今日は休みですね」
『ははは。まぁな。それでさ、新入生の一人にお前の店教えといたから』
「は? なんで?」
そこで響輝が大和のスマートフォンを奪った。一瞬の出来事で呆気なく大和の手からスマートフォンは滑り出た。
「ちわっ、響輝っす」
大和は疑問を残したまま響輝の会話を見ている。響輝は特に何の変哲も無い近況報告の会話をしているのだが、大和は新入生がどうして来るのかを早く聞きたかった。
すると程なくして会話が終わる雰囲気が読み取れた。
「はい。それじゃ」
「え? ちょっと待てよ」
大和の声も虚しく響輝は電話を切ってしまった。
「ん? まだ何か用事あったのか?」
「あったさ」
大和は自身のスマートフォンを奪い返すと着信履歴から長勢に折り返した。しかしコール音が続くだけで長勢は電話に出ない。長勢とはこういう男だ。一方的に電話を掛けてきておいて出ることは滅多にない。メールやSNSの返事もろくに返さないのである。
この後大和は集中して曲作りを進め、翌日には納得のできる曲を完成させた。そしてホッとして吉成にメールで曲のデータを送ったのだ。吉成からは丁寧なお礼のメールが返ってきて、大和はその時にはもう長勢と話した内容が意識の外に出てしまっていた。
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