第一幕 ―― 目覚めの朝、遠き日の思い出
浅い眠りの中で――握られていた手が強引に引かれると、温かで柔らかな弾力のあるモノの上にのせられる。まるでプカプカと湯船に浮かんでいるような心地良い感触。ヒマワリは寝返りを打って抱きつくように顔をうずめる。爽やかなシトラスの香りに誘われてゆっくりまつ毛を持ち上げると、それはアイリスの胸だった。
丸太造りの壁をくり抜いた窓から草の香りを乗せた風がそよそよと吹き込み、白いレースカーテンを揺らす。野鳥の声に催促されてヒマワリは起き上がると、まだはっきりしない寝ぼけた眼を指で擦り片腕を上に伸ばした。
大きな
昔は自分も朝が苦手でいつもカシアが当たり前のように起こしてくれたけれど、今にして思えばこんな無防備な姿を見られていたのかと思い、少し赤面した。
そして、かつて紫黒色だったアイリスの白い髪を優しく撫でてやると、彼女は寝言を言いながらヒマワリの手を掴んで頬に重ねた。彼女とはカシアを奪い合う仲だったけれど、頭に傷を負いシキミだった頃の記憶を失ってからは、すっかりその気概も失せてしまった。
ヒマワリはベッドから降りて素足を床に着けると隣室にある洗面台まで歩き、冷たい水で顔を洗う。眠気が一気に吹き飛んでお日様の香りがするタオルで顔を拭い、対面した鏡の自分に微笑みかけた。
寝室に戻ると着ていたシルク地のキャミソールを脱ぎ捨てて下着姿になる。化粧台に座り、ボブカットになった淡いブロンドの髪に櫛を通して首を左右に振る。寝癖が残っていないことを確認すると、クローゼットから水色のベビードールワンピースを手に取り、立ち鏡の前で小さな胸に合わせて頷いた。
最後にトレードマークになった赤縁メガネのフレームを耳に乗せる。翠色の瞳がレンズに映り込み、ヒマワリはワンピースの裾を叩いて満面の笑顔を作った。
――さぁこれで完璧、今日も素敵な一日が始まる。
ヒマワリは息を吸って両手を口元に当てると、いつもの勝ち気な声で叫んだ。
「起きなさい、寝ぼすけたち~っ!」
最後の決戦から3年の月日が流れた――。
新人類を生み出すため、人々を実験動物として管理し続けたジュークが崩壊した後のこと。カシアたちは他に残っていた4つの箱庭と親交を深め、シーヴァを中心とした新たな人類社会を構築しつつあった。
そして最後のアーキタイプであり、人類解放の英雄として祭り上げられてしまったカシアは、各箱庭出身者の代表と元管理者であるバイオノイドたちで構成された、円卓会議と呼ばれる議会の議長を務めることになる。彼を中心として様々なルールやインフラ計画が立案され、最近になって各地でようやく様々な事業が動き始めていた。
一方ヒマワリは、カシアとアイリスを連れてアキヴァルハラからシーヴァへ移り住み、放棄された農地の一部を譲り受けて小さな商会を設立。フラワーズと名付けられた農産物を商いとする商会は、無農薬を売りにしてその規模をどんどん大きくなり、ヒマワリが作った野菜が出回らない都市はないほど信頼を築いていた。
そして、事業が軌道にのって次にヒマワリが力を入れたのは、ジューク崩壊によって庇護を失った子供たちの救済だった。かつて自分が人とバイオノイドのハイブリット体として急速培養されたため、感情が幼く未熟な自分をコントロールできなかったことがコンプレックスとなり、カシア以外の人間に対し壁を作ってしまった。
そんなつらい想いを身寄りのない子供たちにさせまいと、農業を学べる小さな寮制の学校を設立し、ヒマワリ自身も講師として野菜の育て方を教えたりもしている。
今は農地の外れにあった森が見える野原に、みんなの手を借りて作ったログハウスで3人暮らし。記憶を失ったシキミ……いや、アイリスの面倒をカシアと二人で見つつ静かな日々を過ごしていた。
そんなある日のこと――。
20畳ほどある広いダイニング。二階の寝室から起き出したカシアがキッチン横に組んだ石窯に薪を組んで火を入れる。パチパチと乾いた音を立てて全体に炎が広がると、熱で舞った木の薫りがカウンターにいたヒマワリの鼻先にまで届いた。炎が大きくなりカシアの顔と真っ白な髪をオレンジ色に照らす。彼もまたアイリスと同じく、あの日から髪が白くなって元に戻らなくなってしまい、端から見ると二人は兄妹のようにも見えた。ヒマワリはそれが少し羨ましく思う。
一晩寝かせたパン生地をちぎって食べごろの大きさにこねる。その横へ瞳を輝かせたアイリスが指を咥えてこちらを見るので、新しい生地を手渡してやった。
「アイリスもやってみる?」
「うん!」
分けてもらった生地をアイリスが粘土細工のように思いのままこねくり回したが、ヒマワリが作ったモノとは似ても似つかず悲しい顔でこちらを見る。自分より背は高いけれど不器用な彼女にほだされて、つい笑みをもらしてしまう。
「じゃあ、一緒にやってみよっか。今日はクロワッサンを作るよ」
「やったー!」
無邪気なアイリスが両手を上げて跳ねると大きな胸も遅れて弾む。
「まずは木の棒で生地を平たく伸ばすよ」
「ふむふむ……」
「伸ばしたらこのスケッパーっていう金属板で周りをカットするよ」
「ふぉ~」
「長方形になったら今度は三角形になるように切っていくと……」
「ふぁ~!」
アイリスが発する謎の擬音が気になりつつも、ヒマワリが切り分けた三角生地をくるりと丸めると、クロワッサンらしい原型が出来上がった。いたって単純で簡単な作業だったが、アイリスには魔法のように思えたらしく手を叩いて喜ぶ。三角に切った生地を10枚ほど手元に置いてやった。
「さっきと同じようにやってごらんなさいな」
「ありがとう、ヒマワリおねーさん大好き! 巻くよ、すんごい巻くよ~!」
「はいはい、たくさん巻いて私を楽させてね」
「まかせて~!」
彼女が手元に生地を寄せてくるりと丸める。
「どう? どう? 上手にできた?」
「うんうん、その調子でどんどん作りましょ」
――まさに褒めると伸びるタイプ。
少し歪な形になっていたけれど一つ一つ個性があって、これはこれで愛嬌がある。
それにアイリスが心を込めて作ってるのだからカシアも喜ぶに違いない。二人は流れ作業で全ての生地を巻き終えると、トレーに並べて二次発酵させた。それからヒマワリは砂糖と卵を溶いたものを用意して、刷毛で丁寧に生地の表面へ塗っていく。
「カシア、準備できたわよ」
「うん、こっちもいい塩梅になったとこさ」
すると、アイリスも負けじと間に割り込んできて……、
「アイリスもね、頑張ったんだよ。これとね、これとね……これ!」
「はいはい」「はいはい」
ヒマワリとカシアは顔を見合わせて彼女の熱意に頬を緩めた。
トレー3枚分に敷き詰めたクロワッサンと、別に用意した食パン用の型を長い木の棒を使い熱が篭もった石窯の中へ押し込む。ほんのり狐色になって膨らみ始めるクロワッサンをまじまじと観察するアイリスの口はずっと開いたままだった。
火の番はカシアにまかせてヒマワリは自家栽培したレタスとトマトを冷水で洗い、トマトをほどよい大きさにカットする。レタスは水をしっかりと切って手で裂くと、葉に残った雫が陽に当たってみずみずしい黄緑色を反射させた。
他にも火をかけたケトルがコトコト音を立てたり、卵が煮えたり、ヒマワリは忙しなく動いてサラダとお茶の用意を済ませると、丁度カシアとアイリスが熱そうに焼きあがったパンを石窯から取り出していた。
ようやく朝食が出揃い、3人は丸い木製のダイニングテーブルを囲んで思い思いのトッピングに取り掛かる。バターに蜂蜜、木苺やラズベリーのジャム。サラダには自家製ドレッシング、それと粉チーズに黒胡椒、岩塩など、口に運ぶまでにやることはまだまだある。
ヒマワリは焼き立てのクロワッサンが熱くて何度も触りながら千切ると、バターに手を伸ばして適度に塗って口へ運ぶ。篭もった熱からパンに残った蒸気が口の中で広がり、トロけたバターが舌に落ちると、思わず「むふう」と声に出てしまう。
すると、向かいにいるカシアが声に出して笑った。
「どうしたの?」
「いや、ヒマワリもずいぶん変わったなと思ってさ。昔、セージとマツリカと暮らしてた頃は、パンから零れ落ちそうなほど甘~いジャムをてんこ盛りにしてたよね。丁度お隣さんのように」
視線を移すとアイリスが木苺とラズベリーのジャムを混ぜ合わせ、滴るほど盛ったクロワッサンにかぶり付いていた。口の周りをジャムだらけにしたアイリスがきょとんと二人の顔を見回す。
「いやいやいや、ここまでじゃなかったでしょう……?」
「うーん、そうだったかな~?」
カシアに意地悪く言われてヒマワリは赤面し、俯いてパンの皮を小さくかじる。
当時のことを思い返してみると、朝食は全てセージが用意をしていて目を醒ませばすでにそこへ用意されているものだった。今はこうして自分たちで朝食を作るようになったが、セージはこの3倍の量を毎日飽きさせないメニューでもてなしてくれた。
改めて考えると自分には到底真似できることではない。
人それぞれ得意なことがあって、みんなが持ち寄って社会になる。今でこそヒマワリも野菜づくりという形で社会に貢献できているが、当時の自分は我が強くてはみ出し者でみんなに沢山迷惑をかけてしまった。
それでもこうして今も傍らにカシアがいて、アイリスがいて、アキヴァルハラのみんなもいて……。
――これが幸せというものかもしれない。
それに気づいたヒマワリは嬉しくもあり、少し悲しくもあった。
実はカシアにまだ言えずじまいなのだが、ヒマワリは1年ほど前からずっと一人立ちを考えていた。以前はただカシアが好きという気持ちでシキミといがみ合っていたけれど、3人で暮らし始めてからすっかり毒気が抜けてしまった。それにカシアへの気持ちが恋人の好きから家族への好きに変化していて、自分が二人の邪魔者になっているかもしれないと思うようになったのだ。
でも、きっとカシアはそんなことはないと言う。それは分かっている。ただ自分自身に納得できないまま、このモヤモヤした気持ちを引きずっていくのはどうなのか?
いつかは告白しなければならないけれど、今は胸の奥へ押し込めておく。
ヒマワリは笑顔を作って自慢のサラダを取り分ける。チーズを削って岩塩を降ると、カシアがモチャモチャと口の中で噛んでいたものを飲み込み、今後の予定について語りだした。
「明日のカミツレ大祭、やっぱり僕が進行役になるみたいだからお祭りは二人で楽しんでおいでよ」
「え……? 仕切りは言い出しっぺのニゲラがやるんじゃなかったの?」
「うーん、そのはずだったんだけど…………逃げた」
「あんのろくでなしめぇ……!」
カミツレ大祭とは新世界で今回初めて行われるお祭りであり、ニゲラとセージが企画したものだった。文化の発信地となったアキヴァルハラには、各地の箱庭から足を伸ばして旧世界の神が描かれた聖典、導人史を買い求める人が増えているらしい。
そして、導人史はこれまで隔絶されていた一部の人間同士が意見を交わすコミュニケーションツールとして人気を博し、かつて旧世界で行われていた伝説とされる神の生誕祭、《コミュケ》を復活させようとしたのがきっかけだった。
しかし、現代では信仰など無く神は滅び、崇め奉る対象がいないため開催が危ぶまれたが、丁度良い素材があると言って、ニゲラがアキヴァルハラの守護者であるカミツレを指名した。もちろんカミツレは全力で反対したが、その場にいた全員が満場一致でGOサインを出し、今日まで準備が進められてきたのだ。
かつて終末戦争で人類を虐殺するために生み出された戦闘用バイオノイド。その中でも最凶と呼ばれた第二世代の一人だったカミツレが、今では人の玩具にされている。人生何が起きるか分からない見本のような彼女だけれど、みんなから信頼され、愛されているのは間違いない。
「そっかぁ、一緒に見て回れないのは残念ね」
「ごめんよ……ああ、そうだった。当日はヨモギが手が空くから一緒に回ろうって言ってたよ」
「本当に? しばらくあの子とも会えてないから、いろいろ相談したかったのよね」
「……相談?」
しまった、と口に手を当てたヒマワリは両手を胸元で小さく振った。
「な、何でもないよ。大した話じゃないから……」
「それならいいけど、困ったことあれば話聞くよ」
「――そうね、その時は頼りにさせてもらうわ」
朝食を終えると、カシアが地下にある
ヒマワリはその時間を使って昼食用のサンドイッチを作ることにした。材料はさっき焼いたばかりの食パンと余ったレタスとトマト。それに加えて厚切りベーコンを味付けして挟むことにする。
適度にスライスした食パンをコンロで片面だけ炙る。これで外はカリカリ、中はフワフワ、二つの食感を楽しめる裏ワザだ。手際よく流れ作業で順番に具材を乗せて、最後にコショウを一振りする。縦に包丁を入れて長方形にカットすると、手編みのバスケットにしっかりと詰め込んだ。
「コレで良しっと……」
出かける準備を済ませたヒマワリはエプロンを外して丁寧に畳む。ふと何か忘れてるような気がして首を傾けると、かまってほしそうにテーブルから半分顔を出したアイリスを目にしてその理由を思い出した。
「アイリスもおめかししないとね!」
彼女の手を引いて二階に上がり、クローゼットをひっくり返して似合う服を選ぶ。
けれど、残念なことにどれも胸元が小さすぎてアイリスに合うものがない。ヒマワリは悲痛な現実に神を呪うと、一着だけ彼女が着られそうな服を見つけた。それはかつて彼女の髪と同じ紫黒色のワンピースで、細く白い縦縞が入った落ち着いたものだった。
未だ一人で着替えができないアイリスを手伝って袖に腕を通させると、ヒマワリは思わず声を上げた。その姿が清楚で凛としたお嬢様のようだったからだ。
「まぁ可愛らしい~!」
「ねぇ、ヒマワリおねーさん」
「なぁに?」
「おむねが苦しい……」
「……………………」
しょうがなく胸元のボタンを外して呼吸しやすいようにしてやる。アイリスは大きく息をすると満足げに口元を緩めた。あとは仕上げに空色の花が付いたヘアピンで前髪を留めてやり、ヒマワリは手を叩いた。
「うん、これでバッチリよ」
「わーい、カシアもほめてくれるかな?」
「もちろんよ、そうじゃなかったらゲンコツ入れてでも言わせてやるわ」
「やったー、約束だよ!」
「うんうん、それじゃそろそろお外に出て待ってましょうか」
「はーい」
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