雨空と猫と。

丸尾累児

雨色のモノローグ

 商店街の路地に冷たい雨が降る。

 その白露はくろの一滴、一滴はまるで雪ように白く、ザーッという音を立てて地面を叩いた。

 遠くでは、雷鳴が轟いている。

 通りを歩く人影はなく、彼女一人だけが商店の庇の下で雨を眺めていた。

 目の前には、紫陽花のプランターが置かれている。だが、肝心の店は営業をしておらず、花だけが主人のいない店先で寂しそうに咲き誇っていた。

 つまり、そこは絶好の雨宿りスポット。

 さっきまで別の女性が雨宿りをしていたが、すぐに待ち人とおぼしき男性が傘を持ってやってきた。そして、そのまま一本の傘に収まり、女性は男性と楽しそうにおしゃべりをしながら去って行った。

 残されたのは、彼女ひとり。

 去りゆく女性を見ながら、彼女は羨ましそうにその背中を見送った。



 ――まさかこんなに雨が降るなんて。



 予想外の強い雨だったのだろう。

 彼女は傘を持ってこなかった。だが、濡れて帰りたくはないし、はたまた誰か連絡するアテがあるわけでもない。

 傘を忘れた彼女は、雨に遮られた世界で独りぼっちになった……。



「……イヤな雨……」



 ポツリとつぶやいて、空を見上げる――虚しい。

 なぜなら、愛しい人とはさっき別れたばかりで心がキリキリと痛かったから……。

 思い出したのは、別れを告げられたときの一片の情景。

 それは、ほんの30分前の出来事。

 彼女は、小さな喫茶店で彼と向かい合っていた。

 午後から雨の予報のせいか、周囲に客はいない。窓際に座る男女二人組の会話は店内によく響いて、窓に映る曇天の雲に似た雰囲気を醸し出している。



「――別れよう」



 とっさに彼がつぶやく。

 不意を突いてズシリと重い扉を開くみたいで、向かいに座った彼女も驚きを隠しきれなかった。



「え……?」



 ようやく発したのがその一言。

 彼女はそれほどに男の発言が理解できなかったのである。

 どうして? なぜ? ワケがわからない――そんな疑問が沸き立つ。けれども、彼女は答えがわからず頭が真っ白になった。



「な、な、なに……? どうしたの、急に」

「君が尽くしてくれているのはわかってる。でも、俺にはそれが逆に重荷なんだ」

「え? え? 言ってる意味がわかんない……」

「……ゴメン……もう無理……」

「無理って、私なにかヘンなことした? アナタを阻害するようなこと――」

「そうやって、自分に都合のいい立ち振る舞いをするのはやめてくれ!」

「……別に……そんな……つもりじゃ……」



 どうしたのだろう?

 いつもならこんなに声を荒あげない。そういう印象からか、彼女は想定外の事態に思い知らされたのだろう。

 彼女は萎縮して身を震わせた。



「とにかく、俺たちに関係はお終いだ」

「待ってよ。急にそんなこと言われても……」

「急じゃねえよ。俺だって、必死に考えて答えを出したんだ」

「……そんな……」

「悪いとは思っている。でも、もう耐えられないんだ」



 以降、彼は口を閉ざして語らなかった。

 それが先ほどまで起きていた事態。

 未だにまぶたの裏に焼き付いて離れずにいる。そのせいか、憂鬱な気持ちが心底からわき水のように広がっていた。



「ニャ~」



 そんなとき、足元から動物の鳴き声が聞こえてくる。

 俯くと、1匹の猫が佇んでいた。

 ほっそりとした胴の長い灰色の猫――。

 いつのまにやってきたのだろう? 猫は彼女の周りをグルグルしたかと思うと、何事もなかったかのようにパッとやめて空を眺め始めた。

 どうやら、激しく降る雨に身動きが取れないらしい。下半身を落として、前足をピンと伸ばした状態で姿勢よく雨足を窺っている。



「……アナタも1人?」



 彼女は、そんな猫に屈んで話しかけた。

 毛並みの揃った色艶のいい猫。

 当然、猫は答えない――人間ではないのだから当たり前と言ったら当たり前である。代わりに返ってきたのは、顔を差し向けるという行為だった。



「私もね。さっきまで彼と一緒だったんだけど、別れちゃったんだぁ……」



 自らを嘲笑するようにつぶやく。

 その間にも雨は降り続けた――まっすぐ、どこまでもまっすぐ雨は降り続け、川のように地面を流れる。

 不意に猫が足下で身体を擦り寄せて来た。

 彼女が応じて優しく背中を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。

 毛並みが毛布みたいに柔らかく、猫の体温も相まって心地よい感触を伝わってくる。彼女は、なんとも言いがたい手触りに背中を撫で続けた。

 時間を忘れ、終始夢中になる。

 そんなときだった――。

 急に耳障りな雨音が聞こえなくなる。彼女が驚いて顔を上げると、目の前には何もないまっしろな世界が広がっていた。



「……え? え? え?」



 ――夢でも見ているのだろうか?

 実感のないまま、あたり一面を窺う。

 左方には、道らしきものが見えていて、0.5ミリのシャーペンで両端をうっすらと書いたように曲がりくねってどこまでも続いている。

 行く先はわからない――遠くを見ても、真っ白だからだ。

 1つわかることは、道が続いていると言うこと。

 彼女は気になって、道の向こう側へとズンズンと歩き出した。

 やがて、見えてきたのは背景と同じ色をしたお屋敷。

 邸宅も、囲いも、門扉すら真っ白な屋敷だった。



 彼女は、なんとなくその屋敷が気になって門をくぐり抜けた。

 屋敷の中には、様々なモノがあった。

 前庭には動く動物の生け垣。

 扉を開けて本館に入ると、ディズニー映画に出てきそうな魔法の道具たちが忙しそうにかけずり回っていた。

 ほうきは腰をくねらせて掃除を。

 宙を浮くトレーは、乗ったティーカップたちと共にダンスを。

 各々がせわしなく動き、どこかへと向かっていく。

 彼女は、そうした光景に呆然と立ち尽くした。

 そんな中、礼服を着たウサギ顔の男が現れた――どうやら、この家の家令らしい。

 目の前にやってくるなり深々と頭を下げた。そして、呆然と立ち尽くす彼女を余所に無言でどこかへと歩き始めた。

 家令に導かれるがまま、屋敷の奥へと進む。

 案内されたのは、観音開きの扉で閉ざされたある一室だった。家令が片側の扉を開いて、彼女を部屋の中へといざなう。



「ようこそ、幸せの舘へ」



 室内には、これまたウサギ顔の乳白色の燕尾服を着た男が立っていた。

 背は家令より小さくて、太っちょ。

 輝くような上品な白い毛並みとヒゲが自慢なのか、しきりにチョロンとしたヒゲにいじっていた。

 この家の主らしい――。

 しかし、それ以上に気になったのは、窓辺の円卓に座る『彼』の姿だった。

 なぜ彼がここに居るのだろう……?

 けれども、彼はずっと外を眺めていて、こちらに気付く様子はない。それどころか、無視しているようにも思える。

 彼女は、喫茶店の一幕に思いを巡らせながらも彼に話しかけようと試みた。



「これまた可愛らしいお嬢さんだ」



 ところが、唐突に男爵が割り込んでくる。

 そのせいで、彼女は彼と話すことが出来なかった。

 退いてもらおうと手を出して除けようとする――が、逆に捕まれて身動きが取れなくなってしまう。



「今日はどのような幸せについてお聞きになりたいのですかな?」

「い、いえ、それより私は……」

「宝くじの当て方から運命の赤い糸まで、なんでも存じておりますゆえ。仰っていただければ、貴女のお望みの幸せを見つけて差し上げましょう」

「……あ、あ、あの……」

「どうかされましたかな?」

「盗まれた幸せは……」

「ご心配なく。また手に入れればいいのですから!」

「で、で、でもそんなに簡単に手に入るものじゃ」

「いいんです。それよりも、貴女のお望みをお聞かせくださいませんか?」

「……私の……望み……」



 そう問われ、ゆっくりと窓辺に向かって指を差す。

 彼女が示したのは、紛れもなく彼だった。すぐに男爵も気付いたのか、クルリと振り返って窓の方を見ていた。

 しかし、とっさに向き直って、



「彼がどうかしましたかな?」



 と問いかけてきた。

 彼女は求めるように返事をかえした。



「彼と居させてください。それが私の幸せなんです」

「それは無理なお願いですな」

「どうしてですか?」

「だって、その幸せはもうここにはありません――私が盗まれたと言った幸せは、貴女自身が持っていた幸せのことなのですよ」

「じゃあ、私が欲しい幸せは……」

「はい、もうとっくにこの世にはありません」

「……そ……んな……」



 心からなにかがこぼれ落ちる気分だった。

 死刑宣告のような言葉――彼女は絶望を抱いた。しかし、それでも諦めることができず、窓際へ駈けていって彼に詰め寄る。



「ねえ、お願い。もう一度、もう一度だけやり直そうよ」



 その言葉に彼がチラリと目線を向ける――が、返事はない。

 まるで役割を与えられたカラクリ人形のように彼女の顔を見ている。彼女はどうにかして言葉を引き出そうと、さらに語気を強めて投げかけた。



「なにか返事をして。私は、こんなにアナタを求めているのに……」

「…………」

「ねえ、お願い!」

「………………」

「お願いだから……」



 しかし、やはり返事はない。

 途端に彼は窓の方を向いてしまった。

 興味が失せてしまったのだろう。彼女はまったくこちらを見ようとしない彼に確かな胸の苦しみを感じていた。



 ……ただ、答えがほしい。



 彼女はひたすら祈った。

 だが、いくら願おうども彼は役割を与えられた人形のように口を閉ざしたまま。いくら待てども、希望の言葉は発せられない。

 ひとときの沈黙が宿る――彼女は彼を、彼は窓の向こう側を。

 同じ方角を向いているにもかかわらず、それぞれが見ているものはまったく別の物。彼女は、途端に涙を流してその場に崩れた。




「残念ですが、貴女の幸せはここにはないようだ――お引き取り願いましょう」



 ボンヤリとする意識の中、そんな声が聞こえてくる。

 男爵の声だろう。

 くぐもった声と共にドタドタという複数の足音が響く。それと同時に沢山の衛兵が目の前に現れた。



「さあ、我々と一緒に来てもらおうか」



 衛兵の1人がそんなことを言ってくる。

 だが、彼女にはどうでも良かった。腕をつかまれ、どこかへ連れて行かれようとも自分には関係ない。

 ガラス玉越しに誰かが連れて行かれそうになっている――そんな風に思い込んでいた。

 だから、彼女はなにもかもどうでも良かった。

 そんなときだった――。

 不意に真横でコツッという音が立てられる。それが現実へ引き戻すスイッチだったのか、次の瞬間に彼女はハッとなって目を覚ました。

 音のした方へと顔を手向ける。



「顔をお上げなさい」



 そこには、いつの間にか衛兵ではなく、男爵と同じに人間ではない何かが立っていた。

 毛並みがあって、左右三本の細いヒゲを生やした動物顔の人間――それは、あの商店街で出会った猫の顔だった。



「……猫……さん……?」



 彼女は驚き、一寸たりとも目が離せなくなった。

 不意に猫が顔を向けてくる。



「ボーッとしている場合じゃない。君は、もうここにいてはいけないんだ」

「……だけど……私……」

「君の幸せはもうここにはない――さあ、ボクと一緒に早く逃げるんだ」

「で、でも……」

「さあ早く!」



 と言って、猫は衛兵から彼女の腕を引き剥がした。

 途端に衛兵が複数の槍を向けてきたが、猫はそれをモノともしなかった。白いマントを翻して彼女を覆い、その場から連れ去ろうとしたのである。

 当然、彼女にはまだそこから去りたくなかった。



「待ってっ、彼も一緒に!」

「ダメだ――アレはもう君の知る彼ではない」

「それでも一緒にいたいの! お願い猫さん、彼を一緒に連れて行って!」

「残念だが、君と彼が一緒にいることは叶わないんだ」

「どうして!?」



 とっさにそう問いかける。

 しかし、猫は言いづらそうに深くシルクハットを深く被った。

 それから、数秒の間黙っていたが、彼女の聞きたいという眼差しを窺って決意したのだろう。

 ハァ~という小さく溜息を漏らした。



「彼の目に君はもう見えていないんだ」



 そう告げられた瞬間、彼女の中でなにかが壊れた。

 振り返ってみたものは、窓の外を向いたままの彼の姿。しかし、彼女が本当に気になっていたのは、彼が一切こちらを見ないという事実。



 ……嗚呼、これは私の未練だ――幸せを求めるがゆえの未練。



 彼女は、その姿にこの世界が持つ真実に気付いてしまった。



「ゴメンナサイ。もう行かなきゃ……」



 彼女はスッパリと彼にすがることを諦めた。

 それから、猫と共に屋敷を出た。

 背後からは、何人もの衛兵が追ってきている。それでも、彼女は逃げて、逃げて、必死に猫と共に逃げ回った。

 ところが、道中で急な異変が起きていることに気付かされる。

 彼女は、何度も周囲を見回した。

 すると、どうだろう――真っ白な世界はゆっくりとしぼみ始めているではないか。ゆっくりと、確実に内へ内へとしぼんで丸い団子みたいに小さくなっていく。

 彼女は、その中で餡のように身体ごと押し込めらそうになっていた。

 圧縮する世界の中、あまりの窮屈さに悲鳴を上げて自らも饅頭まんじゅうの具にされてしまうという危機感を抱く。



 ――そんな直後だった。

 気付けば、意識はハッとなって別のところにあった。視界には、土砂降りの雨が降りしきる商店街の路地が映っている。



「夢?」



 朦朧とする中、彼女はつぶやいた。

 それが確信に確信に変わったのは、間もなくのこと――あの夢はなんだったのだろう?

 右の首筋から揉み上げを伝い、上へ上へと愛でるように優しく頬を撫でる。

 しかし、頭がボーッとして現実味がなかった。

 代わりに理解できたのは、空知らぬ雨の一滴だった。



「あ、あ、あれ……?」



 泣いたのである。

 そのことに驚き、彼女は目を大きく見開いた。



「ニャ~」



 右手で頭を撫でる猫が鳴き声を上げる。

 それを聞いて、彼女は途端に嗚咽の声を漏らした。

 失恋――。

 その二文字ふたもじが頭をよぎり、止めどない涙が双眸から溢れた。幸い、激しい雨音のおかげで周囲には聞かれずに済む。

 だが、泣き叫ぶ声は降りしきる雨にも負けず劣らない。

 しばし、彼女は泣き続けた。

 ようやく泣き止んだのは、雨が上がった頃のこと。

 足下には、まだあの猫がいる――。



「ありがとう、猫さん」



 彼女はそれが救い手のように思えてならなかった。

 ふと、目元にかかる一条の光に気付く。

 顔を上げると、分厚い雲が割って燦々とした太陽が姿を現そうとしていた。さっきまで降っていた雨のせいか、雲と太陽の間にわずかな虹が出ている。

 彼女は、その様をジーッと眺めた。



「……雨……止んだね……」



 その瞳には、もう涙はない――雨と共にすべて地面へと流れ落ちた。

 彼女は目尻に残るわずかな涙を服の袖で拭った。

 そして、見上げたまま路地へと足を一歩踏み出した。

 途端にパンプスの靴底が水溜まりに浸かって濡れる。それでも、気分は晴れ晴れとして心地良かった。

 眺める雨雲が東へと移ろい行く。

 彼女は猫と一緒に空を見つめ、真っ赤に腫れ上がった顔で優しくはにかんだ。



「なんだか私、まだガンバれそうな気がする」

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雨空と猫と。 丸尾累児 @uha_ok

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