王が愛した屍

楪シゼ

▷01


 四年前から使っている空色のヘッドホンが壊れた。少し前からコードが断線していたのが、とうとう左側から音が聞こえなくなってしまったのだ。それがわかったのは昨日の学校帰りだったが、今日もそれをつけて電車に乗っている。他人の熱を感じるような車内でも、目を閉じれば、水の中にいるような感覚が、僕を一人にした。壊れていても別に問題はない。吐息も発車音も熱の鼓動も、無意味に五月蝿いこの世界の音が聞こえなくなれば、それでよいのだ。


 連日の雨のせいか、外気はやけに蒸し暑い。改札を出た途端、まとわりつく空気の不愉快さに、思わず顔をしかめた。この時期に空気は嫌いだ。何かに囚われる気分になる。そしてそれは、ワスレナイデというように、一つの記憶を呼び起こすのだ。

「死こそが最も美しい。何故なら、物語は最後が最も美しくなるようにできているから。人の物語の終止符である死は、この世で最も美しいのよ。」

 一人きりの世界で、彼女は僕に語りかけた。黄昏の優しい光、羽のようになびく髪、君は振り向いて、微笑んでー……

「突っ立ってんじゃねぇよ。」

 後ろからぶつかられた拍子に、コードが引っ張られて、ヘッドホンがずり落ちた。名前も知らない誰かがした大きな舌打ちを合図に、世界はまた忙しなく動き始めた。いつの間にか歩みも思考も止まっていた僕は、少し呆然としたのち、人波に急かされるように、のろのろと歩き出した。

 再び他人の熱の鼓動に埋もれていると、真正面にビル壁の巨大スクリーンが見えた。あれが一番嫌いだ。中身のない言葉を話す女子の甲高い声のように、むやみやたらと五月蝿い。再びヘッドフォンをつけようとするが、またもや誰かの鞄にコードが引っかかったようだったので、諦めた。不甲斐なく見上げた狭い空に、遠慮もなく巨大スクリーンが入ってくる。

「ポゼッション制度が導入されてから約30年

 、世界は躍進の一途を辿ってきました。…」

 すると巨大スクリーンの映像が、突然歪み始めた。何かを引っ掻くような音がスクランブル交差点に響き渡った。誰かの叫び声を押さえつけてるみたいだ、ぼんやりと思った。道行く人々は、耳をおさえて顔をしかめた。そして、突然の出来事に歩みをやめ、その元凶を黙視した。世界は少しずつ止まっていった。

 やがて映ったのは、真っ暗な部屋に佇む一人の少女だった。純白、その言葉が彼女の透き通るような髪や肌にぴったりだった。しかし、最も目を引くのは、全てを映し出すような、透明とも思える双眼だった。瞬間、心臓がドクンと音をたてた。俺はあの瞳を知っている。空の下で見ると、とても綺麗なんだ。空から青を溶かし込んだかのようで。光を受けると水面のように輝いて。

「どんな物語にも終わりは来る。ただできるなら、その終わりは自分で決めたい。」

 造られた異様さと困惑の空間の中で、鈴のように響いた声は、あまりにも神聖なものだった。

「この世界には枷がある。それは人のエゴによって良いことであると定義されてしまったもの。それによって、あなたたちの物語は穢されてしまいかねない。」

 少女は胸の高さまで持ち上げた握りこぶしを、花咲くように開いた。

「これは、私からあなたたちに。もっとも美しい結末への捧げ物。」

 手のひらには小瓶が一つ、転がっていた。中には毒林檎のような、赤黒い一錠の薬が入っていた。彼女の白い肌の上にあるそれは、血のようにも思えた。

「これからは自分で終止符を打つ時代。」

 言い終わるのと同時に、彼女は薬を飲んだ。この世のものとは思えない美しい笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じたかと思うと、そのまま、フレームアウトした。

 ジャック映像が消え、また世界がむやみに騒ぎ出したのと同時に再び心臓はドクンと大きく打ち始めた。最後の言葉はひどく記憶に鮮烈に残っている言葉だった。あの日、あの場所、あの時間、同じ言葉を紡ぎ、この世界からフレームアウトした少女を、僕は知っている。体が末端から熱が引いて行くのがわかった。もうどこに力を込めているのかもわからず、ただその場にへたり込んだ。誰かの声が聞こえた気がした。しかしそれはもう、見えない壁があるかのようにくぐもって、本当かどうかはわからなかった。

 映し出されたのは、初恋の少女に違いなかった。

 四年前に死んだ、少女に違いなかった。

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