この正しさのなかにいれば、何も怖くはない

「わかりました。杉本さんが来なければ、そのときは私も余計なことは言いません」

 団体交渉が始まる前に、念のため梅宮さんには言っておかなければならないことがあった。

 今日も杉本さんが来ないようであれば、そのときは不正な発注の件について組合から糾弾することはしない、ということ。

 そして、もう一つ。

「あと、ですね。……もし、杉本さんが来てくれて、そのときの外薗本部長の対応によっては、もしかしたら梅宮さんに不愉快な思いをさせるかもしれません。そのときは、ごめんなさい」

「丸井さんが何を考えているのかはわかりませんけれど、大丈夫ですよ。丸井さんの思うようにしてください」

「ありがとう……ございます」


 

 俺のスマートフォンからサウナでの会話が流れている間、つい一時間程前に梅宮さんと交わした話を思い出す。

 不愉快な思いどころではないかもしれない。

 今は彼女の顔を面と向かって見る勇気がない。


 録音していた内容が終わり、最初に口を開いたのは外薗本部長だった。


「……あんとき、なんも、持っとらんかったやろ?」

「いえ、一つだけ、身に付けていました」

 ポケットから取り出して机の上に置く。

「その、チンケな腕時計が……そうなんか?」

「こういうものを集めるのが趣味の友人がいるんです」

 このレコーダー機能付きの耐水性腕時計は清洲さんから借りたものだ。

 サウナに向かう直前に清洲さんに相談したところ、想像以上のものを快く貸し出してくれた。

「ただ、これには再生機能がないので、データは俺のスマホに入れてきました」

 外薗本部長が俺を睨みつけるが、構わず続ける。

「出すつもりはありませんでした。本部長が約束を守ってくれたのなら」

 そう。できれば出したくはなかった。

「でも、本部長は、最初から杉本さんに全部なすり付けるつもりで! 杉本さんとの約束すら最初から守る気も無くて!」

 つい声を張り上げてしまう。

「……こんなもんが証拠になる、思とるんか?」

 なるに決まっている。

 この期に及んで、言い逃れをするつもりなのか。

「たしかにワシの声に似とるが、ワシやっちゅう証拠が無いわな。まあ、ようできとるわ」

 苦しい言い訳だ。誰がそれを信じるというのか。

 外薗本部長の隣に座っている社長は、さっきからずっと黙ったままだ。

 この場を納めるのはもう社長しかいないというのに。


「本部長がおっしゃるように、正しいこと自体は強さじゃない。その通りかもしれません。ですが――」

 突然、俺の隣に座る杉本さんが、口をついた。

「正しいことは、人を強くさせます。周りの人間さえも!」

 杉本さんが俺を見て、微笑む。

「後ろめたいことがあると、人は途端に弱くなります。僕が、そうであったように。でも、この正しさのなかにいれば、何も怖くはないです」

 そして、杉本さんは伍代さんや篠原さんを見て、力強く笑いかける。

「……いったい、なんやっちゅうんや?」

「ここから先は、僕ではなく、委員長からお願いします」

「……え? 俺っすか! いいんすか?」

「ええ。きっと考えていることは同じですから」

「はい。同じだと思います」

 篠原さんも大きく頷く。

「じゃあ、俺から言わせてもらうっすよ。えー、この件について詳細な調査を組合から要求するっす。もし断ったら……そうっすね、団体行動権を発動するってのでどうでしょ」

 団体行動権、つまり“スト”を行う、と言っている。

 こんな重大な決定をするには組合員の採決が必要なはずだ。

 だが、杉本さんが止めないのであれば任せておこう。

「社長、いいっすよね?」

 社長に対しても、いつもの伍代さんらしく、軽く問いかける。

「……大丈夫。言われなくとも、調査は進めるよ」

 ようやく社長が口を開く。

「社長! 杉本が送ったメールっちゅう、確固たる証拠があるわけやし、もうええじゃないですか! あんな声だけ似せた録音よりも、こっちの方が証拠として確かでしょ!」

「それはまあ……、そうかもしれ――」


 そんな弱気な社長の発言を遮るように、会議室の扉が開く。


「あら? やっぱり会議中よねー。でも、大至急ってことだったから、ちょっと失礼しますね」

 会社のシステム系全般を担当している岩田さん、だったか。

 突然の訪問者に誰もが怪訝な顔をする。

 いや、一人だけ、安心したように笑っている人がいた。

「私が依頼しました」

「そうそう。アタシにはよくわかんないけど、大事なことなんでしょ? 梅宮さん、履歴は無かったからね。じゃ、アタシはもう出ていっていいかな?」

「はい。ありがとうございました。大変助かりました」

 その言葉を聞くと、岩田さんは颯爽と会議室から出ていった。

「私が依頼したのは、杉本さんからメール送信があったという、この日のこの時間に会社のサーバに送信履歴があるかどうか、大至急確認をするように、ということです」

 梅宮さんがいつもの調子の澄んだ声で言う。

「会社のアドレスを使う以上、どの機器から送信をしたとしても履歴がサーバに残ります。ですので、非常に勝手な行動とは思いましたが、必要なことだと判断し、コピーをする間に彼女に依頼を致しました」

 誰もが彼女の言葉に聞き入っている。

「もし履歴があれば、あとからそれを教えてくれればいい。でも、もし送信の履歴がサーバに残っていないようであれば、会議の最中であったとしても入ってきてそれを知らせてほしい、と」

 なぜだか、誇らしく思ってしまった。

 俺が好きになった人は、こんなにもすごい人なんだ、と。


「……この件については、調査委員会を立ち上げ、厳密に調査を進める。それで、いいかな?」

 俺たちは声を揃えて、はい、と返答する。

 外薗本部長は、ずっと黙ったままだ。


 そして、俺はこれから、最後の仕事をする。


「社長。私が提出したレコーダー以降の部分について、議事録からの削除を求めます」

 社長は少し驚いた顔をしたあと、すぐに納得した表情を見せる。

「あ、ああ、そうだね。君の……えっと個人的な部分はもちろん議事録には残さないようにしよう」

「いえ、そうではなく、レコーダー以降は全て削除をお願いします。外薗本部長の調査は通常の不正調査と同じく、社内では内密に行っていただければと思います」

「組合側がそれでいいなら、もちろん構わないけれど……いいのかい?」

 社長が俺たちを見回しながら、問いかける。

「……なんでっすか? 外薗本部長を追い出す大チャンスじゃないっすか?」

 伍代さんが小声で言う。

 そう。伍代さんが言うように、この件が議事録に残ると、もし懲罰で解雇を免れても外薗本部長はきっと退職せざるを得なくなる。

 だが、その結末は、たとえ正しくても、俺が納得できない。

 交渉は勝ち負けじゃない。

 お互いの妥協点を探すこと。

 それが、書記長として学んだことだから。

「……まあ、丸井さんがいいなら、いいっすよ」

 その言葉に杉本さんと篠原さんも小さく頷く。



 そうして、俺にとって初めての団体交渉は、ようやく終わりを迎えた。

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