扉の向こうで泣いているんじゃないだろうか

 団体交渉の始まりは、回答書を受け取るところから始まる。

 回答書、つまり冬のボーナスの内容が書かれた紙を、梅宮さんが俺に差し出す。

 労務担当と書記長は、会社と組合の窓口。そのことが、こういった風習からも改めて実感させられる。

 回答書は梅宮さんの方で人数分のコピーを用意してくれているので、原本は俺が保管しコピーを伍代さんと篠原さんに渡す。一枚余っているのは杉本さんの分だ。


 社長は回答書が行き渡ったのを確認し、中身を読み上げた。

 同時に俺たちも紙面に目を向ける。

 そこには例年並みの一時金の数字が書かれていた。

 思ったよりも多い、というのが正直な印象だった。

 そして、社長がこの回答を出すに至った経緯の説明を始める。

 で予算の修正が発生したが、なんとか達成の見込みが立つところまで来た。また、外薗本部長からの強い説得もあり、例年と同レベルの賞与を出すことにした。

 そういう話だった。

 もし一時金の回答内容に要求との乖離かいりがあれば、その要因を追求するという名目で杉本さんの件にも触れられたかもしれない。だが、この数値だとそれも難しい。

 外薗本部長はそこまで考えて社長まで動かしたというのだろうか。


「……何か組合側から質問などがあれば、どうぞ」

 社長の説明が一段落したのを見計らって、梅宮さんが言う。

 これは梅宮さんからのパスだ。

 杉本さんの件に触れるのであれば今ですよ、と。

 だが、杉本さんは現れない。

 

 ――もし、杉本さんが来てくれたなら。杉本さんが全部話してくれたなら。ちゃんと本部長も認めてくれますか?

 ――ああ、ええやろ。そんなことあるわけないからな。


 あのとき交わした言葉が頭の中で繰り返す。

 あの約束は、逆を言えば杉本さんが来なければこちらも言及しない、ということ。

 証拠はない。杉本さんも望んでいない。結果的に会社の業績も持ち直したし、総代理店の契約で来期はさらに安定した売上げを見込めるのだろう。

 ここが引き時かもしれない。

 半ば諦めて、伍代さんと篠原さんの顔を見る。

「俺からは、特にないっす……」

 伍代さんが悔しそうにうめく。

「私も……大丈夫です」

 篠原さんが辛そうに呟く。

「俺は……」

 外薗本部長の方に顔を向ける。勝ち誇ったような表情をしているように見えるのは、きっと気のせいじゃない。

 これは勝ち負けではない。だが、完全にやり込められたことは事実だ。

 もう諦めるしかない。

「私も……」

 特に質問はありません。

 そう口に出す直前、ポケットの中のスマホが震える。

「一点だけ、いいでしょうか」

 自分でも驚いた。

 今さら聞くことなど、何もない。

 ないはずなのに、なぜ。

「え、と。私が、専従書記長になって半年くらいなのですが、今回こうして初めて団体交渉に参加させていただき……」

 今さら言うことなど、何もない。

 ないはずなのに、なぜ、俺は。

「一従業員の立場では見えなかったいろんなことを、学ばせていただきました。……そう、最初は前任の引間さんがいて、そのときの委員長は一ノ瀬さんで、副委員長は杉本さんで……」

 何を言おうとしているのかもわからないまま、言葉を探す。

「いろいろあって、人数だけで言えば執行部は約半分になってしまいました。でも、それでも、労働組合は現場の意見を会社に届けるために、こうして存在しています」

「で、何が言いたいんや?」

 業を煮やした外薗本部長が言葉を挟む。

 当然だろう。俺だって何を言いたいのかわからない。

 今後ともよろしくお願いします、とお礼を言って締めようと思っていたそのとき。

 会議室の扉が開く。


「遅れて、申し訳ありません!」


 杉本さんが謝りながら駆け足で入室する。


「待って……ましたよ」

 杉本さんの顔は少し痩せたように見える。

「いろいろと本当にごめん!」

「……ホントっすよ。でも来てくれてよかったっす!」

 伍代さんが泣きそうにこぼす。

 篠原さんの目も潤んでいる。

「もうね……、三顧の礼どころじゃなかったから」

 そう言って、入り口の方に顔を向ける。

 扉の向こうには、私服の一ノ瀬さんが立っていた。脇にヘルメットを抱えている。

 一ノ瀬さんが親指を立てながら、歯を見せて笑う。


「来るとわかっとったんか、丸井?」

「いえ、信じてただけです。みんなを」

「そうかや」

 信じている。それは外薗本部長のことも含んでいる。

 約束を守ってくれると、信じている。

 そうでなければ――。


 そして、杉本さんが遅れたことを詫びたあと、弁明を始める。

「懲戒を受けた私がこうして厚かましくも参じたのは他でもありません。空発注の件でお伝えしなければならないことがあるから、です」

 外薗本部長は目を閉じて、ただ聞いている。何を考えているのだろう。

「私の責任については既に懲戒処分は下されていますし、その内容に不服があるわけではありません。ですが、調査を受ける際に言えなかったことがあります。あの空発注は、私のためだと……来期の会社のためだと……」

 杉本さんの声は震えている。

 だが、震える声ではっきりと言った。

「外薗本部長に命じられたものです」

 社長が大きく眉をひそめる。

「もし指示通りに動けば……条件の良い待遇で、そのメーカーのポストに就くことができるから、と……」

 今までずっと黙っていた他の役員もざわつき始める。

 杉本さんはテーブルのこちら側に座っている俺たちだけに聞こえるよう、小さく呟いた。

「ずっと……苦しかった。でも、やっと、言えた」

 そして、もう一度声を張り上げる。

 その声はもう、震えていなかった。

「どんな仕事をするかよりも、いくら給料をもらうかよりも。誰と一緒に働くのか。それが僕にとっては大事なんです。僕はもっと、みんなと働きたい」

 おそらく部屋の外にいる一ノ瀬さんにも聞こえている。

 きっと、扉の向こうで泣いているんじゃないだろうか。


 あとは外薗本部長が約束通り認めてくれれば、それでおしまいだ。

 だが、その期待が揺らぐような、そんな歪んだ笑顔を外薗本部長はこちらに向ける。

「社長、こちらを」

 何かの書類を鞄からおもむろに取り出した。

 それを見た社長が顔をしかめ、杉本さんを睨みつける。


 それはあまりにも不吉な宣告書のように見えた。

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