全てが曖昧で、正しいことなんて一つも無い
冬の雨は憂鬱だ。
ただでさえ混雑する朝の通勤電車は、その湿度で不快指数が跳ね上がる。
いや、不快なのは湿気のせいだけじゃない。
ようやく会社に辿り着き、書記局の鍵を開けながら昨晩のことを思い出す。
杉本さんの懲戒処分について一ノ瀬さんから聞いたあと、俺たちはすぐに情報収集に走った。
一ノ瀬さんは管理職の情報網を駆使し。
篠原さんは駄目元で杉本さんの家へ行き。
伍代さんは仕入部の
俺は梅宮さんに何か知っていることはないか問い合わせた。
そしてすぐさま各自で掴んだ情報をスマートフォンのチャットメールで共有した。
結論から言うと、梅宮さんや一ノ瀬さんが予想していた通りだった。
一ノ瀬さんが中山部長から聞き出したところによると、懲戒処分の決定は外薗本部長の主導で役員達が集まって決めたらしい。
そして懲戒の理由はやはり不正な仕入れとのこと。さらに、杉本さんの独断で発注処理をしたということになっているらしい。これは伍代さんが仕入部の部長から聞き出した。
意外だったのは、杉本さんが転職するつもりでいたことだった。篠原さんが杉本さんの奥さんから聞いたらしい。
[シノさん、よくそんなことまで聞けたねえ😍️‼️]
[手土産にと購入した🍰が功を奏しました]
[👍👍]
[以前、会社の花見の席で奥様とは面識がありましたから🌸]
そんなやり取りがグループチャットで交わされる。
直接的ではないにせよ、杉本さんの心積もりがわかって少し安心したのだろう。文面から漂う空気が軽い。
篠原さんが聞いたところによると、杉本さんの転職先は渦中の仕入先であるメーカーらしい。
ここまでくれば俺でもわかる。
外薗本部長の斡旋だ。
杉本さん一人に罪をかぶせる代わりに、ちゃんと次のポストを用意する。おそらく、そんな密約が外薗本部長と杉本さんとの間で交わされたのだろう。
みんな、なんとなく察しがついている。だから、戸惑っている。
杉本さんが、外薗本部長によって切り捨てられた被害者だったなら、組合としてなんとか助けようと動けたかもしれない。
でも、実際はそんな単純な構図ではなかった。
外薗本部長を糾弾するためには杉本さんの証言が必要。だが、密約のため杉本さんはきっと何も言わない。
逆に杉本さんの方を団交の場で問い詰めようにも、会社から既に重い懲戒処分を科せられている以上、この件については片が付いてしまっている。
組合として動くべき道筋が、袋小路に入り込んでしまった。
外薗本部長はここまで考えて杉本さんの懲戒を決めたのだろうか。そうだとすれば、相手はあまりにも手強い。
つい溜め息を漏らしてしまう。
助けを求めるように、昨日の夜に梅宮さんから届いたメールを見返す。
わざわざ細かく教えてくれた懲戒処分のための七つの要件。このうち満たしているか曖昧なものがあるという。
そんなことを言われても、全てが曖昧で、正しいことなんて一つも無い。
また一つ、盛大な溜め息がこぼれる。
「あらぁ。二日酔い?」
気付けば向かいの席にパートの
考え事に集中していて、出社してきたことに気付かなかった。
「ああ、おはようございます。すみません、ちょっとぼーっとしてて」
「珍しいわねぇ。悩み事かしらぁ?」
悩み。確かに悩み事ではある。
でも、まだ公になっていない杉本さんの懲戒の件をあまり触れ回るわけにもいかない。
「外薗本部長って、なんかすごいですよね」
無難な、それでいて関係のある内容を話そうとしたら、変な言葉が出てしまった。この際せっかくだから聞いてみよう。
「いえ、改めて考えたら、役員になるくらいだから、すごい人なのかなって思って」
つい褒めるような口ぶりになってしまったのは悔しいが仕方ない。まずは相手の強さを認めなければ。
「外薗ちゃん? そうねぇ。昔から仕事はできたわねえ。そうそう、丸井ちゃんに似てまっすぐな人だったのよぅ」
俺に似てまっすぐ?
完全に想定外の返事だ。
「入社したときから“働かざるもの食うべからず”っていっつも言っててねぇ。営業として一生懸命働いてたのは今でも覚えてるわぁ」
前に一ノ瀬さんからも聞いた気がする。元々は俺たちと同じ営業をやっていたと。
「でも優秀な人って、できない人の気持ちがわからないのかしらねぇ。出世するうちに評判がどんどん悪くなっちゃって。周りもイエスマンしかいないから誰も注意できないみたいだしねぇ」
「……なるほど」
「顔を見かけたときはつい小言を言っちゃうんだけど、最近はちゃんと聞いてくれなくなったわねぇ」
橋田さん、外薗本部長に小言なんて言えるのか。さすが長年働いてきただけのことはある。
「ああ、ついこの前もちょっとお話ししたけど、最近身体にガタがきちゃってサウナに行く回数が増えたってぼやいてたわねぇ」
サウナ? そういえば清洲さんもそんなことを言っていた。内密の会談はサウナで行うと。
「それって、隣の駅にある銭湯のことですか?」
「あら、よく知ってるわねぇ。そうそう、昔っから常連さんらしいわよ。今日なんか雨で寒いから帰りに寄るんじゃないかしらねぇ」
「へえ……」
他愛ない会話のつもりが、とても貴重な話を聞かせてもらえた。
おかげで一つやりたいことができた。
やるべきことなのかどうかはわからない。
それでも、まだやれることが残っている。
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