なにか言い辛いことがあるんでしょうけれど
軽やかなピアノの音が、静かな店内を緩やかに満たしている。
目の前に出されたカフェラテに口をつけると、甘さと温かさが頭の奥まで染みるような気がした。
「……
つい、ぽろりと出た感想に、目の前に座る女性が満足そうに反応する。
「でしょう。ここには学生の頃からよく来ていました。ケーキも美味しいですよ」
促されるがままフォークを手に取り、スポンジケーキを口に運ぶ。
「……ほんとに美味い、ですね」
生クリームとスポンジが舌の上で溶けて、身体に広がっていく。
「悩んでいるときって、美味しいものを食べると半分くらいは解決した気になりますから」
いつもよりも優しい声に、つい甘えてしまいそうになる。
「そうかも……しれませんね」
もう一度カフェラテを口に含み、カップを置く。
深い黄土色の水面がふわふわと揺れる。
こんなに落ち着いた時間を過ごすのはいつ以来だろう。
静かに息を吐き、ここ数日の出来事に思いを馳せる。
一週間ほど前、清洲さんが杉本さんのことを教えてくれたあと、すぐに執行部の三人で話し合った。そこで出した結論は、とりあえず様子を伺おう、という単純なものだった。というより、むしろその結論しか出すことができなかった。
杉本さんが外園本部長と繋がっていることは間違いないとはいえ、組合の情報を流したり、不適切な発注処理に手を貸した証拠があるわけではない。なら、何か新しいことがわかるまで様子を見るしかない。
だが、こんな状態で杉本さんと上手く話せる気がしなかった。次の執行委員会でどう対応すればいいのかを考える度に、胸の中で何かがどんどんと重くなっていた。
そして、我慢ができなくなった俺は梅宮さんにメールを送った。報告したいことがあるので時間を作ってくれないか、と。
清洲さんからもらった情報を共有する必要がある、というのを自分の中で言い訳にして、助けを求めた。
メールはすぐに返ってきた。
[今週末はどちらも空いています。]
仕事が終わったあとで少し相談をするだけのつもりだったが、返ってきたメールには週末のことしか書かかれていない。
わざわざ休日に時間を取らせるのは申し訳ないとも思ったが、せっかくなのでその言葉に甘えることにした。
そして、今日に至る。
駅前で待ち合わせたあと、せっかくなので落ち着いた場所で報告を聞きましょうと梅宮さんが提案し、この喫茶店に立ち寄った。
「俺が悩んでいるように……見えましたか」
「ええ。一目で」
梅宮さんが即答する。
「今日、駅でお会いしたときから、目を合わせようとしませんよね。なにか言い辛いことがあるんでしょうけれど、丸井さんらしくないです」
言われるまで気付かなかった。
思い直して、顔を上げる。
柔らかそうな白いセーターに身を包んだ梅宮さんが座っている。
いつもより穏やかそうに見えるのは私服だから、ではない。
トレードマーク、だと俺が勝手に思っていた銀縁眼鏡をかけていない。
「あれ? 眼鏡は?」
「……ええ、少し、気分を変えてみました」
いつも眼鏡越しでしか見たことのない梅宮さんの瞳が大きく
今度は梅宮さんが目を逸らす。
こういうときは、似合ってますね、みたいな言及をすべきなのだろうか。
言うべき、だよな。よし、言おう。
「似――」
ちょっと待て。似合う、というのは何も身に付けていない状態に対して適切な言葉ではないだろう。それに、今の状態を褒めすぎると、普段の眼鏡姿を駄目だと受け取られかねない。
こういうときは――。
「えっと、眼鏡が無いだけで雰囲気が違いますね」
よし。これで良い。営業で培った無難な言葉選びのスキルだ。
これ以上の感想を求められたら困るが、梅宮さんはそんなこと言わないだろうし。
「どう、ですか? 変じゃ、ないですか?」
言ったし。
「ぜ、全然変じゃないです。すごく良いと、思います。あ、もちろん、いつもの眼鏡も良いんですけど……」
不意打ちをくらい、変なことを口走ってしまった。
「あ、ありがとう、ございます……」
お互いに俯き、黙ってしまう。
数秒間、沈黙が流れる。
気まずさに急かされながら、何を喋ればいいのだろうかと考えていたら、いつの間にか店員さんが横に立っていた。
「あの……お待たせしました。季節のフルーツタルトになります」
良いタイミングで梅宮さんが注文した品を持って来てくれた。
「ええと、それでは、ごゆっくり」
アルバイトの子だろうか。少し気まずそうな顔をして去っていった。
「そっちも美味しそうですね」
「ええ。この店のタルトが昔から好きで。……良かったら一口食べますか?」
「え、良いんですか? じゃあ、こっちのショートケーキも好きなだけ取っちゃってください」
「では取引成立ですね。まだフォークに口をつけてないので、先に私からいただきますね」
「あ、上のイチゴは駄目ですよ。俺は好きなものを最後に食べる派なんで」
「そんな非道なことしませんよ!」
ついさっきまでのぎこちなさが嘘のように、自然と会話ができている。ケーキのおかげで助かった。
「えっと、ご報告したかった件ですけど」
二人ともケーキを食べ終え、一息ついたところで本題に入る。
「あ、そうでしたね。何か新しい情報が入ったんですよね」
「はい。実は――」
予算修正まで引き起こした大量返品の仕入担当が杉本さんであること、その商品のメーカーと外薗本部長とに強い繫がりがあること、清洲さんも交えてメーカー主催の食事会が開かれたこと。清洲さんが教えてくれた話をかいつまんで説明した。
美味しいものを落ち着いて食べたおかげだろうか。自分でも驚くほど、すらすらと簡潔に説明することができた。そして、自分の言葉にしたことで、客観的に考えられそうな気がする。
「――と、いうことです。この中には清洲さんの推測や、状況からの推定も入っていますが、外薗本部長と杉本さんが繋がっていることは、間違いないと思います」
「そう、でしたか」
俺が話をする間、梅宮さんは何も言わず、ずっと頷きながら聞いてくれた。
「もし、これが本当であれば」
梅宮さんは静かに、だが目には怒りを
「私が考えていたよりも遥かに大きな問題です。メーカーとの癒着、不正とも取られかねない施策、従業員への合理的とは思えない業務命令。いろんな問題がグレーゾーンです。もはや杉本さん個人の問題ではありませんし、人事部や組合だけで対処できる問題ではありません」
「……はい」
梅宮さんの言う通りだ。問題が複雑になりすぎて、どこから手をつければいいのかも、最終的にどうすればいいのかも、検討がつかなくなっていた。
たしかに、これはもう組合の問題だけではない。
さっきとは違う沈黙が数秒間流れる。
「……私からこんなことを言うのも、立場上おかしい、というより本来あるべきではないのですが……。丸井さんだから、言いますね」
ためらいながら一呼吸を置いて、梅宮さんが言う。
「団体交渉の場でこの件について言及してはいかがでしょうか」
梅宮さんの力強い言葉が、静かな店内で凛と響いた。
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