最初に仮定をしなければ、推論は進みません
「今日もみなさん帰ってますね……」
先々週から始めた抜き打ち巡視で、実質的な残業時間の多い部署を上から順に見てきた。だが今日も先週と同じく、この部署も部長を残してほとんどの従業員が退社していた。
みんなもう帰ったよ、と目も合わせずに軽く言った部長の言葉に、伍代さんや梅宮さんと顔を見合わせる。
「知らないうちに『働き方改革』が実現してたんすかねー」
伍代さんが本気か冗談か判別できないことを言う。
「だったら良いんですけどね……」
ノー残業デーの徹底すら苦労をしているというのに、こんなにあっけなく変わるわけがない。
自然とそんなネガティブなことを考えてしまう。もしかしたら、組合に来ていろんなことを知るうちに、性格が捻くれてしまったのかもしれない。
「上から残業禁止のお達しでも出たんでしょうか」
隣で眉をひそめたまま何かを考えている梅宮さんに尋ねる。
考えられる要因としたら、もうそのくらいしか残っていないが、梅宮さんは黙ったまま首を横に振る。
ですよね、と俺は小さく相槌を返す。もしそうだとしたら、俺たちの耳にも入ってくるはずだ。
「とにかく、今日はもう解散っすかね」
立ち尽くしていても仕方ないので、伍代さんの言う通り解散することになった。
「丸井さん、ちょっといいですか」
今日はほとんど喋らなかった梅宮さんが、書記局に戻ろうとする俺を呼び止めた。
「……おかしいと思いませんか?」
さすがに梅宮さんもこの状況に違和感を抱いていたらしい。
「ええ。実は俺、昨日帰る間際にあの部署を覗いてみたんですよ。そしたら数名は残業していました。ですが、今日は示し合わせたかのように――」
「示し合わせたかのように、ではなく、示し合わせている。その可能性があります」
俺の言葉を引き取り、梅宮さんがはっきりと言った。
「先週からおかしいと思い、PCの起動ログの詳細をシステム担当者に見せてもらいました。月の累計データではなく、日ごとのデータをチェックしました」
真剣な顔で梅宮さんが言う。
「前月と比べて格段に減ってはいるのですが、それでも他の部署並みの残業はありました。ですが、私たちが巡視したどの部署も、とある日だけ全員が定時で帰っています」
言わんとすることに察しはついたが、梅宮さんの言葉を待つしかなかった。
「すべて抜き打ち巡視の日です。おそらく……、いえ、ほぼ間違いなく、情報が漏れています」
「それは……」
否定したかったが、それはできなかった。
俺も心のどこかで、その可能性を考えていた。
「……でも、どうして? 実際の残業時間が減ってるなら、巡視のときに何か聞かれたとしても問題は無いはず、ですよね」
「丸井さん、当事者以外が動機を考えたところであまり意味がありません。いまは“なんのために”ではなく、“どうやって”漏れたのかを考えるのが先です」
確かに、そうかもしれない。
「ええと……巡視の日程を知っているのは、安全衛生委員会のメンバー、つまり組合執行部と人事部ですよね。……執行部は全員が知っていますけど」
そこから漏れたとは、さすがに考えづらい。
「人事部の方も全員で共有をしています。ですので、容疑者はかなり多くなります。もちろん私もそこに含まれますが」
容疑者、という言葉から梅宮さんの苛立ちが伝わってくる。
「あれ? じゃあ俺も容疑者の一人ですよね。梅宮さんが情報流出を疑ってることを俺に知られるのって、リスクが増えるんじゃ?」
浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまう。こうやって相談してくれているのに、失礼な言い草だ。
「……数学では、最初に仮定をしなければ、推論は進みません」
ぷいと顔をそらして梅宮さんは小さな声で言う。数学?
「最も信憑性があると思われる仮定を採用したまでです」
何を言いたいんだろうか。
「私自身が犯人ではないという前提が必要になりますが」
つまり、俺が犯人ではないと仮定して話を進めたい、ということか。
「……えっと、要するに、梅宮さんは俺を信じてくれるから、俺も梅宮さんを信じろってことですよね。そんなこと言われなくても信じてますよ」
「ち、違います! あくまで可能性の問題として――」
「犯人やら容疑者やら、なんや面白そうな話をしとるなあ」
粘りつくような声が割り込んでくる。
その独特の声と喋り方で、振り返る前から声の主はわかってしまう。
「……外薗本部長。お疲れ様です」
お疲れ様、なんて心にもないが、条件反射で定型の挨拶を交わす。
梅宮さんは黙ったまま会釈をした。
「今日も巡視かや。ご苦労さん」
ちょっと待て。なんで外薗本部長が知っている?
さっきの部署の部長から聞いたのか?
「そんな身構えんでええよ。ああ、ワシと話すときはレコーダーを持っとった方がいいよ、やったかの」
それは前に一ノ瀬さんから言われたこと。なんで外薗本部長が知っている?
「一ノ瀬からもろとんのやろ? 機械音痴の丸井くんに使いこなせるか不安がっとったわ」
「……なんの話です?」
「ごまかさんでもええわ。とにかくまあ、余計なことせん方がええで。んじゃ、ワシはこれから役員会議やから」
そう言い残して去っていった。
外薗本部長が何を言ってるのかはよくわからなかったが、何を言いたいのかはわかった。
牽制だ。安全衛生委員会の活動に対しての。組合の活動に対しての。
抜き打ち巡視の日程が筒抜けだったのも、外薗本部長に誰かが漏らしていたからだ。
しかし、本部長に情報を渡したのは誰だ? 結局、肝心なところはわからない。
「丸井さん、前言撤回します。“なんのために”が、“どうやって”を考えるヒントになることもありますね」
梅宮さんが突然呟いた。どういうことだろう。
「一ノ瀬さんに会う予定はありますか?」
「え? ええ、明日にでもお見舞いに行くつもりでした。自宅療養中なのに風邪をひいたらしくって」
少し黙ったあと、梅宮さんはなんでもないように言った。
「……では、私もご一緒してもいいですか? ちょうど労災の書類もお渡ししなきゃいけませんし」
「え? ええ!?」
「ということで、明日は宜しくお願いします」
その晩、見舞いに梅宮さんも同行することになったと、一ノ瀬さん宛にメールで知らせる。
数分後、返ってきたメールにはこう書いてあった。
[まじかよ! エロ本片づけとくわ!]
一ノ瀬さん、思ったより元気そうで良かった……。
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