最終話 書記長の丸井です

解決した問題を、あえて蒸し返す必要もない

 昼間は小春日和で過ごしやすかったが、陽が落ちた途端に気温が下がっていく。足下から肌寒さを感じたので、書記局のエアコンを付けて他のみんなが揃うのを待つ。

 今日は週に一度の執行委員会だ。

 先週から今週にかけて、一ノ瀬さんの部署をはじめとした数カ所で“抜き打ち巡視”を行った。その報告をしなければならない。


「一ノ瀬さんは、やっぱり過労だったみたいっす。とりあえず、今週いっぱいは休むように中山部長から言われてるみたいっすね」

 執行委員会が始まり、まず伍代さんから一ノ瀬さんの状況について報告があった。

「付き添いで病院に行ったんだよね。おつかれさま」

 杉本さんが伍代さんをねぎらう。

「でも、一ノ瀬くんが休んじゃったら、あそこの部署の予算達成は厳しいだろうねえ」

 確かにそうかもしれない。

 でも、身体が一番だ。一ノ瀬さんは悔しがるだろうけれど、それはもう仕方がない。

「それがですね。意外や意外、一ノ瀬さんが休んじゃってから他の社員が奮起したみたいで、あの部署の売上はいい調子みたいなんすよ」

 おお、と皆が感嘆の声を漏らす。

「さすが情報通だねえ」

「ふっふ。それが俺のウリっすから! 俺の情報網たるや、それはもういろんなところに張り巡らされてますからね!」

 伍代さんが自慢げに胸を張り、なぜか俺の方を見ながらニヤリと笑う。

「そういえば巡視の候補に挙がっていた他の部署はどうだったのかしら? やっぱり超過勤務が常態化してたの?」

 篠原さんが脱線しそうになった会議を見事に戻してくれる。

「そう! それがっすね、全然なんすわ!」

 篠原さんが首を傾ける。

「ほとんどの社員が定時で帰ってて、なんも問題なかったんすよ」

「……どういうこと?」

「わかんねっす」

 篠原さんがさらに首を傾ける。

 少し俺から補足をした方が良さそうだ。

「人事部が出してくれた社用パソコンの起動時間のログでは、確かに先月までは長時間残業の実態があったはずなんです。でも、今月に入ってから突然、起動時間も定時の範囲で収まってるんです」

 みんなが不思議そうな顔をする。

「つまり、実際に働いているのに残業申請をせずにサービス残業をしているわけでもなく、パソコンを持ち帰って家で仕事をしてるわけでもなく、本当に帰社してるみたいなんです」

「ええと……、それって、良いこと、なのかしら?」

 篠原さんが自信なさげに聞く。

「ええ、おそらく……。ただ、タイミングには疑問が残りますけれど」

 最新のデータを見せてくれた梅宮さん自身も不思議そうにしていた。

 なぜ“抜き打ち”の巡視を始めた途端に、“抜き打ち”の対象となっていた部署だけが、こんなことになるのか。

「まあ、何はともあれ、問題のあった部署の残業問題が解消されたんなら良かったんじゃないかなあ」

 杉本さんが腕を組んで大きく頷く。

 確かにそうだ。解決した問題を、あえて蒸し返す必要もないだろう。


「えっと、丸井さん、他に今日の議題ってありましたっけ?」

 伍代さんが俺に聞く。

「そうですね。去年のこの時期の記録を見ると、団交だんこうの日程調整をしていました」

「あー、もうそんな時期かー!」

 伍代さんだけでなく、他の二人も同じようなリアクションを取る。


 『団体交渉だんたいこうしょう』、略して“団交”。

 その名の通り、団体で交渉をすること。

 従業員が個別に会社と交渉をするのではなく、労働組合として団体で交渉をすること。

 労働組合法では、会社に『誠実交渉義務』という組合の交渉に応じる義務を課している。交渉には実質的な権限を持つ人が出席しなければならず、この会社では社長をはじめとする役員および労務担当(つまり梅宮さん)が会社側として交渉のテーブルに着く。


「でもまあ、今年は大きな問題も無いし、一時金いちじきんの要求くらいだよねえ」

 杉本さんがみんなを見まわしながら言う。

「今年は決算が微妙だから、あんまり強気には交渉できないかもしれないけどねえ」

「そうっすねー」

 伍代さんが軽く合わせる。

 個人的には、今回の予算修正の件について社長に直接問いただしたい。でも、外薗本部長による上積みの操作については、梅宮さんからオフレコと言われてしまっている手前、ここでは切り出せない。

「とりあえず、まずは団交の日程を次回の経営協議会のときに打診しましょう」

「ラジャっす」

 交渉の内容については、次回の執行委員会までに考えよう。


 執行委員会が終わり、みんなが書記局を出ようとするとき、杉本さんが何か言いたげに俺の方を見ていた。

「あの、どうかしました?」

「うーん、えっとねえ」

 なんだか言いづらそうにしている。

「どうしたんですか? 気になりますよ」

「うん。……最近、人事部と仲良くしてるじゃない? いや、全然悪いことじゃないんだけどねえ」

 一瞬、心臓がどきっとしてしまう。

「抜き打ちの巡視とかもね、取り組みとしては良いんだけど、組合が会社側と同じ動きばっかりしてると、良く思わない人もいるからねえ」

 ああ、なんだ。そういうことか。

 胸を撫で下ろす。

御用ごよう組合って呼ばれるのは嫌じゃない? だから、一定の線引きはした方がいいかなあ、と思って」

 そう言い残して、杉本さんは書記局から出て行った。


 ほっと安心したはずの胸に、少し嫌なものが残り、しばらく離れなかった。

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