どういう定義においておっしゃるのでしょう
丸井さんに私が猫好きであることを打ち明けてから一週間が過ぎました。そろそろ、またミイちゃんから心の栄養を補給したいところです。人間というものは、一度贅沢を覚えてしまうと、それが基準となってしまうものなのです。
そんなことを思いながら、帰り際にまた公園に寄り道をしました。
もしかしたら丸井さんとも偶然会うかもしれませんが、丸井さんがいればミイちゃんとの遭遇率も接触可能率も大幅に上がることは判明しています。
あくまでそういう意味で、丸井さんとも会えれば良いかもしれません。
思い返せば、丸井さんが組合に来たのは五ヶ月ほど前のことでした。
当時委員長だった一ノ瀬さんから言われたことを、今でも覚えています。
「新しく専従書記長で来た丸井くんってヤツがさ、今度から組合の窓口になるからよろしくね。ちょうど梅宮さんと同年代だし仲良くしてあげてよ。しかも、めっちゃ優秀だよ。あの分かりづらい退職金の資料を一日で全部読み込んで理解するようなヤツだからさ」
“あの分かりづらい退職金の資料”を作ったのは私なんですけれども。
私だって好きであんな資料を作ったわけではありません。人事部内ですら正確に理解している人はおらず、あの複雑な退職金の制度を少しでも平易な文章にすべく、悪戦苦闘して就業規則を書き直しました。そして、ようやく現状の退職金制度の問題点が浮き彫りになり、制度そのものが改訂されることになったところだったのです。
そんなこともあってか、最初に丸井さんと会ったときは、つい八つ当たりのようなことをしてしまいました。情けない話ですが、妙な対抗心を燃やしていたのかもしれません。
「お、梅宮さんやないか」
突然、後ろから声をかけられ振り向くと、外薗本部長が立っていました。
顔が少し赤いところをみると、お酒を飲まれた帰りのようです。
「こんなとこで偶然やなあ。どうしたん? デートなん?」
あまりセクハラだのなんだのと騒ぎたくはありませんが、これは立派なハラスメントです。
「社外とはいえ、そのような言動は好ましくありませんね。気を付けた方が良いかと存じますが」
「お、おお。すまんな」
わかればよろしいのです。
「本部長はどうしてこんなところにいらっしゃるのですか?」
「ん、役員会議のあと懇親会がこの近くの店やってな。その帰りや」
なるほど、随分早い時間から懇親会をされていたのですね。良いご身分で。
「そうでしたか。それでは私は用事がありますので」
おそらく本部長は駅に向かうと思われたので、私は逆の方向に歩く素振りを見せました。
「梅宮さんは労務担当やったよなあ。組合を相手にするのは大変やろ? あいつら、なんもわからんくせに好き勝手
用事があると言っている相手に平気で会話を続けるその無神経さに、少し苛立ってしまいます。
「いえ、そうでもありませんが」
労働組合の肩を持つわけではありませんが、言ってみれば私の仕事相手のようなものです。不当な評価に同意したくもありません。
振り返って、しっかりと反論をすることにしました。
「彼らは彼らで、真剣に会社のことを考えています。立場は異なりますが、目指すところは同じかと思われます」
自然に出てきた自分の言葉に少し驚きました。
「確かに世の中には、会社に反発することしか考えていない団体もあるかもしれません。ですが、この会社の組合は、ちゃんと会社が良い方向に進むよう、職場が働きやすい環境になるよう、考えて活動をしています。……少なくとも、私にはそう感じられました」
前に私がいた会社の労働組合は、既得権益を守ることばかりに従事し、まさに反発ばかりする団体でした。丸井さんや一ノ瀬さんのように、建設的な提案してくることも無く、社内の問題を解決するための協議をすることもありませんでした。
労働組合というのはそういうものだとばかり思っていましたが、そういう組合だけではないのだということをこの数ヶ月で学びました。
「……そうかや。まあ、梅宮さんがそう言うんなら、かまわんわな」
私に全くメリットは無いというのに、労働組合の味方をしてしまいました。お返しとして、丸井さんにミイちゃんを呼んでもらわなければ。
「でもなあ、今の専従の、……なんていったかな」
「丸井さん、ですか?」
なぜ丸井さんの話を出してくるのでしょう。
「そうやそうや、丸井や。あいつは問題社員やぞ。気を付けた方がええで」
そういえば、丸井さんと外薗本部長との間で揉め事があり、まだ確執が残っている、という話を前に屋代部長から聞いたような気がします。
とすれば、これは明らかに個人的な攻撃です。そういったものを認める訳にはいきません。
……私の心が妙に苛立っているのも、人事部として公平を期すためです。
「お言葉を返すようですが、そもそも問題社員というのは、労働契約を果たしていない社員のことをおっしゃっているのですよね」
「んん?」
面食らったような顔をしている外薗本部長に構わず、私は続けます。
「契約上の労働者の義務は、職務専念義務、誠実義務、企業秩序維持義務などがありますよね。丸井さんがこれらに抵触しているとは思えませんが、外薗本部長はどういう定義においておっしゃるのでしょう?」
職務専念義務とは、ちゃんと真面目に働くということ。出退勤不良や業務命令違反などがあれば、この義務に対する違反となります。
誠実義務とは、会社の信用を保持し、業務上の秘密を守ること。企業機密を漏洩させたり、会社や社員の中傷をしたりすれば、この義務に対する違反となります。
企業秩序維持義務とは、会社の秩序を維持すること。ハラスメント行為などが違反となります。
それらに該当しないのであれば、“問題社員”という言い方は不適当です。
「丸井は……、上司の命令に逆らったんやで。せやから、問題やろ」
「合理的な業務命令であれば、もちろん職務専念義務違反になりますね。その命令はどのようなものだったのでしょう?」
「それは…………」
ようやく諦めたようで、外薗本部長は黙り込んでしまいました。
丸井さんのことですから、きっと本音と建前を分けずに、筋の通らない話に対して反発してしまったのでしょう。今の外薗本部長の様子から、なんとなくわかってしまいました。
「まあ、ええわ。とにかく、あいつに噛み付かれんよう気いつけや」
そんな捨て台詞を残し、外薗本部長はようやく帰ってくれました。
「――ったく一ノ瀬といい、なんであんなヤツの――」
去り際に、そんな恨みがましい声が聞こえました。もしかしたら、一ノ瀬さんも丸井さんのことをかばったのでしょうか。まったく、丸井さんは幸せものですね。
結局、その日はミイちゃんにも丸井さんにも会えず仕舞いで終わってしまいました。
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