付け込む隙や弱みを決して見せてはならない
どこかの部署で大量の返品が発生し、今期の業績予想が大きく変わったため、各部署の予算修正が行われるかもしれない。
そんな話が人事部で広まり始めたのは、少し肌寒さを感じるようになった季節の変わり目でした。
私たち人事部においても、できるだけ経費を削減するようにと、出張や残業を制限する御触れが屋代部長から出されました。私自身は、元々残業をしないよう心がけてきましたし、出張する機会もまずありませんので、何かが大きく変わる訳ではありませんが、それでも社内の空気が少し張り詰めているのを感じていました。
「あれ? 梅宮さん? もしかして、またあの猫ちゃん探してるんですか?」
会社からの帰り際、ミイちゃんの姿を求めて秋風が吹く公園を散策していたときです。
偶然丸井さんが通りがかったようで、声をかけられてしまいました。
……もはや言い逃れはできません。
「ええ。今日のラッキーアイテムが、猫だったもので」
つい嘘をついてしまいました。
占いなんて全く信じていないのですが。
「そういえば、あの猫ちゃん、なんていう名前なんでしょうか?」
「……ミイちゃん、と誰かが呼んでいるのを聞きました」
「そうなんですか。ミイちゃん、今日も来てるかな」
何故か、丸井さんも一緒にミイちゃんを探すことになりました。
「一ノ瀬さんの部署が、面白い取り組みを始めたみたいなんですよ」
「そうなんですか」
ミイちゃんを探しながら、丸井さんが言いました。
「業務中に社員が好きな音楽をかけられたり、役職名で呼ぶのを禁止したり、そんなルールを作ったみたいです」
「随分とユニークなことをされるんですね」
「ジョブローテーションも部分的に導入したみたいで、どんどん効率化して残業も減ってるみたいです。さすがですよ、一ノ瀬さんは」
丸井さんの話し方は、まるで尊敬するお兄さんを自慢する弟のようです。そんなことを思うと、少し微笑ましく感じてしまい、つい口元が緩みそうになります。もちろん表情には出ないよう、口を堅くしっかりと結びますけれども。
この数ヶ月間のやりとりで、丸井さん個人が悪い人ではないということは十分に判断できました。ですが、労務担当という折衝の窓口である立場上、労働組合とは一定の距離を置き、付け込む隙や弱みを決して見せてはならないのです。
「残業と言えば、これも一ノ瀬さんから聞いたんですけど、部署によってはまだサービス残業の習慣が実態として残ってるところもあるみたいです」
「……そう、なんですか?」
丸井さんはあっさりと言いましたが、これが本当だとすれば大きな問題です。そういったことのないよう、人事部は管理職に対して時間管理の徹底を呼びかけているのですから。
「部長とか課長とかが先に帰っちゃって、社員が残業申請を出さずに残ってるって聞きました。しかも、定時に打刻だけして、そのまま残ってる人が多いみたいです」
「……なるほど。そういうことですか」
管理職に対して、部下に正しく打刻をさせるよう教育しなければならないのかもしれません。研修プログラムに少し手を加える必要がありそうです。
「自主的に残ろうが、仕事をしている以上、それは残業になりますよね? 全社員にその辺りの指導をできませんか?」
丸井さんが私の目を見て、聞いてきます。
前から思っていたのですが、丸井さんは会話するとき、しっかりと相手の目を見据えて話す習慣があるようです。もちろんそれは悪いことではないのですが、なんといいますか、ずっと見られていると、少し居心地が悪くなってしまいます。
自分は本音で喋っている。だから、本音で話してくれ。
そう言われているような気がして、つい目を逸らしてしまいます。
「……たしかに、従業員全員に対して適正にタイムカードを打刻するよう改めて指導する必要がありますね。打刻時間と実際の勤務時間との
いつものように、できるだけ淡々とした言い方を心がけます。
「指導だけじゃなくて、パソコンの起動時間のログを取れないか、安全衛生委員会か何かでシステム担当者に聞いてみませんか?」
なるほど。それなら効率的かつ確実にチェックができますね。
「ログの取得が可能かどうかはわかりかねますが、一度私の方から聞いてみます。ただ、あまり期待はしないでください」
もしシステムに手を加えるのにお金がかかることであれば、どうしても稟議を上げなくてはなりませんから。
「あ、ミイちゃんいましたよ!」
丸井さんが指を差した方を見ると、草むらから顔を出しているミイちゃんが見えました。
ミイちゃんはまた私ではなく丸井さんの方にすり寄っていきます。丸井さんは動物に好かれるタイプなのでしょうか。
「よしよし。元気だったかー?」
丸井さんの大きな手がミイちゃんの頭を撫でると、みいちゃんは気持ち良さそうに喉を鳴らします。
ああ、寝転がった挙げ句、お腹まで見せています。
この状態であれば、私が触れても逃げないのは前回の経験から判明しています。
ですが、私も触りたい、などと申し出るのはどうしても躊躇してしまいます。
「梅宮さんも、どうぞ」
「っ!」
やはり丸井さんは良い人です。それではお言葉に甘えて。
「そうですね。せっかくですから、手軽なセラピーを受けるつもりで」
……どうして素直にお礼を言うことができないのでしょうか。
街灯の下、ミイちゃんのモフモフとしたお腹をなでながら、私と丸井さんの違いを考えます。
なぜ丸井さんの方にばかりミイちゃんは寄っていくのか。
なぜ私は猫に逃げられてしまうのか。
しかし、どれだけ考えても答えは出ません。
「これで今日は良いことがありますね。もう夜ですけど」
「……良いこととは?」
突然、丸井さんが妙なことを言いました。
「え? だって、ラッキーアイテムなんですよね?」
「あ」
自分がついた嘘をすっかり忘れていました。
「ええ、そう。そうです。これで安心して帰宅できます」
危うく嘘が暴かれてしまうところでした。
「ふふ。そうですね」
丸井さんがこちらを見て少し笑いました。
もしかして私の浅はかな嘘など、既に見抜かれていたということでしょうか。
だとすれば滑稽極まりないことです。
ならばせめて――。
「実は」
中途半端に隠すよりは、正直に言ってしまった方が潔いでしょう。
「好き、なんです」
丸井さんが驚いた顔を見せます。
やはり、こんな私が動物好きなんて、おかしいですよね。
「すみません。似合わないのは自分でもわかってるんです」
「そ、そんなことは……」
ほら、丸井さんも困っています。
「でも、どうしても猫ちゃんだけは我慢できなくて」
言い訳をするかのような私の弁明を聞いて、丸井さんは合点が言ったような顔を見せました。
「あ、ああ、猫……。いえ、全然そんなことないですよ」
心なしか、残念そうに見えます。どうしてでしょうか。
「……梅宮さんも猫っぽいですよね」
私が猫っぽい? そんなこと、初めて言われました。
でも、全く悪い気はしません。
「そうですか。あ、でも私が猫を好きなこと、あまり人に言わないでくださいね」
「え? どうしてですか?」
「どうしてもです」
私にもイメージというものがあるからです、とはさすがに言えません。
「……わかりました」
丸井さんは物わかりがよくて、とても良いです。
「もう遅いですし、そろそろ帰りましょうか」
ミイちゃんを交代でなでていると、丸井さんが思い出したように言いました。
気が付くと辺りは真っ暗になっていました。
楽しい時間はあっという間に過ぎるようです。
今日のお礼というわけではないのですが、駅での別れ際に丸井さんにお伝えすることにしました。
「丸井さん。ご存知かもしれませんが、もしかしたら今期の予算に修正が入るかもしれません。悪い方に、です」
別に極秘事項というわけではないので、お伝えしてしまっても構わないでしょう。
「多くの部署に予算の上積みが予想されます。先ほどの残業問題の件、気を付けましょう」
丸井さんは、はい、と大きく返事をして、私とは逆のホームの階段を上って行きました。
そして私は言葉にできない充実感とともに、帰路につきました。
猫はラッキーアイテム。
口からのでまかせでしたが、あながち嘘ではなかったのかもしれません。
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