管理職になった俺は、いわば会社側の人間で
足が痛い。太もも、ふくらはぎ、すね、足首、足の裏。足全体が痛い。
いや、痛いのを通り越して、なんかもう痺れてきた。
顔を上げると、リュックサックが二つ揺れている。
ド派手なブルーと、地味な黒。それぞれが揺れながら、少しずつ前に進む。
置いて行かれないことだけを考えながら、必死で足を前に出す。
なんで、こんなこと、やってんだっけ。
どうして、こんなこと、しようと思ったんだっけ。
あれは先週だっけか。
ええと、たしか――。
10月1日付けの辞令が発表され、俺は管理職になった。
「はじめまして! このたび副部長をやらせてもらうことになりました一ノ瀬和馬でっす! よろしくおねがいしまっす!」
新しい部署での朝礼で、みんなの前に立って自己紹介をする。できるだけ元気よく、できるだけ明るく。
経緯はどうあれ、仕事は仕事だ。しっかりやっていくために、まずは挨拶だ。
お辞儀を終えて顔を上げると、まばらな拍手が聞こえてる。
「じゃあみんな一ノ瀬クンのことよろしくね。若いからっていじめちゃあダメだよ」
部長の中山さんが、俺のあとにウケ狙いのようなことを言う。でも、誰もくすりとも笑わない。課長にいたっては軽く舌打ちをした気がする。
中山さんの言い方も微妙だけど、ちょっと雰囲気がよくないなあ。
これがこの部署に対しての第一印象だった。
「ここの内務さん達が請求や見積作成なんかの作業をやってくれてるよ。で、こっちの派遣さんがその他の雑用をしてくれる。しっかり頼るんだよ」
朝礼のあと、中山さんが俺を連れてみんなを紹介してくれる。
紹介された人達は、軽く会釈はするものの、何も喋らない。
朝礼のときからなんとなく思ってたけど、なんて静かな部署なんだろう。
それが、第二印象。
部署のなかのみんなを紹介された後は、部長がいつもどんな仕事をしているかを教わるだけで、初日は終わった。
副部長といっても、下には課長がいて上には部長がいるので、とても微妙な立ち位置だ。予算作成なんかの数値管理は部長がやるし、部下の仕事の進捗管理は課長が行う。副部長の俺は、その両方のサポートをすることらしい。なので、今日は部長がどのような仕事をしているかを中山さんから教わり、課長からは業務のリストをもらうだけで、その日は終わった。
終業時間を知らせるベルが鳴った途端、中山さんが帰り支度を始める。
部長が率先して退社するってことは、ここの部署はみんな帰るのが早いのだろうか、という期待はすぐに砕かれた。
お疲れー、と半ば独り言のように言って、中山さんは颯爽と帰ってしまった。課長にいたっては、いつ帰ったのか気付かないうちにいなくなっていた。
それなのに、他のみんなは誰一人帰ろうとしない。
部長や課長に残業申請をしている様子もない。
「あのー、みなさんはまだしばらくお仕事されるんですか?」
恐る恐る近くにいた内務の女性に聞いてみる。
「……まあ、仕事、終わんないですし」
目も合わせないまま、無表情で返ってきた。
おいおい、この部署、ちょっとヤバいぞ。
これが、第三印象だった。
それらの印象が何も変わらないまま一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、時間だけがただ流れていく。
自分がただの営業だったときは、自分の仕事をしっかりこなして、せいぜい後輩の面倒を見る程度だった。後輩に何かを教えるときも、自分の営業に付いてこさせて、自分のやり方を教えるだけでよかった。
組合の委員長として何かをするときは、会社全体の状況を見て、その都度起こる問題に対応してきた。どちらかというと大きな問題が多かったが、自分一人で解決できる問題ではないことが最初からわかっていたので、執行部のみんなや、場合によってはいろんな部署の人達と協力をして、少しでも改善できるように取り組んでいた。
でも、息の詰まるような職場環境に、一人の管理職として身を置かれると、何もできない。どこから変えればいいのか検討もつかない。
何度か中山さんや課長にも相談を持ちかけたが、全く取り合ってくれない。まずは今の環境に慣れて、ここの仕事の仕方を覚えろ。そう言われるだけだった。
これにはさすがに参ってしまう。
こんな陰鬱な気分のまま帰宅する気にならない。
気付けば、足取りは書記局に向かっていた。
管理職になった俺は、いわば会社側の人間であって、組合と会社が必要以上に慣れ合うべきではないと考える組合員もいる。みんなに迷惑をかけるかもしれない。
頭ではそうわかっていても、どうしても顔を見たくなってしまった。
みんなと話したくなってしまった。
書記局のドアをノックする。中から、どうぞ、と声が聞こえる。
扉を開けると、伍代くんと丸井くんが打ち合わせをしていた。
ほんの少し前に会ったばかりだし、社内でもときどきすれ違う。それなのに、この書記局で見る二人の顔は、なぜかとても懐かしく思えた。
そこから、どんな話をしたのか、よく覚えていない。
泣きそうになるのを我慢しながら、恥ずかしい話だけどいろんなグチを言った気がする。後輩二人に対して、だよ。先輩としては情けない限りだよ。
でも、俺の話を一通り聞いてくれて。
伍代くんが急にこう言ったんだ。
「一ノ瀬さん、そういうときは山っすよ!」
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