そういう相手こそ、好きだと思い込んでみる
次の委員長に伍代くんを選んだのにはいくつか理由がある。
もともと伍代くんには、来年は副委員長、その翌年には委員長をお願いするつもりだった。とはいえ、大幅な予定の繰り上げは、どうしても本人や周りに負担をかけてしまう。繋ぎの間だけでも、杉本さんに委員長をもう一度お願いすることも考えた。
だが、組合の委員長は一つの組織の代表者だ。委員長が変わる度に、登記簿の変更などの細かな法的手続きをしなくてはいけないし、書類も作り直さなきゃいけない。それらは書記長の仕事になるわけだけど、丸井くんにそれを何度もさせるのは、時間的にも労力的にも組合活動の大きなロスになる。
それに、杉本さんはいつ昇進してもおかしくない年齢だ。外薗がまた余計なことをしないとも限らない。委員長に就任したタイミングを見計らって管理職にする、なんてこともやりかねない。
それに比べると、伍代くんはまだ25歳。管理職にするのは、いくら外薗でも無理だ。
もちろん伍代くん本人の資質も十分にある。趣味の幅が広くて人当たりも良く、社内での顔も広い。いろんな人と繫がりを持てるというのは、委員長としても協力な武器になる。
ストレートに突っ込んでいく丸井くんと、様々な情報を使いこなす伍代くん。
委員長と書記長との相性も、組合では重要だ。
彼らはきっと良いタッグになる。
そんなことを、社内の喫煙所でぼんやりと考えた。
タバコなんて、何年ぶりだろう。別に禁煙してたわけじゃないんだけど、スーツに匂いが付くのが嫌で、いつからか止めてたなあ。
それなのに、執行委員会が終わったあと、コンビニで缶コーヒーだけ買うつもりが、気が付いたらタバコとライターまで買っていた。
ふう、と煙を吐き出す。
煙と一緒に、胸のなかのモヤモヤしたものが少しだけ身体から出ていく。もちろん、そんなのは気のせいなんだけど。
帰る間際、なんとなく書記局の様子を見てみる。
もう21時を過ぎているけど、丸井くんが残っていそうな気がする。
ドアをノックすると中から、はい、と声がした。やっぱり残っていた。
「あれ? 一ノ瀬さん。どうしたんですか?」
「おっす。遅くまでお疲れ。いや別に用事があるわけじゃなくてさ。帰る前にチラっと寄ってみただけ」
本当に、なんとなく来てしまった。
まだ実感は湧かないけど、心の奥では名残惜しく思ってるんだろうか。
「一ノ瀬さんこそお疲れさまです。執行委員会のあとも仕事してたんですか?」
「んー、まあ。でも集中できないから、もう帰るとこ」
ほとんど喫煙所にいたわけだしね。
「俺もちょうど帰ろうと思ってたんですよ。よかったら、夕飯でも食べて帰りませんか?」
お、丸井くんの方から飯に誘われるのは珍しい。そうだな、せっかくだし。
「おっし。んじゃ、俺の行きつけの定食屋に行こうぜ」
なんだか、丸井くんを組合に誘ったときと、ちょうど立場が逆だな。
「やっぱり俺のせい、ですよね」
一口めのビールを口に含んだところで丸井くんが言った。
「俺が組合に来たから、外薗本部長から嫌がらせを受けたんですよね」
ああ、そうか。そんなことを気にしてたのか。
「んにゃ、違うよ。もともと外薗にはパワハラ疑惑とかいろいろあったからさ。組合からも追及してたんだよ。それが面白くなかったんだろうね。俺を委員長から外すために、前から画策してたっぽいしさ」
「そうなんですか……。でも、せっかくの昇進なのに、心から喜べないって、なんか悔しいですね」
「だねえ。俺だってサラリーマンだからさ、人並みに出世欲はあるよ。でも、あいつの差し金で不自然な形で出世したって、なんも嬉しくねえし」
「でも、一ノ瀬さんなら、遅かれ早かれ昇進はしてましたよ。それが早くなったってだけで、昇進自体はお祝いさせてください」
丸井くんのまっすぐな言葉に、少し泣きそうになる。
くっそ。ポーカーフェイス、ポーカーフェイス。
「一ノ瀬さんが副部長をする部署の、部長さんって誰なんですか?」
「んっとね、たしか
「ああ……あの人ですか……」
丸井くんが渋い顔をする。心当たりがあるんだろうか。
しかし、丸井くんはやっぱり感情が顔に出過ぎだ。人として全然悪いことじゃないけど、書記長として交渉に臨む際には少しくらい隠した方がいい。
「あのさ、丸井くんって、思ったことがすぐ顔に出るよね」
「え? そうですか? そんなつもりはないんですけど」
自覚なしかーい。
んじゃ、いっちょ伝授してあげましょうかね。
「俺が営業するとき、いっつも念頭に置いてるんだけどね。相手のことを、すっげー好きって思って話すんだよ。そうすると、自然にいつも笑顔で話せる。これ、おすすめ」
「へええ。トップ営業の技ですか!」
そんな大したもんじゃない。ただの処世術だよ。
「誰でも苦手なタイプのお客さんっているじゃん。そういう相手こそ、好きだと思い込んでみるんだよ。そうすれば良いところが見えてくる。そしたら不思議なことに、相手も自分のことを気にかけてくれるようになるんだよね」
「おおお。さすがです」
「まあ、その範疇を超えたヤツってのもたまにいるんだけどな。外薗とか、外薗とか、外薗とかな」
「ぷっ。一ノ瀬さん、外薗本部長のこと、そんなに嫌いなんですね」
「ああ、嫌いだ。大嫌い。超嫌い」
「ふふっ。でも、どうしてそんなに? 昔何かあったんですか?」
丸井くんがまっすぐな目で俺を見る。
うーん、あんまりネガティブなことは言いたくないんだけどな。
でも、これから書記長として対応しなくちゃいけないかもしれないし、外薗のやり口を知っておくに越したことはないか。
「あいつはさ、もともとは俺らみたいに営業畑で育ったらしいんだよ。で、口は上手いし、頭も切れるし、かなり成績が良かったみたいでさ。どんどん出世していったんだってよ」
「へぇ。まるで一ノ瀬さんみたいですね」
「ふへぇ。やめてくれよ、マジで」
褒められるのは嬉しいが、あいつと一緒にされるのは勘弁だ。
「あいつの一番汚いとこはさ、人前で部下を叱責するとき、自分の口では言わないんだよ。周りの誰かに言わせるんだ。この前の全体会議のとき、丸井くんの質問に答えたのも、外薗じゃなくて取り巻きのヤツだったろ? けど、誰も見てないとこではメチャクチャなことを言う」
丸井くんが急にしかめっ面になる。嫌なことを思い出させてしまったか。
「とにかくさ、第三者が見てるとこでは自分の手は汚さないタイプなんだよ」
「なるほど……。卑怯ですね」
「ああ、卑怯者だよ」
卑怯者、という単語が、昔の記憶を掘り起こす。
そう、卑怯者だったんだ。
「……俺もさ、昔あいつの部下だったことがあってさ……。後輩がなんか失敗したとき、あいつに言われるがままにメチャクチャに叱り飛ばしてたんだよ。これが社会人の指導法なんだって思い込んでさ」
「え? 一ノ瀬さんが……?」
「そのせいで、その後輩は退職しちまってさ。……良いヤツだったのにな。わからないことはなんでもすぐに聞いてきて、飲み込みも早くて、俺をすげえ慕ってくれてたのに、さ。……俺もその卑怯者の仲間だったんだよ」
このことは誰にも言ったことがない。
でも、なぜか丸井くんには言ってしまった。
ああ、あのときの後輩と丸井くんが少し似てるからかもしれない。
「自分でも、なにやってんだろうってわからなくなってさ。俺もあとを追って辞めようとしたんだよ。でも、そのとき俺を引き留めてくれたのが、そんときの組合の人でさ。俺が執行部に入ったのはそれがきっかけ」
「そう、だったんですか……」
丸井くんの顔が沈み込む。
「んな深刻そうな顔すんなって。その後輩にはちゃんと謝って、そいつもちゃんと良いとこに転職できてるから」
あのとき、せめてもの罪滅ぼしと、転職活動の手伝いをして、面接の練習なんかに付き合ったことを思い出す。
「今じゃ、年賀状のやり取りとかする仲だからさ。大丈夫だよ」
丸井くんの顔がぱあっと明るくなる。
そういう風に感情が顔に出るところも似てるかもしれない。
「とにかく、あいつのパワハラの尻尾をつかめなかったのは、そういうこと。だから、あいつと会うときは見えないようにボイスレコーダーを持っといた方がいいよ」
「……わかりました」
書記局に備品で置いてあるレコーダーは古いから、念のため俺の私物のレコーダーも丸井くんにプレゼントしとこう。
店を出て、駅前で丸井くんと別れる。
構内の喫煙所に入ろうとしたが、やっぱりやめた。
溜まっていたモヤモヤは、いつのまにか全部吐き出された気がする。
今日、丸井くんにあのときのことを言えたからか。
もう、タバコの煙と一緒に吐き出す必要はない。
買ったばかりのタバコを構内のゴミ箱に投げ入れる。
委員長としてあと一か月足らず。
丸井くんと伍代くんに、どれだけのものを残せるだろうか。
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