なので、貴方と慣れ合うつもりはありません

「はぁあ」

 経営協議会の最中、目の前の労務担当者が人目もはばからず大きな溜め息をつく。

 銀縁眼鏡の奥で切れ長の目を細める。

「溜め息は幸せが逃げていくんですよー」

 隣に座っている一ノ瀬さんが言う。

 この人の軽口は、場を和やかにする力があると思う。

 でも、今日の相手は一筋縄ではいかない。初対面にして、そう確信した。



「労務担当の梅宮うめみや真希まきです」

 十数分前のこと。

 経営協議会が始まる直前、会社の労務担当者の女性から名刺を差し出された。シンプルな銀縁眼鏡が、仕事のできそうなオーラを醸し出している。

 今日は屋代やしろ人事部長が出張で不在のため、梅宮さんだけが経営協議会に出席とのこと。組合側からは執行部全員が参加しているので、一人対五人の構図になっている。

「はじめまして、書記長見習いの丸井です。よろしくお願いします。同じ社内ですし、わざわざ名刺はいいですよ」

 営業時代、社員同士での名刺交換は経費の無駄だと叩き込まれた。だから、特に何も思うことなく、そう言った。純粋に経費がもったいないと思い、おもんぱかったつもりだった。

「いえ。貴方は現在、社外の人間ですから、そういうわけにはいきません」

 社外の人間。きっぱりと言われた。

「労働組合は会社とは別の組織です。なので、貴方と慣れ合うつもりはありません」

 慣れ合うつもりはない。そう断言された。

 返す言葉を見つけられず、恐る恐るこちらも名刺を差し出す。

 名刺には『書記長 丸井倫太郎』と印字されている。本来であれば来月から使うべきものだが仕方ない。

「丸井さん、ですね」

 よろしくお願いします、の言葉は続かない。

 俺の名刺を睨み付けるように凝視し、机の上に置く。

「それじゃ挨拶が済んだとこで、経営協議会始めましょか」

 一ノ瀬さんの合図で、皆が一斉に資料を開く。


「まず一個め。この前の安全衛生委員会で、時間外労働が45時間以上の人がリストアップされたわけですけど、以前から指摘されていた通り部署によって大きく偏りがありまして。んで、丸井くんが部署別に一年分のデータをまとめてくれた資料がこちら」

 昨日の昼休み、資料作成の報告を一ノ瀬さんにした際、よく一日でこんなにまとめたな、と褒めてもらった。

 資料をぱらぱらとめくり、梅宮さんは一言だけこぼす。

「で?」

 で?

 この人、『で?』って言った?

「んと、場合によっては36協定サブロクきょうていの残業時間を超過する可能性があるんで、部署ごとに対策を考えた方が良いんじゃないですかね」

「それは安全衛生委員会の中で協議する内容ですね。経営協議会の議題としては適切でないと存じます。36協定の内容変更についての申入れであれば協議致しますが?」

「いえ、内容に問題があるわけじゃないんですけど、防止策という意味での運用面に検討の余地があるんじゃないかと思って。今は45時間を超えたときに事後報告みたいな感じで連絡があるわけなんで、45時間を超えそうなときに事前に通知ってできないもんかなと。あなたそろそろ45時間超えそうですよーって感じで」

「では、それも安全衛生委員会の中で検討してください」

「……了解でっす」

 一ノ瀬さんと梅宮さんが何を言っているのかさっぱりわからないが、一ノ瀬さんが押し負けたことは察した。

 これは昨日覚えたことだが、“安全衛生委員会”というのは、一定数以上の従業員がいる会社では設置しなければならないもので、会社の安全面や衛生面のチェックをしたり、長時間労働の防止を図るための組織らしい。人事部と労働組合から数名選出して構成されている。


「んじゃ、次に。これは報告になるんですけど、大阪支店からパワハラの疑いがあるような問合せがありました。支店内でのメールのやり取りをプリントアウトしたものがこちらです」

 大阪支店では、売上げの悪かった営業担当者に対して、支店長が支店の社員全員を宛先に入れたメールで罵倒していた。このことを不快に思った組合員が相談をしてきたというわけだ。

 昨日、支店の同期に連絡をして、実際のメールを転送してもらった。もちろん同期の名前の部分は消してある。

 これも一ノ瀬さんに報告をしたとき、持つべきものは頼れる同期だよなあ、と感心してもらった。

「……これはご本人からの報告ですか?」

「いえ、同じ部署の人からですが――」

「では現段階では何ともいえませんね。ご本人の受け取り方次第ですから」

 一ノ瀬さんの言葉を遮り、梅宮さんが流れるように追い打ちをかける。

「私から見ると、これは“指導”の範囲内かと思われます。方言を文字にすると文面が多少荒く見える、ということもあるかと存じます。報告された方は大阪出身ではないのでは?」

「……かもしれませんね。もう少し確認してみますわ」

 一ノ瀬さんの笑顔が少し悔しそうに見える。


「最後に、これは屋代部長から連絡をもらってた退職金制度変更の件なんですけど、とりあえず丸井くんが現行制度との比較表を作ってくれたんで、これをもとに検討してみますわ。やっぱり入社年度によって差が出るっぽいんで、その辺りの調整もしたいんですけど、まずは資料に補足があれば指摘いただければ」

 比較表を一ノ瀬さんに見せたとき、ここまで読み込むとは思わなかった、と驚かれた。これなら文句ないだろう。

「はぁあ」

 梅宮さんが大きな溜め息をつく。

 ええと、今度は何が駄目なのか。

「溜め息は幸せが逃げていくんですよー」

 場の空気を和らげようと、一ノ瀬さんがいつも以上に軽く言う。

 だが、梅宮さんには通用しない。

「……随分と些末さまつなところに拘りますね」

 些末? 些末って、どういうことだ?

「会社が何故、制度変更を検討しているのか。どういう思想をもって設計したのか。そういったところはお聞きにならないんですか? 意味もなく変更しようとしているとでもお思いですか?」

「んー、確かにそうでしたね。教えてもらえます?」

「それについては、次回の経営協議会の際に屋代が直接説明をするそうです。なので、本日の協議会は終了ということでよろしいですか?」

 そう言って、梅宮さんがこちらの五人の顔を見回す。

 皆は声を出さずに頷き、自分も後を追うようにゆっくりと首を縦に振る。

「んじゃ、また次回は再来週の水曜ですかね。よろしくです」

 あれだけ言われても、一ノ瀬さんは終始ペースを崩さない。さすがだ。

 というか、組合側は一ノ瀬さん以外誰も発言していない。

「では失礼します」

 そう言って梅宮さんは書記局から出て行った。



「やっぱあの人、チョー怖えんすけど!」

 伍代さんがまず口を開いた。

 いつもよりは少し声が小さめだ。

「怖いねぇ。僕、何にも言えなかったよ」

 杉本さんも後に続く。

 何にも言えない、その気持ちはよくわかる。

「いつもよりも厳しかった気がするわね……。何かあったのかしら」

 篠原さんも疲れた顔でこぼした。

 いつもはもうちょっと優しいんだろうか。

「まあまあ、彼女も仕事でやってんだからさぁ。とにかく、今日はお疲れ!」

 俺は何も発言してないのに、疲れてしまった。情けない。

「丸井くんも最初の経営協議会で緊張したと思うけどさ、大体あんな感じ。いつもは屋代部長もいるから、梅ちゃんはあそこまで喋らないけど、今日は丸井くんがいたから張り切ったのかもね」

 俺がいたからって、意味がわからないんですけど。

 っていうか、あの人を『梅ちゃん』なんて呼べる一ノ瀬さんが凄い。

「梅宮さんって、ずっと労務担当なんですか? これまで会社でお会いしたことがなかったんですけど」

 地方支店での営業職とはいえ、五年も同じ会社に務めていたら名前くらいはどこかで聞くものだけど、梅宮さんの名前は今回初めて聞いた。

「あー、あの人、中途入社だからね。まだ三十路前って聞いたから、丸井くんより少し年上くらいかな」

「へえ、一ノ瀬さん、よく知ってますね」

 つい感心してしまう。

「へへ。委員長だかんね。というか、書記長は労務担当とやり取りすることが多いからね。丸井くんも頑張って仲良くするんだよ」


 まじかよ。

 あの人と仲良くできる気なんて全くしないんだが。

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