しばらくは戻ってこれないと考えた方がいい

「引間さん、来ませんね……」

「何の連絡もないのは珍しいわねぇ」


 俺の目の前に座っているのは、週に三回パートで来てもらっているという経理の橋田さんだ。

 明日紹介するから、と引間さんが言っていたが、紹介される前に会ってしまった。まあ、それは何の問題も無いが。

 橋田さんは、会社を定年退職したあと、組合の経理担当としてパート契約をしたという。年相応の白髪が目立つ小柄な女性だが、動きはきびきびとしており、年を感じさせない。引間さんを待つ間、書記局の中にある書類の場所や、地震や火災が起きたときの避難経路など、細かなことを色々と教わった。

 橋田さんと話していると、一昨年亡くなった田舎のおばあちゃんを想い出す。


「もうお昼になっちゃいますね」

「そうねぇ。お昼休みが終わっても連絡が無かったら、電話してみようかしらねぇ」

 営業部だったら始業時刻を一分でも過ぎたら嵐のように電話がかかってくるものだが、なんというか人数が少ないだけあって雰囲気が緩い。まあ、これまで築いてきた信頼関係もあるんだろう。


 橋田さんは弁当持参ということなので、俺だけ昼食を買いに行く。地方の営業部と違って、本社の近くは定食屋も弁当屋も選択肢が多い。これは探検し甲斐があるというものだ。

 とりあえず今日は橋田さんお薦めの弁当屋で昼食を買い、書記局に戻る。

 書記局の扉を開けると同時に、書記局の電話が鳴った。

 橋田さんが受話器を取る。

「はい。労働組合書記局です。……あ、連絡あってよかった。心配してたのよぉ」

 きっと相手は引間さんだ。どうしたんだろう。

「え? ええ? 大変! ええ、こっちは気にしなくていいから。うん。……うん。じゃあ、丸井ちゃんには私から言っておくから……。うん。じゃあ、また落ち着いたらでいいからね。無理しないでねぇ……」

 話の内容はわからないが、何かがあったらしい。しかも大変そうなことが。

 受話器を置いて、橋田さんがこちらを見る。

「……引間さんね、お父さんが倒れたらしいの。それで昨日の夜から急遽実家に戻ってるみたい」

「ええ!? それは大変ですね……。大丈夫だったんでしょうか‥…?」

「命に別状はないみたいだけど、引間さん、一人っ子で兄弟はいないみたいだから、ねぇ」

 お祖母ちゃんが入院したとき、病院とのやり取りや着替えの準備など、色々と大変だっと親から聞いた。もしかしたら、しばらくお休みされるのだろうか。

「……ちなみに、引間さんのご実家って、どちらなんですか?」

「前に、四国って聞いたわねぇ」

 それは遠い。しばらくは戻ってこれないと考えた方がいいかもしれない。

 だが、繁忙期じゃなかったのは不幸中の幸いだ。引間さんがお休みの間は、とりあえず資料に目を通して仕事の流れを掴むくらいはしておこう。

「あ、そうだ。とりあえず一ノ瀬さんに報告しておきますね」

 PCのメールソフトを立ち上げ、一ノ瀬さんの会社のアドレス宛にメールを送る。

 弁当を食べている間に、返信があった。


[わかった。連絡ありがとう。ちょうど明日執行委員会があるから、そこでみんなに共有しよう。もし引間くんから連絡があったら、また教えて。よろしく。]


 文体の雰囲気から、営業先でメールチェックをして、その場で返信をした様子が目に浮かぶ。先月までは自分も同じようなことをしていた。それにしても、このレスポンスの速さは、さすがトップ営業だなと感心する。

 でも、『執行委員会』って、何だろう。

 一ノ瀬さんには聞きづらかったので、橋田さんに聞く。

「執行委員会っていうのはねぇ、執行部のみんなが集まって会議することよぉ。毎週水曜日の終業後にやってるわねぇ。みんな仕事が終わった後なのに、偉いわよねぇ」

 なるほど。定例ミーティングのようなものか。そういえば昨日帰りがけに引間さんが、明日の夜に執行部のみんなに紹介するから、って言っていた。てっきり歓迎会かと思っていたけど、ミーティングだったのか。ちょっと恥ずかしい。


 その日の深夜、引間さんから書記長のアドレス宛にメールが入っていた。


 申し訳ありません。しばらくお休みいたします。


 メールには、それだけが書かれていた。

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