第2話 書記長見習いの丸井です

どこまで恵まれた引き継ぎ環境なんだろうか

 7月1日付け人事異動の公示が、会社のイントラに掲載された。第2四半期の始まりという微妙な時期なので、異動するのは数人しかいなかったが、リストの最後には俺の名前もしっかりと書かれていた。

 

 [丸井まるい 倫太郎りんたろう 労働組合専従(休職)]


 他の人の○○部○○課などと比べ、明らかに異彩を放っている。

 というか、ちゃんと(休職)って書くんだな。律儀と言うかなんというか。


 いつかは異動して本社勤務になることもあるかもしれない、なんてことを想像していなかったわけじゃないが、まさかこういう形で本社に来ることになるとは夢にも思わなかった。


 組合の書記局は本社ビルの中にある。とはいえ、完全個室のように仕切られていて、会社の一部署ではなく独立した組織であることを感じさせる。

 こぢんまりとしたスペースにデスクが向かい合って二つあり、その上にはデスクトップPCが置かれている。片方の壁際には書類ラックがずらっと並び、もう片方の壁際にはパイプ椅子と折りたたみ式の長机が寄せられている。よく見ると、冷蔵庫や電子レンジもあり、思ったよりも快適な空間かもしれない。


「電話では何度かお話ししましたが、お会いするのは初めてですよね。書記長の引間里志ひくまさとしです。どうぞよろしくお願いします。組合の経理をやってくれているパートの橋田はしださんは今日お休みなので、明日紹介しますね」

「初めまして! 丸井倫太郎です! よろしくお願いします!」

 現書記長の引間さんと、にこやかに挨拶を交わす。引間さんは元経理部で、専従書記長になって二年程らしい。俺よりも少し年上だろうか。物腰がとても柔らかく、年下の俺にも丁寧な言葉遣いで喋ってくれる。

 引間さんは来月頭に経理部に戻るため、その間の一ヶ月でみっちりと引き継ぎを行う予定だ。営業部にいたときと比べると、一ヶ月も引き継ぎ期間があるなんて、かなり余裕を持ったスケジュールだ。しかも、引間さんは書記長を退任したあとも執行委員として組合執行部に残るため、何かわからないことがあればすぐに聞くことができる。どこまで恵まれた引き継ぎ環境なんだろうか。


「ちょうど落ち着いている時期ですから、引き継ぎに専念できますね」

 引間さんが言うには、1月は定期大会、3月から4月は春闘、5月から6月は夏季賞与交渉、11月から12月は冬季賞与交渉、と年間通して様々なイベントがあり、今の季節が一番暇な時期らしい。

「賞与や昇給の交渉は、団体交渉だんたいこうしょうという社長と直々に話し合う場が設けられます。ですが大事なのは団体交渉そのものよりも、それまでの前交渉なんですよ。その準備については追々お伝えしますね」

 なるほど昇給や賞与も交渉をして決めるわけか。でも定期大会っていうのは何なんだろう?

 俺の頭に浮かんだ疑問符を感じ取ってくれたのか、引間さんが補足してくれる。

「定期大会というのは、一年間の決算を報告したり、翌年の予算の承認を得たり、執行部の選挙をしたり、組合規約を変更したり、一年で一番大事な組合の会議です。これが一つの山場であり節目ですね」

 なるほど。一つの組織を運営するのだから、予算や決算もあるし、規約も役員選挙もあるわけか。これは勉強になりそうだ。


 年間スケジュールの説明を受けたあと、PCの中のデータの置き場所を一通り教わり、最後に書記局の鍵の開け方や締め方を習って、その日はそのまま定時で帰宅した。

 初日とはいえ、こんなに余裕があっていいんだろうか。

 妙な罪悪感を抱えながら、引間さんと駅で別れた。


 翌日、少し早めに書記局に出社すると、引間さんはまだ来ていなかった。

 出社時間を30分過ぎても、引間さんは来ない。

 電車が遅延でもしているんだろうか。でも、それなら書記局に電話があってもいいだろうに。

 引間さん、すごく真面目そうな人だったから、無断欠勤なんかはしないだろうし。

 病気か事故か、もしかしたら何かあったのかもしれない。


 その日の昼頃、ようやく書記局の電話が鳴った。

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