美味い定食屋を知ってるヤツは仕事もできる

 誘ったのは自分だからと、一ノ瀬さんはこっちの営業部の近くにまで来てくれた。本社からだと電車で一時間以上はかかるだろうに。

 一ノ瀬さんとはほぼ初対面だ。駅前で待ち合わせるにしても、お互いの目印に何か必要ではないかと聞くと、俺の顔はわかると言う。全社会議ですれ違ったかもしれない程度の面識しかないのに、名前と顔を一致させているというのは、さすがトップ営業と言うべきか。


「おっす。お待たせ、丸井くん」

 駅の改札前で待っていると、後ろから肩をぽんと叩かれた。

 振り返ると、ネクタイを緩めた男性がにこにこと笑っている。この人が一ノ瀬さんか。思っていたよりも若い。俺よりも少し年上くらいだろうか。

 スーツの上着を肩にかけ、少し暑そうにしている。

「あ、こんばんは」

 そういえば会議で何度か顔を見かけたことがある。

 いや、最近も一度会ったな。あれは前回の全体会議で……。あ、同じように肩を叩かれたっけ。

「この辺、来たの久しぶりだわー。あんま変わってないね」

「わざわざ遠くまでご足労いただき、すみません」

「んー、全然オッケー。客先から直帰だったから、ちょうど良かったし。こっちこそ突然ごめんよ。時間もらっちゃって。んで、この辺で美味い店知ってる?」

「えっと。定食屋でよければ、いくつか」

「お、良いね。俺、腹減っちゃって。ガッツリ食えるとこがいいなー」

 一ノ瀬さん、見た目は結構細身なのに意外だな。

「わかりました。では、駅の反対側に行きましょう」

 駅前の大通りから少し外れたところにひっそりと佇む定食屋。おそらく夫婦でやっている小さな店だ。年季を感じさせる暖簾のれんをくぐると、色んな匂いが混ざった独特の空気が客を迎える。腹が減ったときは、ここの回鍋肉定食と決めている。

 小さなテーブルに向かい合って座り、メニューを一ノ瀬さんに渡す。

「おお、色々あんね。おっし、決めた。丸井くんは決めた?」

 決めるの早いな!

「え、ええ、決めてます。じゃあ呼びますね」

 手を上げて、おばちゃんを呼ぶ。

「エビチリ定食、ご飯大盛り、と」

「回鍋肉定食、ご飯大盛りをお願いします」

 つられて俺もご飯を大盛りにしてしまった。

「あとビール! 丸井くんも飲む?」

「えっと、お酒弱いんで、少しだけ」

「じゃ、瓶一つでグラス二つ」

「はいよー!」

 元気よくおばちゃんは厨房に帰って行く。

「良い店だねぇ。雰囲気だけで、ここは美味いってわかる」

「そうですね。外見はちょっと古いですけど、味は保証します」

「うんうん、美味い定食屋を知ってるヤツは仕事もできるよ」

「えっと、そうなんですか?」

「まあ、俺の持論だけどね。探究心や好奇心があるヤツは美味い飯屋も自分で探すんだよ」

「はい、お待ちー!」

 なるほど、と納得しかけたところで、先にビールが出てきた。

 とりあえず先輩に先にごうとしたところで瓶を奪われる。

「いやいや、今日は俺が誘ってわざわざ付き合ってもらうんだからさ。はい、ささっと」

 恐縮しながらグラスを差し出す。グラスを最初は45度くらい傾けたあと、注がれながら少しずつ角度を戻して行く。

「お、弱いなんて言っときながら、美味い注がれ方をよくわかってんじゃん。実は好きなんじゃないのー?」

「いえ、入社したばかりのとき、先輩に習ったんですよ」

「いいねえ。そうやって受け継がれて行く技ってのは」

 大げさなことを言う。とりあえず瓶を受け取って、一ノ瀬さんに注ぐ。

 ラベルを上に向けて見えるようにして、両手で注ぐ。これも昔先輩に習ったこと。

「おっとと。ん、サンキュー。じゃ、乾杯!」

「乾杯、です」

 こつん、とグラスを合わせ、口をつける。

「いやー、ビールが美味しい季節になったねえ」

 一ノ瀬さんが美味しそうに喉を鳴らす。

 俺もこの一口目のなんとも言えない味わいは好きだ。

「んでさ、考えてくれた? わかんないこともあるだろうから、気になることは何でも聞いてよ」

「書記長の件、ですよね」

 電話のあと、組合からのメールを見返してみると、『書記長』という肩書きの人からのメールもあった。なので、『しょきちょー』の謎は解けた。だが『せんじゅー』がよく分からない。Googleで調べたら、『専従』というものが近い気がするが、いまいち意味がわからない。

 しかし、それよりもまず言っておくべきことがある。

「すみません、先に正直に言います。……実は俺、会社辞めようと思ってたんです」

「うん、知ってる。だから急いで声をかけたんだよ」

「へ?」

 こともなげに一ノ瀬さんが言う。

 同じ職場の人間ならともかく、なんで違う営業部の一ノ瀬さんが知ってるんだ?

「組合の委員長なんてやってるとさ、いろいろ情報が入ってくるんだよね。この前の全体会議のとき、外薗に真っ向から歯向かっただろ? あのあと丸井くんのことを心配する声がいろんなとこから挙がってきたんだよ。外薗にはがたくさんあるからさ」

 俺を心配する声? 外薗の前科?

「外薗はさ、自分の気に入らない奴を左遷したり、パワハラ紛いのことをしたり、いろいろやっててさ。組合でも問題になってんだよね。でも、決定的な証拠がないから、なかなか手が出せない。人事部に言っても、それは事業部の問題だっつって取り合わない。そうこうしてるうちに、役員にまで成り上がってクソみてえな権力も手に入れた」

 そうか。俺だけじゃなかったんだ。でも――。

「ああいう奴が出世するような会社には失望した、だろ? 痛いほどわかるよ、その気持ちは。でもさ、あんな奴のために辞めるのも悔しくね? だからさ、一回切り替える意味でも、専従を何年かやってみるのってどうだろ?」

 悔しいと言えばもちろん悔しい。

 失望と言えばそうかもしれない。

 自分の感情を探る。

「……え、と」

「はい、お待ちー!」

 全く空気を読まずにエビチリ定食と回鍋肉定食が運ばれてきた。

「お、美味そー!」

「……熱いうちに食べましょうか」

「もちろん! いっただきまーす!」

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