ああ、もう君しかいないって思ったんだよね

 検索をして読んだサイトに、退職届のフォーマットを会社が用意していることが多いと書かれていた。それに従い、会社のイントラネットをあらためて調べてみたら、確かに申請書類のところに退職届も用意されていた。

 こんなところにこんなものがあったなんて、初めて知った。


 イントラネットから書類をダウンロードして、さっそくプリントアウトする。

 出てきた用紙に署名と捺印を済ませ、息を吹きかけて朱印を少しでも早く乾かす。

 こういうことはすぐに終わらせた方がいい。


 退職届をそのまま持って行くのもなんとなく気が引けたので、引き出しを開けてクリアファイルを取り出す。無意識のうちに、新品のクリアファイルを選んでいた。

 新品のクリアファイルは顧客に提出する書類にしか使わないのだが、まあいいか。最後だし、これくらいの贅沢は許されるだろう。


「部長、こちらをお願いします――」

「ん――」

 

 退職届を手渡す直前、斉藤部長の内線が勢いよく鳴った。

 斉藤部長が俺に、すまん、とジェスチャーを送る。

 俺は、どうぞ、とジェスチャーを返す。

 いまいちタイミングが悪い。電話で話す斉藤部長の前に立ったまま待っていてもプレッシャーを与えるだけだから、一度席に戻ることにする。


「はい、第三営業部、斉藤です。……え、あ、ああ、大丈夫だ。久しぶりだな」

 電話がどのくらいで終わりそうか、会話の様子を伺う。

「え? いや、それはまだだが、おそらくそろそろ……。え? いや、それは……。そうだな、本人の希望も……。そうか、こっちとしてはその方が……」

 内線だから相手は社内の人間のはずなのだが、なぜだか会話がぎこちない。

 思ったよりも時間がかかりそうだから、引継書でも作ることにするか。


「……ああ、連絡してくれて構わない。今なら本人も社内にいる。……ああ。わざわざありがとう」

 耳の端で内線が終わるのを捉え、再度席を立つ。

 と、今度は自分の席の内線が鳴った。本当にタイミングが悪い。

 少し苛立ちを覚えながら、内線に出る。

「はい。第三営業部の丸井です」

「お、もしもーし。首都圏営業部の一ノ瀬です。いま時間大丈夫かな?」

「え? ええ、大丈夫です」

 受話器の向こうから妙に陽気な声が聞こえる。

 首都圏営業部といったら、営業部の花形部署じゃないか。一ノ瀬という名前も週報で何度も名前を見たことがある。紛うことなき営業部のエースだ。そんな人が俺に何の用があるんだ?

「あのさ、単刀直入に聞くけどね。丸井くんさ、しょきちょー、やってくんないかな?」

「え? しょきちょー?」

「うん、しょきちょー」

 なんだそれ?

 初期腸? 書基調? 署機長?

 色々な漢字の組み合わせを想像するが、おそらくどれも違う。

「あー、えっと、しょきちょー、ですか」

「そそ。せんじゅーのしょきちょー」

 また新しい単語が出てきた。

 先住? 千十? 戦銃?

「えっと、せんじゅーの? しょきちょー? ですか?」

「うん。突然で驚いたかもしんないけど、実は前から君には目を付けててさー。あの会議のときが決定打だったね。ああ、もう君しかいないって思ったんだよね。どうかな?」

「えっと、すみません。話がよくわからないんですけれど……」

「ああ、そうだよね。悪い悪い。こういうのはちゃんと会って説明しないとね。今日の夜は空いてる? 良かったら飯でも食いながら話さない?」

「え、あ、はい」

「お、いいね。じゃ、後でメール送るから、また細かいことはそのときに」

 いまいち意味がわからないまま、なし崩し的に会うことになった。


 手に持ったままの退職届をどうするべきか。斉藤部長の方を見ると、向こうからこちらに歩いて来ていた。

「おお、さすがフットワークが軽いな、一ノ瀬は」

「え? なんでわかったんですか?」

「お前の前に俺のところに電話してきたからだよ。お前を引き抜いて構わないかって。わざわざ律儀な奴だよ」

「引き抜く?」

「……聞いてないのか? 組合のせんじゅーの話」

「あ、いえ、それは確かに聞きましたけど。なんか今日会うことになりまして」

「ああ、迷ってるのか。まあ、迷うよな。俺としては、お前に抜けられるのは部長としてかなり痛いが、それでも辞められるよりはいい」

 少し眉をしかませながら、斉藤部長は続ける。

「それに組合の仕事は会社全体のことを見る良い機会だ。今の役員達はだいたい組合の役員経験者だしな。かく言う俺も、昔は執行委員やってたんだぜ」

「はあ」

「とにかく、一ノ瀬の話をしっかり聞いて決めればいい。あいつが委員長だったら、お前も一緒に仕事しやすいだろうしな」

「は、はあ」

 ん? 委員長? 組合?

 そういえばそういうメールがたまに来ていたような。

 メールボックスで『組合』と検索すると、労働組合のメールがヒットした。

 社内の一斉メールは自分に無関係と、ほとんど読まずにスルーしていたから、気付かなかった。

 一ノ瀬さんは、労働組合の委員長だ。その組合の仕事に俺を勧誘してきた、ということか。

 しかし、一番大きな謎は残る。


 せんじゅーってなんだよ!

 しょきちょーってなんだよ!


 とにかく、この謎が解けるまでは、退職届は保留にするか。

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