第四章 焼逐梅  PART8



  8.


「ああ、来た来た。ごめんね、急に呼び出して」


「栞ちゃん、仕事は大丈夫だったのか? それよりも武彦は?」


 息を切らせながら訊くと、栞ちゃんは小さく頷いた。


「うん。大丈夫みたい。過労で倒れただけ。本当にごめんね。気が動転しててさ、気がついたらおじさんを呼んでた」


 中に入ると、武彦が診療室のベッドの上で眠っていた。ベッドの空きがなく、とりあえず簡易的に処置されたらしい。


「しかし驚いたよ。今まで武彦が倒れた所はみたことがなかったからな」


「そっか、おじさんは知らないんだね……」


 栞ちゃんは声を潜めながら椅子を勧めてきた。


「パパはもう、何度も倒れてるよ。だから担当の看護師さんもここに寝かせて別の現場に向かってるの」


「そうだったのか……」


 目を閉じた彼の姿をまじまじと見つめると、様変わりしているように見えた。皺の量も増え、さらに老化が進んだようにみえる。


「うちの家族も大変なんだよ。おばさんがいなくなったら、パパもさらに元気がなくなっちゃうだろうし、何かいい方法はないかなぁ」


 栞ちゃんの表情が一気に暗くなる。だがいつも笑顔を被っているせいか、あまり絶望感はみえない。


「……栞ちゃんも大変だな」


「そうだよ。おじさん、今頃気づいたの?」


彼女のおどけるような言い方に戸惑う。


「おじさんが私の命をも助けてくれたから、きちんと生きないといけないのはわかるけどさぁ。大変なのよ、私も」


 3年前、栞は結婚式場に勤めており、同じ部署の先輩と付き合っていた。


 彼氏の名前は春田順平はるた じゅんぺい、その彼はもうこの世にいない。



「せっかくここまで来たんだから、ママの所にも行ってよね、おじさん」



 ◆◆◆



梅雪の病室に入ると、彼女はベッドの上で目を閉じていた。連絡をせずに来てしまったので仕方がない、ゆっくりと椅子に座り彼女を見つめる。



 ……癌と診断されてから、梅雪は生まれ変わるように勉強していった。



 命の尊さを知るためには、仏教が必要だと知り、癌と向き合うお坊さんのセミナーに参加した。死ぬための準備として、式場で働きながらも葬儀場を見学する癖がついたのは麻里のおかげだ。


 全ては娘を失ってから、俺達二人は再び生きる道を模索することになった。



 ……医者は生き残る方法を教えてくれるが、は教えてくれない。



 人は医療行為によって延命する方法があることを知っている。だがタイムリミットがある命を限りなく有効に使う方法までは教えてくれないのだ。


 それは皆、個人が考えていかねばならない課題で、彼女は自分が生きる道を短歌へと託すことにした。


 

 ――ねえ、斗磨君。ちょっとこの句を読んでくれないかな。



 たった31文字に思いを載せながらも、心情も情景も書き映すことは難しい。それでも彼女は一日に一つ、己に使命を課せながら、毎日書き続けていった。


 その延長線上に、清閑寺の夏川さんと再び繋がることができたのはきっと偶然ではないだろう。


「斗磨君?」


「ああ、俺だ」


 頷きながら武彦の件を隠し清閑寺に寄ったことを伝えると、彼女は小さく笑顔を作った。


「ありがとう。でも本当は別の用事で寄ったんじゃない?」


「ん、いや特に別のことなんてないさ」


「嘘。顔に書いてあるわよ。連絡せずに来るわけがないし、武彦さんのこととか?」


「やっぱりお前にはいつも見破られるな……」


 事情を話すと、彼女は小さく吐息を吐き出すことにとどまった。


「そう、武彦さんも……」


「ああ。あいつも頑張り過ぎるからな」



 小さく息を吐くと、それがため息のように聞こえた。それが梅雪には面白かったのか、二人で苦笑いへと発展していった。



「あいつは過労死するんじゃないかというほどに自分を追い込んでしまっている。真面目な人間は自分の体の心配ができないからな、仕事をさぼることさえできないんだ」


「あら、斗磨君の方が真面目だと私は思うけど」


 梅雪は俺の目を見ながらいう。


「命を賭ける仕事に就く人は皆、真面目よ。休みの日でも鍛錬を怠らないし、情報を常にチェックしてたじゃない。些細なことでも気がつけるのは常に集中してたからだと思うわ」


「昔の話は止めてくれよ」


 恥ずかしげもなく褒められるのは慣れておらず、居心地が悪くなる。


「あの時はプライドの塊だったからな。誰よりも自分が一番できると思っていた。だからこそ不屈の精神でなんでもやり遂げてきたんだ。今は見る影もないが」


「今のあなたも変わらないわよ」


 梅雪は微笑を浮かべながら目を閉じた。


「私があなたから逃げ出しただけなのに、あなたはそれでも私にこうやって会いに来てくれる。あなたほど真面目な人を私は知らないわ」


 20年前、麻里を失った俺達は同じ空間にいながらも、お互いに拒絶していた。娘を失ったということを認められなかったからだ。


 俺たちは麻里を愛し過ぎていた。幸せの象徴である子供を溺愛し、彼女の機嫌によって俺達の関係は決まっていた。幸福であることが当たり前となった家族は娘を失えば、一気に崩壊してしまうのだ。


「あの時、あなたは私のことを思って離れたんでしょう?」


「それは言い訳だ。俺は俺であることから逃げたくてお前から離れただけだ」


「嘘、そんなことない。栞からもちゃんと聞いているんだから」


 両親を失った栞は一度、保護センターに預けられたが、武彦が引き取ることになった。彼の手助けをするために梅雪は通っていたのだが、それがさらに俺達の溝を深めた。


「ねえ、斗磨君。今更だけど、どうして私達は生き残ったんだろうね……」



「理由なんてきっとないさ」



 端的に思うことを答える。


「生きている、それだけで意味なんてないと思う。今の俺は死ぬために課題を克服しているに過ぎない」


「本当に真面目なんだから、冗談にしか聞こえないわ」


 梅雪は苦笑いしながらも、明るい表情を保つ。


「私はね、生きている、今はそれだけでもいいの。死んでしまった人のためにも生きるなんていう理由は簡単すぎるけど、私はそれで十分。後は斗磨君がお花を持ってきてくれるだけで十分幸せよ」


「ああ、今度はちゃんと持ってくるからな」


「うん。次はチューリップがいいな、もう今年の春は見られないだろうから……」


 彼女の部屋から出ると、吐息が白く零れ出た。幸せになるために人は生きる、だがその幸せを維持することは難しく、必ず崩れていく。



 ……初めから望まなければよかったのに。



 梅雪に出会わなければ、栞の悲しみも武彦の苦しみも知ることはなかった。最初から一人で生きていれば、こんな負の感情も生まれずに寂しさだけが募っていただろうに。


 

 ……幸せを望んでも後悔しか生まれない、この世に救いなんてない。



 硝子越しの庭園を覗きみると、積み重なった雪が解け、土と混ざり色を濁していった。その姿をただ眺めていると、栞ちゃんが俺の服の袖を引っ張っていた。


「おじさん、何帰ろうとしているの? まだ私のお見舞いが終わってないじゃない」




 

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