第四章 焼逐梅  PART10

 


  10.



 武彦が退院してから、一週間後。


 栞ちゃんから再び連絡を受けて病室に向かうと、武彦がドアの前で待っていた。


「この間はすまなかったね。見舞いに来てくれたのに、大したお世話もできずに」


「病人が何をいってる。それより梅雪の意識はあるのか?」


 尋ねると、武彦は渋い顔になった。


「今はない。そして次の意識があるかどうかは……もうわからない。だから……後は斗磨に任せる」


「そうか……恩に着る」


 大量のチューブに繋がった梅雪を眺めていると、武彦はゆっくりと病室から離れていった。


 心電図の音が微かに漏れ、冷蔵庫の振動音が辺りをこだまする。冷えたペットボトルを手に取ると、そこには梅雪の文字でメモ紙が濡れたまま張られていた。



 ――私が眠っていても、どうぞ飲んで下さいね。



 静かに礼をしながらペットボトルの封を切り口に含む。サウナのように熱い部屋にいても、体は熱を帯びずに冷えていく。



 ……梅雪、もう一度だけ目を覚ましてくれよ。



 暑さで萎れていくチューリップの花束を掴みながら願う。覚悟をしていても、目の前の彼女が死にゆく姿に戸惑いを覚えてしまう。


 まだやり残したことがあるのではないか、その後悔だけが頭の中を回転していく。


 

 ……さよならだとわかっているけれど、最期に伝える言葉が見当たらない。



 看取ることだけを考えて生きてきたが、今の彼女に何を残すことができるだろうか。付き添うことを決めていても、言葉までは一向に見つかっていない。


 

 ……それでも俺はお前に、何か、お別れの言葉を伝えたい。


 

 彼女に思いを伝えたい。きっと謝罪の言葉しか見当たらないが、それでも精一杯、お前に伝えたい。

 


「……斗磨君? そこにいるの」



「ああ、梅雪。俺はここにいるよ」



「……よかった、本当にあなただったのね」



 彼女は目を閉じたまま、口を開けた。どうやら完全に覚醒したわけではないらしい。


「どうして……俺だと思ったんだ?」


「なんとなくよ。あなただったらいいな、って思っただけ」


「そうか……」


「……ねえ、少しだけ昔話をしてもいい?」



「ああ」



「私のことを、恨んでる?」



 真剣な瞳にたじろぐ。


「恨んでないよ。恨んでいるのはいつも俺だけだ」


「またそうやって自分を追い込まないで。私はね……これでよかったと思ってる。だって、ずっと一緒にいたらあなたにきっと飽きられていたと思うから……」


「どうしてそう思う?」


「私、結構わがままなのよ? 毎日会っていたら、きっと八つ当たりだってたくさんしたし、麻里のことだってあなたのせいにしていた。私は弱いから、あなたのせいにするしかできないのよ」



「それでも俺はよかったさ……」



 ゆっくりと彼女に聞こえるように告げる。


「お前に毎日会えるのなら、文句をいわれようと、叩かれようと、それでよかった。俺が好きなのはお前だけなんだから……お前との子が麻里でよかったと今でも俺は思ってるよ」


「…………」


「だから、俺は自分から怒られにここに来ているんだ。だからお前は好きなことを存分にいっていい」



「……そう。やっぱりあなたは本当に優しいのね」



 梅雪は小さく呟いてため息をついた。その横には小さな文字で俳句が綴られていた。


「これで本当に心残りがなくなっちゃったじゃない。……ねえ、今は雪は降ってる?」


「ああ、少しだけ」


 雲一つない空を眺めながら頷く。


「お前と出会った時のように、粉雪が降ってるよ」


「そう、よかった……」


 彼女は涙を流しながら唇を噛み締める。



「ねえ、最期のお願いをしてもいい?」



「最後とかいうなよ、何だ?」



「私のことを、やっぱり……」



 梅雪は真面目な顔をして端的に答える。



「あなたと離れたこと、今でも後悔してるの。もちろん栞のこともあったし、一緒にいれる状態にはなかったけど……それでもきちんとあなたの元に戻ればよかった」


「こうして会いに来ることを許してくれるだけで俺は救われているよ。だからそんなことをいうな」


「恨まれないのも辛いのよ? 斗磨君。これで私の命は最期だと思うけど、最後にしないで。また繋がれるように、私の手を握ってて」


 彼女の手を握りながら、体温を感じ取っていく。穏やかで冷たく、それでもほんのりと熱を宿している。



「あの時に死ぬのはあたしだったんだからね。あなたを呼び寄せてしまった私が悪いの。だから……あなたの目の前で死ねることが、私の唯一の幸せ」



 ……お前もか。



 梅雪の言葉を聞いて胸が熱くなる。自分だけの苦悩ではなく彼女の心まで苦しめてしまっていたのだ。それ以上に麻里をこの世へ運んでくれた人達の心まで全て、歪めてしまっていたのだ。



「いいや違う、あの時に死ぬべきなのは俺だった。だから俺達は『焼逐梅』となって、一緒の灰の中で眠るんだろう?」



 ……燃え尽きても、体を灰に変えても、彼女の心は香りとなり、麻里へ添い遂げていく。



 心の中で読経のように繰り返す。彼女は体を失うだけ。魂も記憶も、全て、この世界には残っている。



 それは梅の花のように、形を変えて、昇華されていくだけ――。



「うん。そうだったわね。ありがとう。斗磨君、私の体を……どうかお願いね」


「ああ、必ず俺が昇華してみせる。だから安心してくれ」


「……うん。やっぱり最期にもう一つ、本当のお願いをしてもいい?」


「ああ……」


 チューブに繋がれた手が唇へ向かう。別れの口づけを交わすと、彼女はそのままゆっくりと目を閉じた。



「ありがとう。あなた、やっぱり愛してる……」



 梅雪の雫をそっと指で掬うと、彼女の体温を残しつつもゆっくりと肌の中に溶けていった。


 心電図の音がなくなり、チューリップの首が垂れ下がると、手の感覚が蘇っていく。



 ……ようやく念願が叶ったというのに、何一つ満たされないのは何故だろう?



 体が老いたせいだけじゃない。止まっていた時間が長すぎたせいで、自分の目標を忘れかけていたようだ。


 念じていても、現実は変わらない。変えられるのはこれからだ。



 さあ、ようやく待ちに待った人生の終止符を打とうではないか。



 ……麻里、待っててくれよ。



 止まっていた歯車がようやく動き出す。



 20年前のあの時の再現を、今から始めよう――。


 

 

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