Happily ever after?
「あ、それはAの机に置いてくれ」
「了解っす、あ、社長、これどうします?」
「手芸コーナーがあっただろう、そこにまとめておけ」
「了解っす」
広い市民会館の一階で、作業着を着た人々が市民から寄せられた寄贈品を仕分けしている。その様子を時折眺めつつ、男は手元のバインダーに挟んだメモに、必要事項を記入していく。隣では上司が男にあれこれと指南していた。男は、会場の床に敷き詰められた青いビニールシートの上で同じように上司と思わしき中年の男に指示されている同期の姿を認めて、うっそりと微笑んだ。
「……こんなに商品が集まるものなんですね」
「そうだな、チャリティー――慈善活動には自ら進んで手を出すのが日本人の美徳さな。まあ、その実は要らないものの処分なんだが。ゴミ捨てが慈善につながるとあっちゃ、そりゃ人の心理としてどんながらくたでもいいから持ち込みたいと思うのさ。そうしてこの山ができる。でも実際にチャリティーで捌けるのはごく一部だ。その殆どが、それでも誰も欲しがらないゴミとして廃棄される。俺たちの仕事は、そのごみのお片付けってわけだが、まあ給料ももらっているし、これも一つの慈善活動だよなあ? ご家庭のゴミを処理しますよってな」
「……加藤先輩、その言い方は」
「いや、事実そう思わないとやってられないんだよ。お前も今回プロジェクトに関わって分かっただろう? 企画、準備、施行、あれだけの手間暇をかけ、こうして人件費を使い集まった品物を陳列する作業、その後後始末もある。この後始末が大変だ。慈善事業っていうのは、【慈善】と銘打っているから書類報告も他とは勝手が違ってな。世の中の一般市民はこれが全部慈善につながると本気で考えているようだが、実際にはガラクタで人助けをするってのがおかしな話だろう? ゴミを与えて人を慈しむってか? マリー・アントワネットだってそんなことは言わなかったのに処刑されたんだぜ。実際の収益なんて微々たるもんだ。慈善事業は人件費、会場設立費用、すべてスポンサー――まあ俺らのことだが、それが負担する。正直赤字さなあ。でもその慈善事業を行うことで箔がつく。イメージアップってわけだ。それがゆくゆくは会社の利益につながると。どうだ? 慈善って言えるか? 資本主義なんてそんなもんだよ。裏の事情を知ってしまっちゃあ、純粋な目ではもう見れねえな。俺はこれをやる度そうなんだが、こうして集まった品物を見たってこのゴミはどれくらい減るかねえ、ってなもんだ。だがやりたがるやつもいないからいつも俺がやらされる」
「……で、ゆくゆくは僕ってことですか」
「いや、お前はどうかねえ。これだって社会見学のようなもんだろう? お前の部署はもともと違うんだしな」
「……はあ」
男は上司に聞こえないように、小さく息をついた。男は思春期より、自分の身の回りの事柄に対して冷めた目を持つようになった。けれどそのことが自分にとってマイナスであることをよく自覚していた。何事もひねた目で見てしまう。そのひねた目で見る歪んだ世界、世間を言い訳にして、自分が努力をできないことを正当化してしまうのだ。男は行きたかった大学には行けず、行きたかった会社にも入れなかった。この慈善事業を行う管轄の部署に入ってみたのは、ひょんな思いつきだった。そう言えば、子供の頃は、ボランティア活動をするのが好きだったと。幼いころのまだ輝いていたころの自分を思い出した。道のゴミを拾ったり、草をむしったり、友達とそういうことをするのが全然苦ではなかった。周りをひねて見るようになった中学生でも、学校行事としてのボランティア活動は真面目にやったし、嫌いではなかった。それがいつの間にか、赤い羽根募金も見るだけで通り過ぎるようになった。該当の署名活動の声をうるさいと感じるようになった。そんな自分を、好きだとは思えなかった。男は、今一度初心に戻りたかったから、さぞ素晴らしい現場なのだろうと今日の視察にも晴れやかな心地で出勤したのである。しかし、この時々口汚い上司は、頼んでもいない自己の色眼鏡から見た卑屈な私見をべらべらと語って聞かせ、男を憂鬱な気分にさせていく。
というか、男はこの上司があまり好きではなかった。世話焼きでおしゃべり好きな、悪い人間ではないことはわかっている。仕事はきちんとするし、捌ける。だが男の口からは、たくさんの糸が出ていた。その糸は――男の知っている限り、自分しか見えていないものだが、男はそれを運命の赤い糸のようなものだと解釈している。
この上司は、何人もの妾を持っている。妻子がいながら、他の女との間にも子供を何人も作っている。上司の口から延びる七本の糸の先を休日に追ってみたのはただの暇つぶしだった。自分の行動が悪趣味だということはわかっていたが、糸を何本も吐き出している人間なんて、男にとっては嫌悪の対象でしかなかった。糸の続く先々を確認して、男は夕暮れの街、一人嘲て笑った。
中学生の頃から、この糸が見えている。その糸が続く先が、将来の伴侶だということも知っているし、その糸は時に切れ、別の糸と簡単につながってしまうのだということも知っている。男が高校生の時、父の口から一本糸が増えていることに気付いた。やがて、父の口からは、母の糸が消えた。そうしてしばらくして、両親は離婚した。二人とも自分や姉には話さなかったが、原因は父親の心変わりだと男だけは知っていた。その後姉とは別れたが、父親に引き取られたことは男にとって嫌悪でしかなかった。姉の糸が、自分の級友と繋がっているのは見えていたから、母親に連れていかれる姉に、そいつの名前を出した。もう姉には会っていないが、いつか幸せな結婚をしてくれたらいいとそれだけを願っている。大学に入ってすぐに家を出た。今は父親と連絡も取っていない。父親は、再婚相手とその連れ子と共に幸せそうに暮らしている。男には、帰る場所がない。血がつながっているのに。
どうしてこうなったんだろう?――男は考える。糸が見えるようになってから、何かの歯車が狂いだした。男が見る世界はいつも色とりどりの糸だらけで、蜘蛛の巣のように絡み合っていた。それが次第に気持ち悪くなった。男は自分が、かつて自分から糸を捨てたことを正しい選択だったと思っている。誰もがこの【運命の糸】で編まれた蜘蛛の巣に捕らわれる、愛の獲物なのだ。もはや糸を吐いていない自分だけが、その巣とは関係ない所にいられる。
男だって、それでも純粋な時期はあった。一度は初恋の人の運命に絶望したが、糸の先はいつでも変わると気づいてからは、再び彼女の口元を観察し続けた。諦めようとしても、一度好きになった女の子を嫌いになることはなかなかできなかった。彼女が気立てのいい子であることは変わりがなかったし、やっぱり顔や声が好きだったし、笑顔を見ていたら胸の奥が温かくなったし。
けれど、その子の糸は色が変わることもなかった。そして男は、高校を卒業して、彼女が私立に行くことを決めたと知った瞬間、負けを認めた。彼女はきっと、高校で自分の運命を見つけるのだ。卒業式での彼女の横顔は、百合の花を思わせ綺麗だった。彼女の口から垂れ下がる糸も、プラチナのようで、いつか彼女が幸せな結婚をすると示唆しているようで、男は純粋に彼女の未来が明るいものであることを願うことができた。そしてそこでようやく、自分が糸をなくしたことの重大さに気付いた。もし諦めていなければ、あの時糸を捨てなければ、ずっと彼女に好きを伝え続ければ、それでもあの糸は自分のそれと同じ赤い夕焼け色に染まっただろうか? もう、確認するすべがない。
相変わらず、上司はべらべらと喋り続け、今度は作業員にも話しかけ始めた。うんざりして、男は少し辺りを見てきますと声だけをかけ、ぶらぶらと会場を歩き回った。埃っぽい空気が急に美味しく感じられる。ああ、こんなんで僕、ここでやっていけるのかな。根気がなくて、続かなくて、ストレスだけためて、やめてニートになってしまったらどうしよう? 諦念癖がついている自分に、たったこれだけのことで腐っている自分に、未来が保障されている気がしない。男はつい最近読んだニートが家を建てる本を思い出しながら深い溜め息をついた。
だが確かに、上司の言うことももっともではあった。集まった品物は、こんなもの誰が欲しがるんだと首をかしげたくなるものが多かった。そう言えば、昔母親もバザーに色々出していたなあと思う。小遣い稼ぎにもならない品ぞろえ。その数百円が、どこかに寄付される。赤い羽根募金よりは安くつくのかもしれないが、なんだかなあと思ってしまう。
呆れたように辺りを見ているうち、ふと、手芸品を置いたテーブルが目についた。男は目をわずかに見開いて、少し心が和らぐのを感じた。誰かの手作りの品物が並んでいる。明らかに子供たちの作ったようなできの悪いものも混じっていて、そんなもの誰が使うんだというくらい下手くそな出来だけれど、それを人のためになると信じて作った幼い心は、なんだか大切にできる気がした。家庭で要らないものとして集まったものよりは、この手芸品のほうがずっと価値がある――ただし、それを買いたいと思うのはまた別の話なのだが。
「……………」
男の足が止まる。息も止まった。男は、一つの手芸品から目を離せなくなった。それはクマのぬいぐるみだった。ぼろぼろのぬいぐるみだ。赤い糸で縫い目を繕い、恐らくは元はなかったのであろう布を縫い付けて、服にしている。だから元は既製品のはずなのに、手芸品としてこの場所に仕分けされたのだろうか。でも男にとってはそんな些末な間違い、どうでもよかった。男にとって大事だったのは、そのぬいぐるみに使われていた赤い糸の方だった。
夕焼け色の、グラデーション。光を浴びて、キラキラ光る。本物の糸よりもずっと細くて、切れそうで、儚いその糸は。
その色を、忘れるはずがない。それは確かに、男がかつて持っていた自分の運命だった。男が若気の至りで、ただの癇癪で自分から抜き取り、手放した糸だった。男は震える手でそのぬいぐるみを手に取る。なんでこの糸が、これに。なんでこれを。そんな言葉ばかりが頭の中に浮かぶ。手が震えていた。足も震えていた。心臓が、ずいぶんと前に老いて拍動もなおざりになっていた赤い心臓が、再び息を吹き返したように熱く鼓動していた。いた、いたのだ。いた。どこかに、確かに、この町に、多分、きっと。
僕が好きになるような人が、もしかしたら僕を好きになってくれるかもしれない人が、ちゃんといた。いたのだ。僕にもちゃんと。
そして、彼女もまた、きっとこの糸が見えたのだ。彼女はこの糸の先に、何も続いていないと知ってしまったのだ。ああ、自分が軽率なことをしたから。傷つけただろうか。僕よりもずっと絶望した? 苦しかった? 世界はどんな風に見えていた? ごめん、ごめんなさい。謝りたい。会いたい。こんな風に、この糸で布を縫うのは一体どんな気持ちだったんだろう? 糸を切る時、痛くなかった? ああ、どうしよう。僕は、僕は今すぐあなたに会ってみたい。もう遅いかもしれない。きっと遅すぎたんだろう。でも会いたい。追いかけたい。見失いたくない。
「あ、あの、このテディベア……」
「はい?」
若い作業員が、急に話しかけられて、顎を引いた。でも男は、興奮を抑えられなかった。
「これ、誰が持って来たか、わかりますか」
「あ、え? いや、ボクは知らないっす……あ、でもそれ、札がついてるでしょ。そこに寄贈者の名前書いてますよ。後でそれも切って捨てるんすけどね」
普通のチャリティだと、ないみたいっすけど。ここのはそういう札つけるんすよね。市民の善行の把握?とかなんとかで。作業員は腕を掻きながら気だるげにそう言って、箱を開ける作業に戻った。今男は初めて、この会社に入社できたことに感謝した。札を見ると、名前が書いてある。
『【今泉瞳未】』
男は、その名前を指先で撫でて、電話をかけた。同じ名前の人はきっとたくさんいるし、個人情報が保護されている昨今。名前と住所の市名だけで見つけるのは容易な事じゃない。そんなことはわかっている。でも男は今回、初めて九州に来たのだった。このチャリティーが終われば、上司と共に本社に帰らなければいけない。関東、千葉に帰る前に、せめて一目会いたい。会いたい会いたい会いたい。会って、謝って、それから。
男は、祈るような気持ちで、スマホを握りしめた。やがて部署の女性の声が聞こえてくる。男はあくまで仕事の電話として、用件を伝えた。とある品物を寄贈した人に連絡を入れてほしい。その品物のことで、気になる点があって、名前は――
春の糸 星町憩 @orgelblue
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