A girl's side

0


 手に取ったものは、群青色の卵。



1


「ねえねえ、内田さん、もうアレが来たって」

「えー! うそぉ」

「胸でてるもん。きっと頭の中やらしいんだよ」

「ねえ、もしかして、もう彼氏とちゅーしたのかな」

「したんじゃない?」

「えー、やだぁ」

 クラスメイト達がこしょこしょとした息遣いで笑っている。

 わたしは、椅子の後ろから聞こえてくるそれに耳を傾けながら、もぞりとふとともを動かした。

 こういう雰囲気は、苦手だ。会話に入りたいわけでもないけれど、聞こえてきてしまうから、まるで自分も内田さんの悪口を言っているような心地がする。

 がらり、と教室のドアがまた開いた。

「おはよー」

「おはよー」

 その声に、後ろの席の女子達がびくりとして会話を止めた。

 クラスで一番背の高い内田さん。

 体格も……けっこうがっちりしてて、小学四年生なのに、胸もある。

「おー、内田氏今日もでぶいな! ははは、この肉何でできてんの?」

 悪気はないのかもしれないけれど、悪意のこもった男子の言葉が、内田さんのおなかに当たって、床に落ちた。内田さんは……でぶ、じゃ、無いと思う。少しだけ、ちょっとだけ体つきが大人になってきた、だけ。教科書にものってたよ。女の子はだんだんからだが丸くなって……女らしくなっていく、って……。

 内田さんは、へら、と笑って、席についた。

「昨日さ~、彼氏とプリクラ撮ってきたらさ~すごい変な顔してたの。もうさいあくぅ」

「え~? うそうそ、見せてよ、見た~い」

 後ろの席の女子達は、急に話題を変えて、きゃっきゃっと声を上げて笑っていた。

 わたしは、椅子の上で大きな体を縮めるように、きゅっと肩をすぼめた。

 ……本当にませてるのは、どっちなんだろう。



2


 小学四年生になって、突然その授業は始まった。

 男の子の体はどうなってるとか、女の子の体はどうなっていくのか、とか。

 わ、わたし、男の子のあそこが、キスシーンを見たら、その、あがるとか、知らなかった。そんなこと、知りたくなかった……。

 時々、「彼氏がさ~」と話している同級生の女の子たち。彼氏側の男の子は滅多に「おれの彼女がさ~」なんて言わない。わたしは、教室の中で漏れ聞こえる女の子たちの会話にびんかんになってしまった。一体、だれとつきあってるんだろう……つきあうって、どういうこと?

 彼氏彼女、だなんて、よくわからないことしてるのに、生理が来ると、ひそひそと陰でうわさ話されるの。なんだかとても変だと思う。

 わたしは怖かった。

 内田さんの次にクラスで背が高いのが、わたしだ。小さい頃から背が高かった。内田さんと比べたら、わたしはがりがりだけど……実を言うと、ちょっと前からスポーツブラをはめてるんだ。それに、毛……け、毛が、はえて、きてて。

 体育の時の着替えの時に、ブラジャーを見られたのもすごくつらかった。その後しばらくは、わたしうわさ話の的になったんだ。毛まで生えてるって知られたら、一体なんて言われるだろう。周りの女の子たちは、彼氏とか彼女とか言ってませてるのに、わたしと違って胸もない。こんなのって、不公平だ。この間も近所のおばさんから、「りんこちゃんったら大人っぽくなったわねえ、ませてるのかしら」って言われたのが、すごくショックだった。わたし、体が大きいだけだもん。どうして気にしてるのに、そんなひどいこと言うんだろう。


 ぽかん。

「いたっ」


 頭を押さえると、後ろの方からくすくす笑いがきこえた。振り返ると、教室の隅で男子たちがにやにや笑ってわたしを見ていた。

「だ、」

 私は床に転がった消しゴムを握りしめて、震えながら立ち上がった。

「だれが投げたの! これ!」

「わー! 大女が怒ったー!」

「あっ、また真っ赤になってる! 真っ赤になってる! やーいドラゴン、がおーって言って火でもはいてみろー」

 わたしはぷるぷると震えながら口をへの字に引き結んだ。男子たちのグループの中に、大出くんが見える。大出くんは、小柄で、顔も可愛くてなんだか……ジャニーズみたいで……わたしすこしだけ、その、すきで、ああ、恥ずかしい。どうして大出くんの前でそんなこと言うの? がおーって言えば満足なの? なんでそっちのグループに大出くん、いるの?

 男子たちのひやかしはとまらない。色んな気持ちがごちゃごちゃになって、わたしは涙ぐみながら両腕を上げた。

「が、がおー」

「ぷはっ」

 大出くんに、笑われてしまった。

 男子たちの冷やかしは熱を帯びて、わたしはもっともっとと恐竜の真似をせがまれた。小柄な男の子たちにわたしは、先生が教室に入ってくるまで泣きたい気持ちでがおーがおーと呟いていた。

 また、失敗してしまった。



3


 わたしは昼間の悲しい気持ちをぬぐえないまま、ベッドの中で布団にくるまって、漫画を読んでいた。

 なかよし、を読んでいるんだけど。

 なんか……なんか……いいなあ。

 かっこいい男の子と両想いになるっていいなあ……。

 私はどきどきしながら、至近距離でページをめくる。

 こ、こんなの読んでるから、ませてるってわたし、言われちゃうのかな。でもみんな、もっとすごいの読んでたし……。

 このかっこいい子が大出くんで、主人公がわたしだったらいいのに。

 でも、わたしでかい子だし、かわいくもないし、やっぱりだめだよね……。

「髪、伸ばそうかなあ……」

 私は散切りショートカットの髪を抓んで、呟いた。

「何? 洒落っ気が出てきたの?」

 お母さんの声が降ってきて、慌てて飛び起きる。

「お、お、おかあさん! 入る時は言ってよ!」

「なぁにが~? 何、かあさんにみられたくないものでもあるの」

「そ、そそそそういうわけじゃないけど!」

「ま~たませてる漫画とか読んでるんでしょ。お小遣いあげるとすぐこれだからだめねえ……」

 お母さんは、なかよしの表紙を見つめながらため息をついた。

「こ、これ読んでおかないと、みんなの話についていけないの! みんな読んでるの!」

「はいはい。でも、ほどほどにしなさいね。ご飯できたよ」

 わたしはおかあさんの背中を睨みながら、きゅっと口を引き結んで、布団の中になかよしを隠した。

 立ち上がろうとしたら、お腹がなんだか痛くなった。

 今まで感じたことのない痛みだ。ずきずきじゃないんだけど、なんだかじゅくじゅくする。

「おなか、いたい……」

 なんで? と思いながら、わたしは一回に降りて、ご飯を食べた。おなかを壊したのかな? と思ったけれど、トイレに行っても寝るまでずっとおなかは痛かった。



4


 席替え。

 楽しみにしていた。いつも少しだけがっかりしちゃうんだけど、席替えの日はいつも、大出くんと隣の席だといいなあなんて思って、わくわくする。

 だって、隣の席だったらもっとおしゃべりできるし。

 どきどきと高鳴る胸を押さえながら、わたしはくじを引いた。11番。わたしはちらっと大出くんを見つめた。大出くんは手元のくじと、席順の書かれた黒板を交互に見ている。

 11番。後ろの席だ。よかったあ。前の席になるとみんなからブーイングされる。黒板が見えないって。だから結局、くじなんていつも当てにならないのだ。結局は後ろの方に移動させられちゃうし――って、あっ。

 わたしは泣きたい気持ちになった。

 わたしが後ろの席になるってことは、背の低い大出くんはきっと後ろの席じゃ黒板が見えない。クラスで一番背が低いから……だったらもし近くの席になっても、きっと前の方に行っちゃう。じゃあ、わたし、もしかして、ずっと大出くんの近くには座れない……?

 泣きたくなった。好きで背が高いわけじゃないのに。

 とても気が重たくなりながら、机を移動した。窓側から二列目の、後ろから二番目の席。

「え~、今泉さんが前なのぉ~。見えないよー」

 すごくむすっとしたような高い声が聞こえて、振り返った。高畑さんは背の順で言うと、前から三番目くらいだから、わたしが前にいるとつらいだろう。わたしはへら、と笑った。

「か、変わる?」

「うーん、待って。もっと前の方がいいんだよね」

 高畑さんは目を凝らして、真ん中の列の前から三番目にいた女の子に話しかけた。背もそんなに低い方じゃない子だ。二人で話し合って、その子が席を替わることになったらしい。

「だ、だいじょうぶ? わたしと変わらなくていい?」

 わたしは、後ろに来た川島さんに恐る恐る尋ねた。

「んー、いいよ、これくらいなら大丈夫!」

 川島さんは、あっけらかんとして言った。

「あ、ありがとう……」

 なんだかすごく嬉しい。

「ちーっす」

 がたん、と音がして。

「あっ」

 川島さんが、小さな声を上げた。

 川島さんの隣。窓側の席に。

 大出くんが来た。わたしは声すら出なかった。

「あ、あれ~。大出くんここ? でも大丈夫? 見えないんじゃない?」

 川島さんが引きつった笑いで言う。……知ってるよ。川島さんも……というか、クラスの女子は大概みんな、顔の可愛い大出くんが好きだ。

「んー」

 大出くんは椅子に座って、眼鏡を取り出した。

「いや、眼鏡で十分見えるし」

「いや、そういうことじゃなくてねえ、ほら、ねえ、今泉さんもここいるし」

 言わないで。


 わたしはうつむいた。


 大出くんの席は、教室で一番左端の、角っ子の席だ。黒板を見るためには右斜めを見るわけで。そしたらわたしの体が視界を邪魔するわけで。

 近くの席になれた喜びよりも、恥ずかしい気持ちの方が勝った。

「ご、ごめんなさい……」

「んー。いいよ。俺いつも前の席で先生に見張られてるのめんどいし。黒板見えなかったらノート見せてよ」

「うんうん、見せるよ!」

 川島さんが元気よく答えた。大出くんと川島さんは早速意気投合して、おしゃべりを始めている。

 わたしは、何から考えていいのかわからないまま、できるだけ大出くんの邪魔にならないようにと背中を丸めて座った。



5


 給食の班も大出くんと同じ班なのは嬉しい。

 でも、大出くんは川島さんとしゃべりっぱなしだ。川島さんは嬉しいんだろうなと思う。わたしが川島さんだったら、きっと今のうちにたくさんお話していたい。

 わたしはと言えば、結局ずっと何も言えないまま、背中を丸めるだけの日々を過ごしていた。お腹の痛みは取れない。痛いなあ痛いなあと思いながら、仕事で忙しいお母さんにも言えなかった。お母さんは離婚して、一人で私を育てているから、大変なのだ。あまり負担を掛けたくない。

 図工の時間。給食のときと同じ班で、秋の音楽会――全校集会で、学年ごとに歌を二曲披露する行事だ――用に壁に飾る飾りを作っていた。折り紙とか、リボンとかで。

 小さな本とにらめっこして、みんなでああでもない、こうでもないと言いながら花とか動物を作る。もうむずかしいよ~、と川島さんが机にうつ伏したとき、大出くんがぽつりと呟いた。

「おれ、サイなら作れるんだけどな」

「サイ?」

「えっ、サイ?」

 班の皆で顔を見合わせる。

「サイって、何?」

 一瞬、班の全員が「サイ」が何なのかわからなかった。よく考えれば動物のサイだったんだけど、あんまり馴染みがなかったせいで、ぴんとこなかったのだ。大出くんはみるみるうちに頬を染めて、むすっとしながら呟いた。

「……動物のサイだよ。角がついてる」

「ああ~なるほど」

 同じ班の小池君が呟いた。

「折り紙の本には載ってないね、すごいね」

 わたしは、先生から与えられた本のページをぺらぺらとめくりながら言った。

 大出くんが、急に顔をばっと上げたので、少しびっくりしてしまった。大出くんは、わたしをじっと見ていた。いたたまれなくなって、わたしは視線を逸らした。

「そうだよ~、すごいね! ねえ~、作ってみてよ」

 川島さんが可愛い声でねだる。

「う、うん……」

 大出くんは少しだけ歯切れの悪い返事をしながら、オレンジ色の折り紙でおそらくはサイをもくもくと折りはじめた。


 出来上がったサイはすごくかっこいいというか、上手で、私たちはびっくりした。みんなでサイの作り方を教えてもらったりして、うちの班ではサイばっかりが出来上がってしまい、先生に大笑いされた。

 でもなんだか楽しかったな、と思いながら、机を元の場所に戻していたら、後ろから肩を控えめに叩かれた。

「えっ」

 わたしはのけぞった。大出くんが至近距離でわたしを見あげている。

「え、え、何?」

「やる」

 大出くんは、最初に作ったオレンジ色のサイを差し出してきた。サイは、折り方を教えるためになんども開いたから、すこしだけくしゃっとしている。

「え、な、いいの?」

「うん。ぐしゃぐしゃだから飾りにはできないし。今泉さんが一番最初にすごいって言ってくれたし」

 言葉にならなかった。

 大出くんは、くるっと踵を返して、席に着いた。

 わたしは震える手でそれを引きだしに入れて、背中を丸めた。

 後ろから、視線を感じる。

 おなか、いたい。



6


「ねえ、今泉さん」

 川島さんが、そっと耳打ちしてくる。授業中だった。

「な、なに?」

 振り返ると、川島さんは唇を更にわたしの耳にぐいっと寄せた。

「あの……すごく言い辛いんだけどね、ズボンに、染みがついてて」

「えっ?」

「あのね、今泉さんのズボン、後ろから見ると赤い染みがついてる。アレが来たんじゃない? 保健室行った方がいいと思う」

 わたしは小さな悲鳴を上げた。

 先生は黒板に文字を書く手を止めて、振り返った。

「今泉さん、どうしたの?」

「あ、せんせぇ~、今泉さん具合悪いので保健室行きたいそうです~」

 皆の視線が一斉にわたしに集中した。みないで。染みが見られちゃう。やめて。見ないで。

「そう、一人で行ける?」

「い、い、行けます」

 わたしは震える手で自分の上着を腰に巻きつけ、ドアに向かって走った。

 ほんとに具合悪いのか~?という声が微かに聞こえてくる。わたしは泣きたくなった。

 大出くんに見られていたかもしれない。他の人も気づいてたかもしれない。いつから? 全然、気づかなかった。わたし、やっぱりませてるの?


 保健室に滑り込んで、泣きながら先生に訳を話して、ジャージを貸してもらって、服を洗った。ナプキンのつけかたも教わって、いくつか替えのナプキンももらって。結局私は、六限目が終わるまで泣き止まず、保健室に居座っていた。


 恥ずかしい。恥ずかしい。


 わたしが大出くんのことばかり考えてたから、生理が早く来ちゃったんですか。

 まだみんな、来てないのに。内田さんだけだったのに。わたしはまだだったのに。


 がらがら、と音がして、保健室のドアが開いた。わたしは泣きべそをかいたまま、ベッドの上で体を起こした。

「あら、どうしたの。お見舞い?」

「荷物」

 大出くんの声が聞こえる。わたしはびくりと肩をゆらした。

「ああ、そこに寝てるよ、今泉さん。顔見ていく?」

 声が出なかった。カーテンが開けられて、大出くんの大きな目が私をじっと見た。初めて視線の高さがあった。わたしはぶるぶると震えた。

「大丈夫……って、泣いてたん。泣くほど具合悪いん」

 大出くんは眉を八の字にして、ベッドの傍にわたしのランドセルを置いた。

「宿題は赤いファイルに入れといたよ。お大事に」

 それからは、大出くんは私の顔を見ずに、さっさといなくなってしまった。

「あ、あう、うああ……」

 喉から嗚咽が漏れる。

「えー!? また泣くの、今泉さん。しっかりしてー?」

 先生が背中を優しく擦ってくれる。

 どうしようもない。

 なんで優しいことしてくれるんだろう。好きだよ。大好きだよ。

 でも、やだ、怖い。


 わたし、ませた子になりたくないの。

 ズキン。

「いたいっ」

「えっ、どうしたの? ごめんね、痛かった?」

 わたしの叫び声に、先生が手を止めた。

 なんだろう。急に。

 急に、心臓が、はさみで切られたみたいに痛くなった。

 わたしはびっくりして、涙に滲む視界で自分の胸を見つめようとして、

 自分の口から、夕焼けのような色の細い糸が出ていることに、気が付いた。



7


「え~、やだすごくしょっぱい! ぐあああああ、しょっぱい!!」

 わたしの隣で、新入社員の池園さんがリンゴジュースの紙パックを握りしめて立ち上がり、地団太を踏んだ。

「い、池園さん、ジュース飛び散ってる……」

「だああ、もう、それで先輩、その後はその子を徹底的に避けちゃったんでしょ! 何それ! いいですか先輩。男ってやつはですね、好意のない子に色々してやらないんですよ! それ絶対先輩に気がありましたって! なんてもったいない! もったいない!!」

「い、いや……でも、わたし別に可愛くないし、どこを好きになる要素がって感じだったし……」

「だああもう! 先輩のそういう自分を卑下するところよくないです! 先輩普通に可愛いですよ! もっとちゃんとお化粧もしてください! なんですかその気合の足りないメイクは!」

「うう……でもよくわからなくて……日焼け止めと口紅しか塗ってない……」

「それでアラサー女子ですか! 怒りますよ!」

 わたしは池園さんを宥めながら、苦笑した。

 会社に入って数年。可愛い後輩もできて、この池園さんは結構はっきりものを言う子だけれど、嫌いじゃない。

 ランチの雑談中、話題が恋愛のことになって、せがまれて話し出したのは、わたしの初恋の話だった。

 ちなみに、糸が見えたことは言っていない。小学生の時、すごく好きな男の子がいて、でも生理が来ちゃって、男の子なんか好きなせいで、生理が早く来たのかなと思ったら怖くて、初恋を勝手に諦めちゃった。そんな、たわいもない話。


 わたしはあの日から、糸が見えている。


 口の中から、キラキラ光る糸が伸びている。それは私だけじゃない。周りの人たち、誰もかれもが、糸を吐き出している。わたしのそれは、夕焼けのような色。青い糸や緑の糸や、白い糸や、ピンクの糸や……色んな糸が、色んな人の口から漏れている。そしてその糸の向こう側は、誰かの糸と繋がっているのだ。例えば、旦那さんとか。

 そう、これはきっと、運命の赤い糸のような物なんだろうと、わたしは思っている。

 糸が見える人は、わたしの知る限り誰もいない。最初は、何なんだろうと気持ち悪かった。口の中から引き抜こうとしたら、心臓が痛くて痛くて、耐えられなかった。そのうち、それがだんだん、恐らくは伴侶となる人に繋がっているものなのだとわかるようになった。一番最初に気づいたのは、担任の先生の黄色い糸が、隣のクラスの先生の糸と繋がっていた時だ。気づいてしばらくしてから、二人は結婚した。


 小学生の時に気づいたその糸は、次第にクラスメイト達も吐き出すようになった。ほとんどの子が、中学生になるまで吐き出さなかった。多分何かしら、思春期のような物に関わる糸なのだろう。わたしが大出くんをあきらめたのは、初潮のことだけじゃなかった。わたしの糸は、大出くんと繋がっていなかったのだ。大出くんの緑の糸の先が、誰に繋がっていたのか……わたしは未だに知らない。


 糸が見えるようになってからは、そしてその糸の意味を理解してからは、虚しくなった。周りでたくさんのカップルができる。けれどそれらの糸は、つながってなくて、めいめい別の方向へと延びていた――いつかは別れる人と付き合うのは、とても空しいことだとわたしは思った。だから、中高で告白された時も、いい返事ができなかった。

 こんなこともあった。お隣さんのご夫婦。奥さんの糸と、旦那さんの糸が、別々の方向に延びていた。二人は私が中学三年生になった頃、離婚した。残った旦那さんの元には、すぐに若い奥さんが来た。


 この糸の先の人を、探そうと思ったことがある。高校生の頃だ。運命の人じゃないなら、付き合ったってきっと意味はない……そうは思っても、無性にさみしくなった時があった。少しナーバスになっていたのかもしれない。受験前の大事な時期だというのに、周りの同級生たちはみるみるうちにくっついていった。正直、恋人のいない子を探す方が大変だった。

 糸を追いかけて、わたしは電車に乗った。それが初めての家出だった。本当は家出するつもりはなかった。ただ、疲れていたのも事実だ。母さんは若い男の人と再婚して、子供ができた。なんとなく居場所がなかったし、わたしの実のお父さんが引き取ったわたしの弟は、再会してもすごくそっけなかった。お父さんもまた、わたしの悩みをあまりきちんと聞いてくれなかった。あげく母さんには、勝手に二人に会ったことを責められた。わたしは家を出て遠くの大学に行きたかった。けれど結局、家から通えるように地元の大学を受けることになっていた。そういう色んなものがわたしに伸し掛かって、わたしは人寂しかったのだと思う。

 貯金を使い果たして、糸を追いかけた。電車を乗り継いで、船に乗って。関東の、どこか知らない場所に辿りついた。桜の木の根もとに、糸の先は埋まっていた。土を掘り返したら、お菓子の缶が埋まっていた。蓋を開いたらそこに、カプセルトイの青いケースが入っていた。その中に、夕焼け色の糸玉が、入っていた。わたしは笑った。

 家に連絡したら、当然のことだけれど、母さんが泣いて心配していた。わたしは理由を言えなくて、「どこかに行ってみたかった」と答えた。自殺しようとしてたんじゃないかとぶたれた。でも、それからは少しだけ、家族は優しくなったように思う……腫れ物に触るようだったともいうけれど。


 わたしの運命の人はいない。理由は分からないけれど、きっと【彼】も、私と同じで、多感な思春期に糸が見えていたのだろう。そして、私と同じように何かに絶望したのだろう。私には、あの糸を引き抜くなんて痛くて耐えられなかった。けれどきっと【彼】は、その痛みを耐え抜けるほどに、あの糸が憎らしかったのだ。そして、埋めてしまった。まるでお墓に埋めるみたいに。

「先輩……いつですか、転勤」

「んー、今月末。もうそろそろ引っ越しの準備しないとね。物が多くて、捨てるのも忍びないから困ってるんだけど」

 寂しそうにつぶやく池園さんに、わたしは笑った。

「捨てたくないなら、チャリティーとかに寄付したらどうですか? あ、私の父親がですね、そういうの結構やってるんです。ちょうど週末にも一つ開催されるはずだから、よかったらご紹介しますよ」

「ああ、本当? じゃあ、そうしようかな。誰かに使ってもらえるなら、その方がいい」

「わかりましたー。また連絡します。あーあ、先輩東京に行っちゃうのかー。いいなー。先輩少しは垢ぬけて帰ってきてくださいね」

「東京じゃなくて、千葉だよ」

「あんまり変わりませんよ!」

「そ、そうかなあ……」

「あーあ、私も九州出たーい!」

 池園さんは伸びをする。わたしは、チャリティに何を出そうかなと思いながら、青い空を眺めて、お茶を飲みこんだ。



8


 荷物をまとめる。必要なものは、現地でまた買えばいい。思い入れのある物なんてそうはないし、貯金だって必要以上にある。独りで生きていくのならある程度の貯金は必要だろうけど……おしゃれしたって見せる恋人もいない。必要最低限でいいのだ。

 やっと、この生まれ育った土地から、離れられる。

 段ボール箱の山を見つめて、わたしは綺麗になった床にぺたんと座り込んだ。鏡の向こう側で、ショートボブの黒髪を揺らす女がわたしを見つめている――疲れ切った顔。恋を知らない顔。

「カフェオレでも飲みましょか」

 わたしはひとりごちて、立ち上がった。ベッドの上に置いていた赤いくまの縫いぐるみが目に入る。わたしはマグカップを片手に、その縫いぐるみを手に取った。

「これも……もう、いらないよね、わたし、アラサーだもん」

 わたしはマグカップを置いて、くまの頭を撫でた。お父さんが小さい頃に買ってくれたものだ。わたしがもらったお父さんのプレゼントは、これだけだった。こんなものにしがみついて、今まで何がしたかったんだろう。きっとわたしは、人が恋しかったのだ。先月お父さんも再婚して、このくまは本当にいらなくなってしまった。くまに罪はないけれど、もういらないのだ。わたしの苦しみを受け止めるより、可愛い小さな子供の手に渡った方が、ずっといい。

 ぼたぼたと涙が零れ落ちて、くまに染みを作る。わたしは椅子の背にかけていたタオルで、染みをごしごしと拭いた。腕の付け根の糸が解れている。よく見ると、目や、鼻や――あちこちの糸が、解れてしまっている。

「赤い、糸――」

 わたしはきょろきょろと部屋を見回して、不意にそれを思いだした。机の引き出しを開ける。捨てきれなかった群青色の卵の殻が、ころんと転がる。それを開けて、わたしは夕焼け色の糸玉を取り出した。針に射して縫ってみると、きちんと縫い付けることができる。これが見えているのはわたしだけだし、わたしの下手な縫い目が目立つより、ずっといいだろう。

 わたしは夜通しでくまを繕って、糸をちょきんとはさみで切った。切るたびに、鋭い痛みが胸をかけぬけて、涙が出た。なんだか自虐的なことをしてるような気がしてきた。残った糸玉を抱えて、わたしは立ち尽くした。やがてわたしは、糸玉と自分の口から出ている糸の先の間にはさみを入れて、ちょきん、と切った。これで、もう、悩まされない。結局糸玉を捨てることはできず、わたしは元のケースに戻して、段ボール箱の底に沈めた。


 明日は、チャリティーだ。




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