春の糸
星町憩
A boy's side
0
全部全部吐き出して、引き抜いて、ぐちゃぐちゃの糸玉にして、僕はそれを土の下に埋めた。埋めて、なかったことにしたかった。
1
可愛い子は好きだ。当たり前だろ? だって女の子って、見た目からしてふわふわして柔らかそうだし、細いし折れそう。小学生の頃は、背が高くてちょっと威圧感のある女子もいたけど、僕も中学生になって大分身長が伸びた。
女の子にちょっかいをかけるのは楽しい。多分女の子だってそれを嫌がってなかった。ほんとに嫌ならクラスの芦塚にするみたいに嫌悪感を出すはずだけど、僕がしてもにやにや笑って「もー!」とか言いながら追いかけてくる。ほんとは僕の方が足は速いわけなんだけど、こっちは手を抜いて彼女たちに合わせていた。僕は小学生の頃身長が低くて、かわいい、かわいいと言われることが多かったし、実際モテてたと思う。だって女の子がたくさん僕に話しかけてくるから。
男の友達もいたし、女の子には嫌われないし、楽しかった。僕のコンプレックスがあったとすれば、それは背が低かったことだ。小さい順に並ぶといつも前から二番目くらいだった。でもそれ自体はよかったんだ。僕の隣に並ぶ子は目がくりくりとして細くて小さくて、かわいい子が多かったから。
僕は運動神経もよかったし、背が低いわりに足も速かった。ただ僕の通っていた小学校は、「みんな平等に」を掲げている学校だったから、足の速い子は足の速い子だけをまとめて、足の遅い子は足の遅い子でまとめて、運動会で走らせた。普通に走れば一位を取れたはずの僕は、その中では四位だったりどべだったりした。なんだか悲しかった。恥ずかしいなと思ったけれど、僕のことを多分好きな女の子が、かっこよかったよ、と言ってくれた。その子の名前は思い出せないけれど、それが嬉しくて、寂しかった。あんなのかっこよくないよという気持ちと、見ててくれたんだという気持ち。
僕はその時、いつも運動会で足が遅くてびりを走る子の気持ちがわかったような気がして、道徳の授業で習った言葉を思い出していた。「人の気持ちに立ってものを考えなさい」。足が速いか遅いかなんて、生まれ持ったものだったりして、どうしようもないものだったりして、なのにいつもびりを走らなきゃいけない子はきついだろうな、つらいんだろうなと。
僕は、だから運動が苦手な子が気になるようになってしまった。運動が苦手な子には二パターンいて、片方はそれを受け入れて、それはそれとして大人しくしている子。もう片方は、自分が運動ができないことでそれをひどく恥ずかしいと思って委縮している子だった。僕はその子たちが運動以外でできることがたくさんあるのを知っていた。だから励ました。ドンマイという言葉はまるで魔法の言葉だった。僕がドンマイ、大丈夫、後は僕ら運動のできる子に任せて、なんていうと、その子たちは涙を止めて笑ってくれるのだった。笑って、元気を出して、また頑張ってくれる。それがなんだか嬉しかった。大人になってみると、結構おこがましかったと思うけれど、僕は僕の言葉で誰かが元気になるのがうれしいと思った。
自分が運動ができないことを気にするのは、女の子が多かったから、多分その子たちは、僕が言うから元気が出たのだろう。僕は、小学校での僕の役割をちゃんと認識していた。女の子に好かれている僕は、女の子に優しい言葉をかければ、その子たちを元気づけることができる。そうしてその子たちが、笑ってくれて、さらに僕を好きになってくれる。それがなんだか嬉しいし、楽しい。小学生の時代、それは僕にとって夏休みの海のようなものだった。
中学生になると、少し状況が変化した。女の子たちは、どんどん体格がよくなって、今考えるとそれはまだまだ未成熟な体だったのだろうけれど、子供の僕らから見るとまるで大人の女の人みたいだったのだ。それが憧れでもあったし、怖くもあった。
彼女たちは、僕に興味をなくしたように思えた。僕ら男子に。女子だけで固まって、何かをきゃいきゃいと話している。校則の範囲内で、スカートを短くしたり、髪の毛をこっそり染めたり、かわいい髪ゴムを使ったり、色付きのリップクリームを塗ったり。時々血の匂いがする子もいて、スカートや体操着が赤く汚れている子もいた。それを「汚れているよ」と教えてあげるべきなのか、教えたらだめなのか、わからなくて、僕らはひたすら目をそらし続けた。
どんどん短くなっていくスカート。見える太もも。風がちょっと吹くだけで捲れそうなスカートのすそ。それを見たいような見たくないような、見ちゃいけないような気分になる。「スカート、もうちょっと長いほうがいいんじゃない?」なんて言えるわけがなかった。スカートを短くしないでほしいという気持ちと、そのまま肌色を見ていたいという気持ちが混在して、ひたすら戸惑った。
小学生の時は、女の子にちやほやされるだけで嬉しかったのが、今では話しかけられるだけで心臓がどきどきして、痛くて、なんか病気なのかなとも思う。毛が生えてきた時はビビったし、ばっちい大人になって来たのかと落胆もした。こんな黒い毛の何がいいんだろうかとも思ったけれど、同級生の男子の誰かがいわゆるエロビデオというものを兄弟からこっそり借りてきて、一緒にみんなで誰かの家で見たことがあった。ものすごく気持ち悪い映像がそこにはあった。大人が――自分の父親と母親くらいの年齢の人たちが(実際にはそれより若かったんだろうけれど)、裸で絡み合っている。変な声を出して、毛の生えた汚いところがクローズアップされる。気持ち悪い、と思いながら、僕らは目を離せなくて、どきどきして、アレが固くなるのを感じて、そのうち目が釘付けになって息も荒くなっていた。それが恥ずかしかったけれど、周りみんな息が荒かったから、気にせずに済んだ。終わったころには最初みんな無言で、ばらばらに「すごかったな」「いや、ないわ」「でも意外と」なんて適当なことを言って、ははは、と空笑いでしめた。多分あの時僕らの気持ちは一つだったと思う。「なにこれえろい」
黒い毛が、えろいもののように思えてきた。えろいがいいもののように思えてきた。ドラマのキスシーンもえろい。ちょっと股の下が熱くなる。やばかった。なんか気が付いたらずっとそのことばかり考えていて、顔は常にかっかしていた。男同士でいるのがすごく楽しいと思った。こんな話、女の子のいる前でできるはずない。恥ずかしい、隠さなきゃ。えろいこともっと知りたい。みんなで成人向けの漫画雑誌をこっそり手に入れて、回し読みしたり、またビデオを見たり。
そのうち、ビデオを見ながら股間を触るやつも出てきた。何やってるんだろうと思いながら、僕も含めてみんなが真似しだした。僕らはそのうち出すことを覚えて、自分が出したそのどろりとしたものを見つめながら、なんだかとんでもなく自分が変わってしまったような気がしていた。
女の子は、わけのわからない怪物のようなものだった。小学生の頃はあんなに男の子からちょっかいを出されるのが好きだったくせに、男からの働きかけを待ってたくせに、中学生になった途端に好きなやつに告白したり、メアドを聞いてきたり。僕らはひたすら戸惑った。告白されても、じゃあ何をすればいいのかわからない。子供と大人の過渡期にあった僕らの頭の中では、女の子と付き合う=エロいことをするという公式が成り立ってしまっていた。そうして同時に、目の前の女の子たちがあのビデオの女性のように乱れるさまが想像できなくて、困惑した。
僕はと言えば、あらかたクラスの女子でそれができるかできないかを妄想してしまって(もちろん終わった後は虚無感と罪悪感に包まれた)、かえって彼女たちに近づけなくなってしまった。それが中学一年生の時の話。
女の子に構われるのが僕のデフォだったので、僕は誰か特定の一人を特別に好きになるということがわからなかった。歴史ものスペクタル映画でもSFでも、必ずヒーローはヒロインと恋に落ちてキスをする。ただ一人を選べる意味が分からなかった。だって女の子の側に寄ったら誰にだって――まあ、もちろん、ある程度の好みの基準はあるが――そういう妄想はできるのに。
僕は、女子と関わることに憶病になった。身長が伸びて、体育もそれなりにできたけれど、以前ほどそれが楽しいとは思わなくなった。周りはもっと身長が伸びて、大人びてかっこよくなる。女子の目はそちらに行く。中途半端に背が伸びた僕は、可愛くもなくかっこよくもないからモテるわけではない。僕はすっかり自信も無くして、日に日に妄想にふけるだけの健全な男子中学生に成り下がってしまった。
2
転換は、中学二年生のクラス替えだった。
僕はそこで、稲光に打たれるような衝撃を感じた。というのも、めっっっっちゃくちゃに可愛い子がいたのだ。いや、可愛いというか、好みの子だ。僕は、今まで自分が可愛いと思ってきたクラスメイトや過去の思い出の中の子たちが、僕の好みでは全然なかったのだと今更知った。その子は華やかな子ではなかったけれど、清楚で、色が白くて、よくよく見ると可愛くて、見れば見るほどかわいくて、手の小さな子だった。真面目でスカートも長すぎではなく短すぎでもなく、髪の毛はさらさらだった。休み時間も本を読んでいる。文学少女という感じで、僕は彼女は友達がいないのだろうかととても気になった。話しかけるタイミングをうかがっては、ぶっきらぼうに何かと口実をつけて話しかけた。するとその子は嬉しそうにころころと笑うのである。僕は、初めてその子ではあのビデオのように乱れる様を想像できなかった。この子には清楚なままであってほしいと思った。周りの女子たちが、とても格下に思えた。
そしてその頃から、僕はいよいよ幻覚を見るようになった。完全に恋という麻薬に酔った危ないヤツだ。クラスの女子や男子の口から、糸が出ているのだ。いつの間にか見えるようになって、いつから見えていたのかも気づかなかった。ただ一つ言えるのは、それは僕が恋をしたとたんに見えるようになったということだった。糸はいろんな色があった。緑、青、黄色、金色、ピンク、紫、銀色――それらが教室や廊下中に張り巡らされて、まるで蜘蛛の巣のようで少し景色が気持ち悪かった。これはなんだろう、と思ったが、僕の母や父からもそれが出ているのを見た時は、そしてそれがつながっているのを見た時には、味噌汁を吹き零した。両親の糸は、藍色だった。
改めて周りを観察すると、付き合っていると噂の男女の糸の先が時々つながっていることがあった。一番多かったのは、付き合っている男女の男の方の糸が、その彼女の友達と繋がっているパターンだった。それを見ながら、僕は理解をして、あーあ、ご愁傷さま、と内心手を合わせた。結局、これが幻覚なのか本当のことなのかは別として、これは女子がよく噂している【運命の糸】とやらに近しいものらしかった。
いや、でも僕が事前に「この人は夫婦だ」とか「こいつらは付き合っている」とか知っているからそう見えているだけなんじゃないか、と思うこともあった。けれどその疑念も、ある日の担任教師の電撃結婚報告で払しょくされた。うちの担任は、ずっと三年生の学年主任と糸がつながっていた。そして、その先生と結婚し、名字が変わったとのことだった。
なるほど、この糸は将来結婚する人につながっているらしい。僕はそこまで思い至った後、自分の口元も見つめた。僕の口からは、夕焼けのようなグラデーションがかった赤色の、細い糸が出ていた。我ながらなかなか綺麗な色の糸だと思った。好奇心から、その糸の先を引っ張ってみたこともあったけれど、よくわからなかった。先は繋がっているのかいないのか。手ごたえなし。がっくし。
3
僕はそれからずっと、大好きな初恋の彼女の口元を観察した。クラスの女子が次々と糸を吐くようになる中、彼女だけはなかなか糸を吐かなかったのだ。糸を吐く条件はよくわからなかったけれど、ある日突然糸を口から零す女子たちは、なんだかえろいな、と思っていた。いつか、この清楚な彼女も、口から糸を吐くのだろうか。それを見てみたいような、見たくないような複雑な気持ちだ。
僕は、少しずつ彼女との距離をつめて行った。休み時間に、何を読んでるの、と声をかける。彼女は、本を見せてくれる。ちょっと貸して、と言えばすぐに貸してくれた。そのままページをぺらぺらめくってみて、ふーん、という。実を言うとそれだけで内容がわかるわけないのだけれど、面白いかどうかもわかるはずがないのだけれど、クールぶって「面白そう、読みたい」と言うのだ。するとそれは学校の図書室から借りた本なので、彼女が「読み終わったら教えるね」と笑ってくれる。僕はその間、別の読めそうな本を借りてくる。周りうるさいよなーとか言いながら、彼女の側で、クラスメイトの椅子なんか借りちゃって、向き合って本を読んだ。冷やかされるのは面倒だったけれど、バレバレでもいいやと思った。却ってこれくらい目立って、他の男子共を牽制できるなら上々だ。僕はその時期、とても頭がよくなったのではないだろうか。一緒に本を読むうち、読む速度も速くなったし、読書は普通に楽しかった。
この本読んだことある? まだない、どんな話? これはこうこうでね、ああ、面白そう。読んでみるといいよ。じゃあ借りてくる。借りてきた。読んだら感想聞かせてね。おう。
そんな会話が楽しかった。僕はすっかり、彼女と付き合っているような気分になっていた。だって彼女、僕以外の男と喋ってはいなかったし。とある数日、妙に彼女の顔が赤くて、僕を避けよう避けようとしていたり、僕の手がうっかり触れた時にぱっとひっこめたことがあったけれど、しばらく経ってまた元に戻った。だから僕は、彼女の態度の変化は特に気にしなかった。ただ僕は、ついに見た。彼女が、白い糸を吐いたのを。何これえろい。じゃなくて。
実に唐突だった。いつの間にか、彼女の口から出て、陽の光に煌めいていた。僕はまず、その色が僕と同じ夕焼け色ではないことに戸惑った。そして、落胆した。今こんなに好きでも、僕は将来彼女と結ばれない。この子には、別に運命の人がいるのだ。
……でも、それって何の関係がある?
不意に僕は開き直った。思っていた以上に衝撃は大きく、自分で思っているよりもずっと僕は混乱していた。体が冷えている様な、高熱を出している様な、寒くて熱い、変な気分だった。僕は昼休み終了の鐘がなった途端、我慢ができなくなり、校庭に走り、自転車でさっさと校門から出ていった。先生たちの怒鳴り声が聞こえたけれど追いつけまい。僕はサボってしまったとか授業を抜け出してしまったとか、本当は出ちゃいけない檻の外に出てしまったとか、そういうことすら頭から吹っ飛ぶくらい、たった一つの考えに支配されていた。
どうだっていいじゃないか。別にいいんじゃないかな。そいつから取れそうだったら僕があの子を取ってもいいんじゃない? 結婚はできなくてもものにはできるだろ? そうだ付き合っちゃえばいいんじゃないかな。だってあの子も僕のこと好きだろ? だって話しかけるといつも嬉しそうにしてくれるじゃないか。この間だって家で焼いてきたクッキーをこっそりくれたじゃないか。彼女は彼女は。頭の中に、彼女が生まれたままの姿になって、熱っぽい眼差しで僕を見上げ、その白くて細い腕をねだるように伸ばしてくる情景が浮かんできて、止まらなくなった。あれだけビデオで見ていたときは、野生の動物みたいだとか、エロイけど汚いなとか思っていたその行為が、彼女を思い浮かべるだけで神聖で清楚で優しい何かに思えた。僕は頭に上る熱を発散するようにひたすらペダルを漕いだ。目は必死に、彼女の口から校門の外を出て、それでもまだ伸び続ける白金色の糸を追っていた。
やがて僕は駅のホームにたどり着いた。まだ糸は続いている。追いかけて階段を昇ればとあるプラットホームに出た。線路の遠い向こうにもまだ続いている。僕は財布の中身を確認して、切符を買うことにした。最初に来た電車に飛び乗る。あれ? 自転車はどこに置いたんだっけ……夢中で覚えていないけれど、きっとその辺にあるだろう。乗ってしまったものは仕方ないと気を取り直す。窓の外に張り巡らされる白金色の糸を目で追う。トンネルを抜けてもまだ続いている。やがて外には青い海が広がった。一体何駅くらい進んだ? 糸が軌道をゆっくりと曲げていることに気付いた僕は、一旦途中の駅で降り、不足分を支払い、再び切符を買って新しい電車に乗った。
そうして、やっと、僕は糸の先がある町の奥へ続いているのを見つけた。一体どんなやつだ。あの子をお嫁さんにできるやつってどいつだよ。気になって気になって気になって、気になったからと言ってどうできるわけでもないのに、僕はひたすらその糸の先を追った。多分、目はぎらぎらとしていたんだろうなあと思う。その時の僕は、自分の顔つきに構っている余裕がなかった。
やがて、それはとある新築に近い高校に収束した。私立の高校らしかった。僕はその高校の名前を覚えるために校門をじいっと見つめた。最悪、ここに行かないように説得すればいいんじゃないだろうか。運命は変えられるって読んでた漫画では言ってた。だから僕は、帰られるなら僕たちの未来を変えて、糸の先をつないで……
校門から出てきたのは、僕よりずっと背が高くて大人びた男子生徒二人と、頭一つ高い教師と思われる男だった。教師は二人の生徒としばらく話した後、再び校門に戻っていった。そこからしばらく離れたところに駐車されていた車に、生徒たちが乗り込むのが端目で見えたが、意識していなかった。それよりもずっと、目の前の、今まさに自分の視界から消えようとしている男の口元しか見ていられなくて。
男は、多分四十代くらいのおじさんだった。夕方になったせいか、朝には剃ったのだろうひげも、その顎にはぽちぽち生えてきている。色は黒くて、肌が荒れている。スーツの前のボタンは留めていないし、シャツは少し皺ができている。顔は――そんなによくもない。走って速そうにも見えない。
「なん、……」
なんで、と最後までは声にならなかった。一体どれだけ年が離れてると思ってる? もうすぐ五十代になりそうな、下手すりゃ爺さんになる年の男だぜ。なのにこいつと結婚するの? あの子が? うそだろ、どこで知り合うの、ねえ、なんで――
後頭部を、がつんと木槌で打たれたような衝撃が走った。僕は自分で受けたショックにノックアウトされて、意識を手放した。
4
その後、どうやって帰ったのかよくわからない。自分で帰ったような気もするし、親が迎えに来たような気もする。僕はなぜか、一回病院で診てもらうことになったけれど、幻覚が見えているということ以外悪いことはなかったし、あのサボりだってただの思春期の衝動だった。父さんの好きな尾崎豊だって、校舎の窓ガラス壊して回ったんじゃないの。それよりずっとましだろ。僕は糸のことは言わなかった。仕方がないから、僕は思春期をこじらせた、可哀想な男子生徒のふりをした。急にどこかへ行きたくなったとか。とかくこの世界は、理由付けが必要らしい。僕が彼女を好きになったことに理由なんかないし、糸が見えるようになったことの理由だって興味もない。彼女があんな年の離れたおっさんといつか結婚するという、そんな理由だって知りたくもない。
僕はしばらく、飲む必要のない薬を飲まされ、病院の先生と無駄な話をし、半年くらいしてやっと解放された。
それから僕は、読書をやめた。彼女と関わるのもやめた。彼女は僕を気遣って、何回も話しかけてくれたけれど、もうあのおじさんから奪いたいという気力もなくなっていた。必要のない病院通いは僕を心底疲弊させたのだ。
そうしてしばらくして、冬。
僕のクラスメイトが彼女に告白をして、
彼女は、そいつと付き合った。
僕のこと好きだったんじゃねえのかよ。僕はそこで、僕の心に張り詰めていた別の糸がぷつんと切れたのを感じた。その日僕は家に帰って、机の上に勉強道具の何も開かないまま、自分の口元から出る赤い糸を眺めた。そうして、ほとんど衝動のままに、引いた。僕の体から出て行けと思って。ぎりぎりと引っ張った。心臓が止まる様な、体が引き裂かれるような痛みがして、悶絶して、悲鳴にも近い声を、音を喉から零しながら、ひたすら引き続けた。僕の体から、いったいどこにそれだけ埋まっていたのやら、長い長い糸が出続けて、床でとぐろを巻いた。そいつが引き抜けた時、僕は僕の中で何かが割れて壊れてぐしゃりと潰れて死んだような苦しさにを全身を支配された。ぽこっとでもいうような爽快感と、虚無感と喪失感を余韻に、僕は抜けきった糸の端を見た。長い長い糸。それが誰の口に続いているのか知らないけれど、知らない誰かと結ばれるなんてまっぴらごめんだと思った。糸の先端を指にグルグル巻きつけ、雑に糸玉を作る。雑多なごみを突っ込んだダンボール箱をあさって、ちょうどいいサイズの入れ物を見つけた。百円で買えるカプセルトイの卵型の入れ物だ。上も下も青いそれは、もう見たくないこの赤い糸玉を隠すのにちょうどよかった。こんなもの買って、無邪気に喜んでた時もあったなあと懐かしく思う。たしか小学生の時、友達と一緒に買ったものだった。中身はどこに置いたっけ。外側をとってても意味ないじゃないか。
蓋を閉める時、ふと、糸玉の先に延びる糸をどうしようか迷った。このまま挟んでしまってもいいのか、それとも鋏でちょん切ったほうがいいのか。でもちょん切れるものなのか? それに、引き抜くだけであれだけ痛かったのだから、切ったりしたら相手も痛いのではないだろうか――いや、相手なんているかもわからないけど。
しばらく悩んだけれど。結局僕はカプセルトイの蓋を閉めた。その蓋に糸は挟まれて、曲がった。少しだけチクリと心が痛んだ気がして、でも頭を振って、僕はその気持ちを見ない振りした。
そのまま、僕は塾に行くついでに街路樹の――桜の木の根元に埋めた。桜はまだ咲く時期ではなかったけれど。
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