誰も彼もが天使をさがす日

「あなたの子よ」


 そう震える声でいう女とは、二年前くらい、入社したばかりの頃に三ヶ月ほど付き合っていた。わりとすぐに別れたので交際の記憶はほぼない。


 女の横を見やる。母親によってメロンソーダを頼まれた二歳児。アイスクリームの載ったそれは二歳児がストローを使って飲むには大きすぎた。店員が気を利かせて出してきた両手持ちのカップを使って、彼女は上機嫌に鮮やかな緑色の液体を飲んでいる。


 とりあえず入った喫茶店はダークブラウンの色調でまとめられ、クラシックがゆったりと流れていた。窓から差し込む日差しが眩しくてあたたかだった。窓側の右目だけを軽く細める。


 二年前に付き合った女の二歳児。孕んでからの十月十日を考えると計算が合わない。なにより俺は彼女を抱いたことがない。それなのにどうして俺のところに押し付けようと思ったのか。顔を伏せて震えつづける女は愚かなのか。その切実そうな期待に応えてやる義理はまったくなかったけれど。


 くるくるとカールした、異国の血が入っているかのように淡い色の髪。左右非対称の二つ結び。事情も知らないで満足げに鼻を鳴らしているちびすけ。見ず知らずの、自分と血の繋がりようがないとわかっている子ども。


「ちび、おいで」


 その手をとった。かつてあのひとが俺にしたように。


 風呂に入らなきゃと、寝起きのぼんやりした声で工藤がいう。工藤は情事の残り香を子どもに関知されるのを嫌がる。だから俺たちの情事はもっぱらひるなかに行われる。


 彼の生い立ちを思えば当然のことで、そのぶんわざわざ布団を敷いて始めるほど意識的にもなれなくて、いつも服を脱ぎ切ることもなく、最終的には床に直寝することになる。


「いってもあと二時間くらいは寝てられるぞ。もうちょっと休んどけ」

「ん」


 小さく返事をして、再び目を閉じた工藤の頬は濡れていた。本人が覚えているのかは定かじゃないが、工藤は達する寸前によく泣きながら謝ってくる。


 何に対する謝罪なのかは見当がつく。高校の卒業式の日、これから新天地へと向かう俺に、彼は忘れてくれといった。冬の夜に川まで工藤を拾いにいったこと、上手く抜けない工藤の手助けをしてやったこと、今まであったいくつものそれら。俺たちのあいだにあったものはきっと普通のことじゃないから、どうかすべて忘れてくれと。新しい地でおまえに相応しい友人たちと交流をもって、穏やかに生きてくれと。別れの挨拶に彼はそういった。


 工藤の抱えるものはわかりやすい。愛もないのに身体が絡みついてほどけなかった両親、その後目の前で死んでいったという母親、性行為へのトラウマ。俺の中にわだかまっているものはもっとずっとわかりにくい。だから工藤はきっと勘違いしている。


 巻き込んだのはおまえじゃなくて俺のほうなんだ。ひとりじゃどうにもならない俺のエゴに彼を巻き込んだ。


 頬杖をついて、高校のときと変わらずに染められている工藤の金髪を見やる。色の抜けたそれは日光による攻撃的なきらめきを失って、動物の毛並みのようにやわらかそうだった。背ばかりが高くて痩せぎすなのも変わらないが、昔より身体が大きくなったぶん、余計に骨や関節の目立ちがひどくなったような気がする。


 午後の陽光は盛りを増してますます眩しかったが、広々とした家の内までは届かない。ここは暗い。昼寝にはちょうどいいなと思って、ひとつ伸びをしたあと、俺も工藤の隣で目を閉じた。


 母親に捨てられた子どもを拾って帰ってきたことにだれもかれもが善性を見出だそうとする。その中で、母だけが呆れたような悔しそうな顔をしていた。


「この、ばか息子」


 実家のリビングにて、机をはさんで正面に座る母の拗ねたような、ささやかな罵倒に思わず片頬を上げた。どうしようもなく俺の行為の真意を理解してしまうこのひとは、紛れもなく母親で、俺たちは親子だった。そんな母の隣に座っていた父は、意外そうに片眉を上げて「ふーん、ちびかわいい?」とだけいった。ことの重みを感じているのか不安になるほどの、よくも悪くも薄味の反応。これはこのひとの性質でもある。


 抱いたこともない彼女と結婚して旦那になって、そのお腹の中にいた見ず知らずの俺の父親にしれっとなったこのひとの、善性であり悪性である本質。


「父さん」


 俺はこのひとの真似がしたかった。自分と血の繋がりようがないとわかっている子どもに、一度だって微笑みかけるのをやめなかったこのひとの真似が。


 ずっと父を愛していたし、父を慕っていた。だけどそれと同じくらいにずっと、理解しがたく思っていた。俺はあなたにとって何者でもないのに、どうしていつもそんな上機嫌に微笑みかけてくるのか。泣きたいくらい大好きで、大好きで、でも底抜けのお人好しなのか呆れるくらいのバカなのかもわからなかった、あなたのこと。


「そこそこかわいいよ」


 これは善行ではない。俺はあのひとのようなお人好しでもバカでもないから、これは哀れな子どもへの救いでもないし、純粋な行いでもない。


 ようやくあのひとの気持ちを知る機会を得たのだと、これであのひとの追体験ができるのだと思ったから、俺はあのかわいそうな子どもを拾いました。何者でもない子どもの頭をよしよしと撫でて、不安がって泣く子に俺はおまえだけのパパだよと微笑むあのひとのことを、ようやくこの手に掴めるのではないかと考えて、俺はあの子どもの手をとりました。


 ここに真っ当な理由はないし正当な愛情もない。俺はあのひとではないから、上手く愛せるのかもわからない。


 でも俺もかつて、俺にとってのだれでもないひとから頭を撫でられて、微笑みかけられて、膝にのせてもらって、抱きしめられたことがある。俺がされたことはすべて君にしてあげたいと思っている。もし君がそれを、限りなく幸福だと感じてくれたなら、俺もまた報われるのではないかと、そんな気もしているのだ。


 そういうことを勝手に始めたのは俺で、俺の世界はそうして閉じようとしていたのに、工藤は心配して乗り込んできて、考えなしの俺のことを叱って、家を見つけてきてくれた。壊れかけの自分の心と身体はほっぽって、俺のことを引きずってでもちゃんとした暮らしをさせようとしてくれた。おまえが俺にしてくれたことは限りない。


 俺のひとりよがりのままごとにおまえを巻き込んだのに、おまえのほうが俺に謝って泣くんだな。


 隣からかすかな寝息が聞こえてくる。ゆっくりと目を開けて、痩せぎすで骨ばった身体へと手を伸ばす。呼吸をするたびにあばらが浮かび上がる胸はひんやりとしている。ただでさえ畳に直で寝転がっているのだから、冷えては余計身体に悪いなと思って、何度か肌をさすってから工藤の心臓あたりに耳をつけた。ふう、と息をつく。


 他のだれの手も俺の奥底にある思惑にまでは届かなくたって、このあまり健康的でない透けた肌や、肉付きの薄い胸板や、掴めるくらいに細い腰はぜんぶ俺のものだと、工藤に限っては思う。


 そんな俺は、恋人でもない彼と結婚して理想の家庭を築き上げた母に呆れるくらい似ていて、でもそれなら俺だって、父さんと母さんくらいには幸せになれるんじゃないかということを考えて、もう一度目を閉じた。

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溺れ行く先の楽園、誰も彼もが天使をさがす日 祈岡青 @butter_knife4

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