溺れ行く先の楽園、誰も彼もが天使をさがす日

祈岡青

溺れ行く先の楽園

 なにもかもがどうにもならなくて、胸は苦しいし、頭の中でだれかのしゃべる声が止まらなくなった日の夜、川で溺れて死のうと思った。


 夜の川面と岸辺に境はなく、昼間はすすき野原が広がっていたはずの場所で、あっさりと足を取られて水中に沈んだ。


 冷たくてぐちゃぐちゃで、なにも見えずに、なにもわからずに、濁った水の中をただくるくると回転する俺をつかまえて引きずり戻したのは、高校のクラスメイトだった。


「工藤!」


 げほげほと水を吐き出す。びしゃびしゃの視界に、ぼんやりと学校指定のグレーのダッフルコートが浮かび上がる。


「くぜ」

「生きてるかよおまえ」


 珍しく眉をぎゅっとひそめて怒っているような顔のクラスメイトは、川に下半身が浸かったまま、バカ野郎といって俺を抱きしめた。脇に差し込まれた腕の確かさと濡れた服越しの温度が、俺の意識を引き上げる。


 助けに来たのかと聞くこともできなかった。ただ急に身体の震えが止まらなくなって、目の前の彼にすがりつくようにして泣いていた。


 あの夜のことを今でもときどき夢に見る。


 久世は高校卒業後、都会の大学に進学し、就職もあっちでしたと聞いた。俺はそのまま地元の工場に就職した。異なる道を選んだからには、もう二度と会うこともないのだろうと思っていた。数年後、久世のバカが血が繋がってるんだか定かじゃないとかいう二歳児を連れて地元に戻ってくるまでは。



 木造二階建ての空き家は、大人と子供が二人で住むには少し広すぎていたが、久世は気にしていないようだった。一年経っても二階は物置状態だったが片付ける気はないらしく、今日も縁側でゆったりと日向ぼっこをしている。ちびは預かり所に行っていて夕方まで帰ってこない。


 あっさりと俺の前に現れた久世は、戻ってきたくせに実家には頼らずシングルファザーをやると言い出して、俺は、再会の感動もそこそこにとりあえず久世を一発殴って、知り合いが持て余していた空き家に押し込めた。それがだいたい一年ほど前になる。


 少し離れたところの柱にもたれて、その背中をぼうっと眺めていた。太陽に照らされて輝くブラウンの髪。Tシャツにカーディガン姿の青年の身体つき。すっきりとした首筋のライン、それを辿っていった先の肩幅は思っていたよりも広い。制服姿の同級生は、会わなかった月日のあいだにすっかり大人の男になっていた。


 不意に久世がこちらを振り向いて、ほとんど光の差さない瞳と目が合った。前髪がさらさらとかすかな風に揺れている。


「工藤」


 庭に放り出していた足の片方を縁側にのせながら、久世が微笑むかのように口の端を上げた。


「したくない?」

「は?」


 突然の誘いに上手く息が吸えなくなって、咄嗟に胸のあたりを押さえた。そんなこちらの様子など気にもかけずに、立ち上がった久世が距離を詰めてくる。


 明るい場所から抜け出した彼は屋内の日陰を纏っていた。俺より頭半分ほど低いところにある伏せがちの瞳が、ゆっくりと視線を上げて俺をとらえる。いつもはほとんど無表情のくせ、こんなときだけ確信犯的なとっておきの笑みを浮かべる久世と、頬に当たるやわらかな風と、葉擦れの音と、遠くのざわめき。ここには彼と俺以外にだれもいないという事実。


 耳を満たす穏やかな午後の静けさにくらっときた。


「なんで」

「なんでも」


 どうしようもなく、ずるずると座り込んだ俺に、久世の指先が伸びてくる。俺を見下ろす明るい色の瞳は凪いでいる。母親にも父親にも似ていないのだというその色を見ているうちに、するするとシャツのボタンを外されて、裸の胸が露になった。春が近いとはいえ、さすがに少し寒い。


 肌のうえを動く彼の手はあたたかだ。けれど温度以上の何かを感じてしまったら最後、きっと吐き気が止まらなくなるだろうから、彼が俺の胸を触る行為がどういうことなのかは考えないようにしている。その行為の意味を俺はよく知っているのに。


 久世の手の動きを追う脳裏に、窓に反射した七色の光が瞬く。


 母親と父親は死ぬほど仲が悪かったが、身体の相性だけはよくて、ずっと別れられずにいた。

 狭苦しいアパートの一室には、中身の詰まったゴミ袋が至るところに散乱していて、俺は、いつだってそれらのあいだに隠れるようにして二人の喧嘩を聞いていた。

 物を投げる音、ガラスの割れる音、怒号と悲鳴。どうか俺に気がつきませんように。二人が俺を見つけませんように。そうやって身を縮こまらせていた息子に本当に気がついていなかったのか、それともわざとなのか、二人は殴り合いから乱れてそのままセックスにもつれ込むことが多かった。


 頭の中で腰を打ち付ける音がする。母親の喘ぎ声がする。


「工藤」


 久世が俺を呼ぶ。不意に強く抱きしめられて、無意識のうちに小刻みに震えていた身体があたたかくなった。ぱちりと切り替わるように目の前が明るくなって、あたりのざわめきがふたたび五感に入ってくる。


「くぜ」

「うん」

「やめないか」

「今さら遅いよ」


 そんなやり取りをしてこんな時間から肌を重ねる俺たちを、だれかが見たらなんというだろう。子供のいないあいだに抱き合う俺たちのことを、爛れた二人だと思うだろうか。久世のこれが劣情でもないし欲情でもないということを、この世の中で俺以外にわかるやつはいるのか。


 行為には記憶が伴う。記憶は俺を飲み込んでしまうほどに深い。だから君はこういうとき、必ず俺のそばにいる。いつでも俺のことを掴み上げられるよう、あの夜のように。生物に組み込まれた生理現象ですら自分で上手く処理できない俺を、救うともいわず、俺のためともいわず、ただ「したくなったから」とだけいって、抱きしめる。


「う、あ、くぜ」


 俺のためにこんなことをするならやめてくれと、いつも思うのに身体に力は入らないし、声が言葉になることはない。久世の紺色のカーディガンだけが視界に映っていて、ゆっくりと肌を下りていく久世の手の温度を、ただ感じることしかできずにいる。


「あ、あ、くぜ」


 久世の手に包まれて、じんわりと下半身があたたかい。我慢できずに声が漏れるほどに気持ちが満たされる。うとうとと蕩けそうな意識の中で、目の前のカーディガンの裾をなんとか掴んだ。


「おれ、も、いきたい」

「いいよ」


 耳元で久世が笑っている。久世の匂いのする肩口へと額を押し付けると、日溜まりの匂いがした。その背中にしがみついて目を閉じても、フラッシュバックは起こらない。


「つらくなったら俺の肩噛んでもいいから」

「ん」


 身体を包み込むあたたかさに、とろとろとまぶたが下がっていく。そのまま気絶したせいで、結局最中のことはあまりよくおぼえていない。ほとんど服がはだけた状態で目を覚ましたわりに後味が悪くないのは、たぶん相手が君だからなんだろう。


 友情の延長で俺のガス抜きに付き合ってくれる君に泣きたくなる。気持ちよかったと思うほどにつらく、事後の気分が楽なほどに泣きたい。君が俺のためにしてくれることは、あまりに尊い。


「なあ、ちびが戻ってくるの何時?」

「五時半」

「そっか。それまでに風呂入らなきゃ」


 相変わらず外は燦々と太陽の光が降っている。春の気配がする陽気の中で、彼はいつになったら俺から逃れらるのだろうかということを、考えている。

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