黄昏を往く (1)

 偵察から戻ったサヴィネの話を聞き終わるなり、ラグナは愕然と呟きを漏らした。

「ウルスが……俺の身代わりに……」

 祖師の屋敷の、ラグナにあてがわれた客用寝室。ラグナの向かいのソファで、サヴィネが唇を噛んで顔を伏せた。

 ラグナは、自分の手元に視線を落とした。ほんの刹那、おのれの手が赤い血で染まっているさまを、幻視したような気がした。

「何故だ。何故、そんな……」

「代役を立てるというのは、殿下を安全に逃がす上で、非常に有効な手段ではありますからな」

 と、ラグナの右辺に座っている祖師が、静かな声で解説を入れた。

「ヘリストのことですから、その従兄弟殿には、有事に備えて早くから話を通していたのでしょう」

 祖師の言葉に、サヴィネが静かに頷いた。

「ウルスさんは、もう何年も前から、万が一の際にラグナ様の身代わりとなることを了承しておられました。王太子の従兄弟というだけで、普通ではあり得ない優遇を受けてきた、その恩を返したい、とのことでした」

 自分一人が蚊帳の外に置かれてしまっていたことに、ラグナは口惜しさを禁じ得なかった。同時に、あんな酷い仕打ちを受けたにもかかわらず、ウルスがラグナのことを命に代えて守ってくれた、という事実に、罪悪感と後悔が怒濤のごとく押し寄せてくる。

 それに。

「それに、何故、フェリアまでもが死ぬ必要があったのだ……」

 苦渋の声を絞り出すラグナに、サヴィネもまた、沈痛極まる表情で首を横に振った。

「それは……分かりません。どこまでも殿下とともに、と、自ら囚われ人となったとのことで……」

 そもそもフェリアは、現時点では、王家に対して何の義務も権利も持ち得ない、単なる婚約者でしか過ぎないのだ。しかも、この婚約が王太子側から出たものであることは、ほとんどの人間が知っている。自ら出頭さえしなければ、彼女が処刑されることなどなかったに違いない。

「自ら……」

 ふと、とある考えに思い至り、ラグナはゆっくりと顔を上げた。

「自ら、というのは、本当に、彼女の意思なのか?」

「そうせざるを得ないよう、仕向けられた、と仰るのですかな?」

 ラグナは唇を噛んだ。そう、例えば、幸せそうにラグナに微笑んでみせた時のように。選ぶことのできる選択肢が他に存在しなければ、彼女は残った道をゆくしかないのだから。

「奸臣の非道さを喧伝するために? それならばなおのこと、寡婦として生き残っていただいたほうが、より効果的だと思いますがな」

 祖師がフェリアのことをまるで盤上の駒か何かのように語るのを聞き、ラグナは思わずムッとした。

 そんなラグナの様子を一向に意に介したふうもなく、祖師は状況を読み解こうと試み続ける。

「可能性としては……、従兄弟殿が道連れを求めたか……」

 ラグナは即座に首を横に振った。

「いや、ウルスはそんな奴ではない。あいつなら……何がなんでも彼女の命を救おうとするだろう」

 そう言いきったラグナの顔をじっと見つめながら、祖師は、勿体ぶるようにゆっくりと口を開いた。

「ならば……」

「ならば?」

「ならば、婚約者様が、間違いなくご自身の意思で、『殿下』と運命をともにしようと考えなさったのでしょう」

 祖師はふっとラグナから視線を外すと、理由は分かりませぬがな、と付け加えた。

「なんにせよ、奸臣がこの先どのようなつもりであろうと、カラントという国は瓦解するでしょうな。ですが、殿下さえご無事なら、再興は可能です」

 躊躇いの欠片もなく断言する祖師に対し、サヴィネもまた力強く何度も頷く。

「長期戦ですがな。まずは、お二人には、ここから東に……」

 テーブルに広げた地図の上に身を乗り出し、これからのことを話し合う祖師とサヴィネを、ラグナは、ぼんやりと見つめた。

「……王家の血とは、一体何なのだ」

 先刻から胸の内で渦を巻いていた疑問が、ラグナの口をついて出る。

 何の罪もない前途有望な若者を、王太子と顔かたちが似ているというだけで、死に追いやった。王家の血を絶やさぬために。それは――

「――それは、それほどまでに、重要なものなのか」

 サヴィネが目を丸くする横で、祖師が、ついと目を細めた。

「それは、過去と現在を繋ぎ、カラントをカラントたらしめるもの、とでも申しましょうか」

「過去と、現在を、繋ぐ……」

「それに、ヘリストには、クラウス様に大きな恩がありましたからな」

 祖師が、何かを懐かしむような眼差しを、虚空に投げた。

「ヘリスト家の三男坊に時の当主が求めたのは、聖職者となって家のために祈ることでした。それを、クラウス様がお止めになられたのです。宝玉を重石に使うなどもってのほかだ、と」

 そうしてヘリストは、その優秀なる頭脳をカラントのために惜しみなく使えるようになったのだ。それが彼にとってどれほど幸せなことであったかは、想像に難くない。

「ヘリストにとって、王家の血とは、クラウス様が、引いては自分自身が、この世に確かに存在したというに他ならないのですよ」

 迷い無き瞳で言いきる祖師の向こうに、ラグナは、肖像画でしか知らない祖父の姿を見た。

……」

 ラグナは思わず我が胸を押さえた。自分はまだ何もしていないのに、父祖のお陰でこんなにも多くのものを与えられる、と。

 だが、そこまで考えて、ラグナは、小さく息を呑んだ。気弱に微笑む従兄弟の顔を思い出して。

 与えられる、のではない。奪っている、のだ。

 長い時をかけて築き上げられた枠組みの中で、皆、与えざるを得ないように仕向けられている。追い込まれている。好むと好まざるにかかわらず、ラグナがそこに存在するだけで、無言の圧力が生じるのだ。そして、ラグナはその中心で、ただひたすら惰眠をむさぼっていた。

 国の外からやって来た圧倒的な力によって、ラグナは、今、ようやくそのことを理解したのだ……。

 

 ラグナとて、望むものが何だって手に入る、などと思っていたわけではない。

 だが、具体的に何が手に入らないのか、と問われると、途端にラグナは答えに窮した。眼前に障害が立ち塞がっていたとしても、何とかなるのではないかと、考えてしまうのだ。

 フェリアとの関係でも、それと同じことが言えた。声高に「嫌だ」とでも明言されれば、さしものラグナも思いとどまったかもしれない。だが、誰が王太子にそんな台詞を放つことができるというのだろうか。何も言えずに、黙るしかない。そしてその沈黙を、ラグナは「是」と捉える。

 一体いつからこうなってしまっていたのだろう。

 ラグナは、自分の手をじっと見つめた。

 もっと幼い頃から、既に兆しはあったのだ。ウルスやフェリアと、身分を意識せず過ごしていたつもりでも、常にラグナには優越感があった。ウルス達が勉強することができるのは自分のおかげだ、と言い放ったあの時以外にも、常に。俺はお前達とは違うのだ、と……。

 最初から、三人の力関係は、歪んでいたのだ。

 

 

 

 屋敷の玄関前に、二頭の馬が引き出された。ラグナの愛馬と、かつてはヘリストが使っていた、サヴィネの馬。

 ラグナが、サヴィネに教わりながら荷物を愛馬に括りつけていると、玄関扉があいて、祖師が見送りに出てきた。

「神のご加護を。どうか殿下の前途に幸多からんことを」

 加護、という言葉を聞き、ラグナは密かに唇を噛んだ。

 ウルスがラグナの身代わりとなることは、ラグナがこの世に存在する限り、避けようのないことだったのかもしれない。

 だが、フェリアについては、それとは全く話が違う。

 誰に強制されたわけでもないのに、彼女は自ら死を選んだ。恐らくは、ラグナから逃れるために。何故ならば、ラグナが生きている間は、フェリアは決して自由にはなれないからだ。それゆえ、彼女は、本当に好きな男と、手に手をとって常世へと逃げることを決めたに違いない。

 あの時、ラグナが浅はかな行動にさえ出なければ、少なくともフェリアは死なずに済んだのだ。

 鉄錆の味が、ラグナの口の中にじわりと広がる。

 加護どころの話ではない。救済は勿論のこと、たとえ罰であろうと、今のラグナが神から賜ることのできるものなど、何も、無い。

 

 祖師と別れの挨拶を交わしたのち、二人は馬に跨った。夕焼けに染まる空に、鳥の声が、二つ三つと響き渡っている。

「参りましょうか、ラグナ様」

 ラグナは、淡々とした声で、サヴィネに応えた。

「そいつは、死んだはずだろう」

 そう、〈ラグナ王子〉は死んだ。婚約者とともに。愛し合う二人は、これでようやく一緒になれたのだ。

 唐突にラグナは、我が身を切り刻みたい衝動にかられた。それと同時に、本当はそんなこと出来もしないくせに、との嘲笑がこみ上げてくる。

 できるはずがない。自分には何も無い、などと拗ねながらも、その実、無意識のうちに抱え込んでいた全能感を手放すことを恐れて、自分の都合の良い世界で、真実から目を背け続けていたくせに。

 彼ら二人のためというよりも、自分のために、ラグナは祈った。どうか天上で幸せに暮らしてくれ、と。俺は――

「さて、地獄までの道を、裏切り者どもの血で塗り固めてやるとするか」

「どこまでもお伴いたします」

 黄昏に染まる道へと、ラグナは踏み出した。

 

 

 

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