砂の漏刻 (5)
月の光に助けられて、二人は、
馬の扶助についてラグナに簡単な指示を出す以外は、サヴィネはずっと無言だった。何しろ彼は、王都に凶事を伝えるために、昨日の昼からずっと駆けどおしだったのだ。疲れきった身体では、ラグナを先導するだけで手一杯なのだろう。怪我を負った両腕も痛むに違いない。いつもの朗らかさはすっかり鳴りを潜め、鷹のごとき眼差しが、影差す眼窩で油断なく光る。
不測の事態を回避するため、時には町を迂回し、馬を潰さぬよう休息を挟みながらも、彼らは快調に道を進んでいった。
夕刻になって、二人は街道を逸れた。牧草地を横切り、森の中を通る小路へと足を踏み入れる。道が悪くなった上に日も落ちて、足運びは格段に鈍くなった。目的地までは、あとどれぐらいかかるのだろうか。じりじりしながら、ラグナはサヴィネの馬のあとを追った。
見事な望月が中天にかかる頃、二人の騎馬はようやく森を抜けた。
眼前に広がる農地を、降りしきる月の光が灰色に塗りつぶしている。向こうのほうに黒ずんで見えるのは、種まきを終えたばかりの小麦畑だろうか。その少し手前側に、一軒のお屋敷が建っているのが見えた。
サヴィネは、何も言わずに屋敷のほうへと馬首を向けた。
ラグナは馬の歩度を少し上げて、サヴィネの真横に並んだ。
「あの屋敷に何か用が?」
ラグナの声が聞こえていないのか、サヴィネからは、何の返答もない。
「宿なら、不要だ。まだ行ける」
声に力を込めて言いきれば、サヴィネが掠れた声で応えた。
「ここが、目的地です」
「どういうことだ」
ラグナは思わず眉をひそめた。クラウス王を山小屋に避難させた、とサヴィネが言っていたように思っていたが、勘違いだったろうか、と。あらためて周囲を見回してみると、確かに正面も右手も農地のすぐそこまで山が迫ってきてはいるが、この屋敷を「山小屋」とは呼ばないだろう。
サヴィネは、再び唇を引き結ぶと、黙々と馬を進ませていく。
その思い詰めたような眼差しに、ラグナは、それ以上何も言うことができなかった。
屋敷の門のところには、白髪の老人が一人、佇んでいた。
サヴィネに倣って馬からおりたラグナに、老人は深々と礼をする。
「ヘリストの奴から早馬で連絡を受けております。とにかく中へ」
そう言うなり、老人はくるりと
ラグナは、門番に馬を預けるのも早々に、慌てて老人のあとを追った。玄関を入ったところで、ようやっと老人に追いつき、夢中で問いかける。
「父は? クラウス王はどこに……?」
「陛下なら、ここにはおられません」
老人の言葉を聞き、ラグナは勢いよくサヴィネを振り返った。胸中で渦を巻く、驚きと、不安と、怒りといった感情を、大呼して一息に叩きつける。
「どういうことだ、サヴィネ!」
サヴィネが、ラグナから顔を背けた。目をきつくつむり、歯を食いしばり、こぶしを握りしめ……、そうして、突然何か糸が切れたかのように、がくりと床にくずおれた。
「お許しください、ラグナ様……!」
両手を床について嗚咽を漏らし始めるサヴィネを前に、ラグナはただ声を荒らげることしかできなかった。
「泣いていては分からぬ! 説明しろ、サヴィネ!」
「私からご説明差し上げよう」
静かな声が、背後からラグナに差しのべられる。
ラグナは、恐る恐る老人のほうに顔を向けた。
「……あなたは、一体……?」
「もう隠居して久しいですがな、先王――殿下のおじい様のもとで、儀仗魔術師長を務めておりました。かつてヘリストには師匠と呼ばれたことのある身でございます」
ラグナにとって祖師とも言うべきその人は、慈しむような眼差しでラグナに向かって微笑んだ。その笑みに助けられ、ラグナは幾分落ち着きを取り戻す。
「それで、これは一体どういうことなのか」
眉間に険を刻み、問いを重ねるラグナに対し、祖師は、至極淡々と言葉を返した。
「国家転覆を目論む奸臣から、殿下をお守りしようというわけでございます」
祖師の発言の意味が、ラグナにはすぐには理解できなかった。
「どういうことだ。私は、怪我をした国王陛下を助けに来たのだ。このサヴィネが奸賊の手から救出してくれた、父上を」
「残念ながら、陛下は既に奸臣の手にかかってお亡くなりになっておられます」
俄かには信じがたい言葉を問い質すよりも早く、サヴィネの慟哭がラグナを打ちのめした。
「私も、最後まで陛下をお守りしたかった……! ですが、陛下が、早駆けはお前の右に出るものはおらぬから、と! 一刻も早く王都へ、このことを知らせるように、と! 殿下をたのむ、と、そう仰って、雨と降り注ぐ矢の中から、私の騎馬を押し出されて……!」
そこから先は、もう、彼が何を言っているのか聞き取れなかった。サヴィネは獣のごとく咆哮しながら、こぶしを何度も床に打ちつける。
ラグナは、身体の中ががらんどうになってしまったような心地で、ぼんやりとサヴィネを見下ろしていた。
王の執務室で凶事を報告していた時から、この屋敷へ至るまで、ずっと、サヴィネの様子は変だった。ラグナと目を合わせようとしなかったのも、必要なことしか喋らなかったのも、この、由々しき秘密を抱え込むがゆえだったのだ。
そこまで考えて、ラグナはようやく重要な事実に気がついた。
口の中がカラカラに乾いてしまっているにもかかわらず、あっという間に苦いつばきがじわりと舌の上に滲み出てくる。ラグナはそれを無理矢理嚥下すると、泣き伏すサヴィネに問いかけた。
「ということは、父上を助けに行け、というのは、嘘なのだな? 皆で俺に嘘をついていたというのだな? お前も、先生も、母上も……」
しゃくり上げ続けるサヴィネの代わりに、祖師が口を開いた。
「事実を告げられたらば、殿下は、皆と運命をともにしようとなさったのではありませんか?」
その瞬間、ラグナの脳裏に甦ってきたのは、母の姿だった。別れを惜しむように、馬上のラグナの手をそっと握りしめた、母の手のひらの温もりだった。
ラグナは、奥歯を強く噛み締めた。胸の奥が燃えるように熱かったが、不思議なことに、頭の中は冷水を浴びせかけられたかのように冴えきっていた。今しがたまで身体中を蝕んでいた疲労感も、まるで嘘のように消え失せている。
ラグナは無言で
背後から、祖師の声が追いかけてきた。
「殿下、どちらへ」
「決まっている。王都へ帰る。帰って、皆とともに裏切り者と戦う」
大きな溜め息が、ラグナのすぐ後ろで聞こえた。
「やれやれ。だから、ヘリストは殿下に本当のことを言わなかったのですよ」
次いで、何か詩歌のようなものが、ラグナの耳に飛び込んできた。
血相を変えて振り返るラグナの眼前、祖師が空中に指をひらめかせて呪文を唱えている。
ほどなく、ラグナの視界に靄がかかり始めた。頭の芯が痺れだし、手足の感覚がどんどん鈍くなっていく……。
「やめろ! 俺は、王都へ戻……」
そして、ラグナの意識は、闇に呑み込まれた。
見慣れぬ鎧の軍団が、王都の通りを整然と並んで進んでゆく。
街角に満ちる不安げな囁きは、誰かが「南の帝国だ」と呟いたのを境に、恐怖に彩られた沈黙と変わった。人々は慌てふためいて建物の中へ逃げ込むと、息を潜めて窓から外を見つめた。
大鷹をあしらった旗のすぐ脇には、もう一つ、こちらは皆がよく見知っている旗が、誇らしそうにはためいていた。その下に見えるは、誰あろう、マルクス・セルヴァント伯爵の堂々たる姿。
隊列は、粛々と街を抜け、真っ直ぐ王城へと吸い込まれていった。
その日のうちに、セルヴァント伯爵による声明が、王都中を駆け巡った。
曰く、十年以上もの長きに亘って、クラウス王は傀儡と化していた。王を操り、実権を握っていたのは、王妃と儀仗魔術師長。
彼らの施政は、全て彼らが私腹を肥やすためにあった。例えば、平民の子供に教育を強制しようというのも、そう。人々から貴重な働き手を奪って困窮させ、彼らを統べる貴族にその尻拭いを押しつける。貴族と平民の垣根を崩し、社会の秩序を乱す。彼らはそうやって貴族を弱体化させ、国政をほしいままにしようとしていたのだ。
彼らの罪は、それだけではない。更なる権力を求めた王妃は、王を唆し、平和を求めて我が国を訪れた帝国からの使者を暗殺しようとしたのだ。
そのような、人の道に
斯くして、非道に堕ちたクラウス王の軍勢は、清廉なる帝国軍によって返り討ちとなった。帝国軍は、報復としてカラント全土に戦火を広げようとしたが、命の恩人であるセルヴァント伯たっての願いを聞きいれ、戦争はぎりぎり回避された、と……。
王城に入った帝国兵は、このたびの騒乱の首謀者である王妃と儀仗魔術師長を拘束した。抵抗した王太子とその婚約者も抑留。のちに全員が処刑台の露と消えることになる。
王妃達の罪を認め、セルヴァント伯及びマクダレン帝国に従うならば、命を助けてやってもいい、と告げられた王太子は、裏切り者の言葉に貸す耳はない、と、最期まで威風堂々とした態度を崩さず、刑場に居並ぶ帝国兵を圧倒させたということだ。
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