砂の漏刻 (4)
澄み渡る秋空に、トランペットの音が吸い込まれてゆく。
大勢の人々が見送る中、クラウス王一行が、国境の町で行われる平和会談に出席するために王都を出発した。
片道僅か二日の行程とはいえ、一国の主の同道となれば、その規模もそうそうたるものである。何台もの馬車や荷馬車を騎兵や歩兵が取り囲んだ、威風堂々とした行列に、沿道の人々から何度も歓声が上がった。
歩兵の掲げる旗の中には、セルヴァント家の紋章が入ったものもあった。近衛兵長のミュリス男爵だけでなく、その父親のセルヴァント伯爵もが、今回の旅には同行しているのだ。
「父上を頼んだぞ、サヴィネ」
城の門の前、勇壮なる行進を見送りながら、ラグナは思わず独りごちた。
「陛下には、近衛兵も儀仗魔術師も選りすぐりの者どもをおつけいたしましたからな。王城が手薄にならないか、と、逆に陛下のほうが心配なさっておられたぐらいです」
ヘリストが耳ざとくラグナに話しかけてくる。ラグナは唇を引き結ぶと、曖昧に頷いた。
誕生会の夜以来、ラグナはどうしても師の言葉を素直に聞けないでいた。
ヘリストに一切の邪心が無いことは、ラグナにも分かる。彼はいつだって、主人であるクラウス王を、いや、王家を第一に考えていた。そのたぐいまれな頭脳を、全てカラント家のために捧げていた。
優秀であるがゆえに、ヘリストが選ぶのは常に最適解だ。途中どんなに逡巡しようと、あとでどれだけ心痛めることになろうと、決定に際して何らかの感情が差し挟まれる余地はない。それは、テアの輿入れにまつわる話を聞いた時に、ラグナも薄々気がついていたことだった。
そして、このたびのフェリアの件である。ヘリストにとって、フェリアが思い入れのある教え子であるのは間違いない。彼が事あるごとに彼女を気遣っているのは、この婚約がラグナによる一方的なものであることに薄々気がついているからだろう。
だが、それでも、ヘリストはフェリアの退路を容赦なく断ち切った。王家の評判に僅かでも傷がつくことを、忌避したのだ。
ラグナは、そっと奥歯を噛み締めた。ヘリストからみれば、ラグナですら王家隆盛のための単なる「駒」でしか過ぎないのかもしれない、と。
「なんにせよ、この条約が無事締結されれば、当分は国の外のことを気にせずにすむでしょうな」
ラグナの胸中を知ってか知らずか、ヘリストは語り続ける。
「さて、陛下がお帰りになるまでの一週間、我らも我らの仕事をしっかり為し遂げるとしましょうか」
それから二日間は、何事も無く日が過ぎていった。
三日目の朝まだき、円い月がまだ空の高くにいるうちに、ラグナはヘリストに叩き起こされた。
「至急、陛下の執務室へおいでください」
そう囁いた師の声は、はがねのように堅かった。ラグナは文句を言うことも忘れ、最低限の身支度を整えると、ヘリストに従って部屋を出た。
黙々と渡り廊下を進み、執務室のある棟へ入る。
静まり返った長い廊下に、ヘリストの持つランプの光が、二人の影を幻燈のように浮かび上がらせた。影は、それ自身が意識を持った生き物のように、手足の長いいびつな身体をゆらゆらと揺らしながら、二人とともに階段を上っていく。
こんな時間に、しかもヘリストが直々にラグナを呼びにくるなんて、普通では考えられない事態だった。一体何が起こっているのか、不吉な予感を胸に、ラグナは国王の執務室に足を踏み入れる。
ランプの灯された王の机の横には、テアの姿があった。ラグナ同様、休んでいたところを無理に引っ張り出されてきたのだろう、普段よりは幾分気軽な服装で、だが普段どおり凛とした態度で、背筋を伸ばして立っている。
テアのすぐ面前、王の机の手前には、
「……サヴィネ!」
それが、父王とともに南へ旅立ったはずの騎士と知って、ラグナは思わず声を上げた。
「ラグナ様……」
錆びついてしまった蝶番のように、サヴィネが顔をラグナに向ける。憔悴しきったその表情を目にして、ラグナの心臓が跳ね上がった。
「サヴィネ、何があったのか、あなたの口からラグナに説明してください」
分かりました、と応える声は、ラグナが今まで聞いたこともないほどに掠れ、震えていた。
「今日の……いえ、もう昨日ですね。昨日の昼前、クセスタまでもう一息という切り通しで、我々は正体不明の武装集団の襲撃を受けました」
「なんだって?」
あまりな知らせに、ラグナは二の句を継げなかった。ただ喘ぐように息を繰り返し、サヴィネの次なる言葉を待つ。
サヴィネは、眉間に深い皺を刻んだまま、呼吸を整えるように左手で胸元を押さえた。腕に巻かれたまだ新しい包帯に、うっすらと血が滲んでいるのが見えた。
「我々は、必死で応戦いたしましたが、完全に虚を衝かれた上に、敵には射手ばかりかどうやら高位の魔術師までおり、我がほうの術師殿はことごとく倒され……」
口の中に溢れてきた唾を、ラグナは静かに嚥下した。魔術の習得には、多くの専門知識が必要だ。それゆえ、一人前の魔術師ともなれば、仕官の口に困ることなどない。つまり、王一行を襲ったのは、単なる盗賊などではない、ということになる。
「私は……、なんとか、陛下、を、お連れして、敵の包囲を突破しました。負傷なさった陛下には、少し離れたところにあった山小屋に避難していただいて、私は、こうして単身、皆様にお知らせしようと、馬を飛ばして参りました……」
そこまで語って、サヴィネは力尽きたようにがくりと顔を伏せた。
「父上は、ご無事なんだな」
暗闇に篝火を見出した心地でラグナが問えば、サヴィネは、下を向いたまま、一音一音絞り出すように、口重に、答えた。
「はい。ご無事です」
「母上、すぐに援護の兵を」
「お待ちください、ラグナ様」
テアに詰め寄らんばかりのラグナに対して、背後から落ち着いた声が投げかけられる。
「現在、ブラムトゥスとの国境付近には、平和会談に合わせて帝国軍が展開しております。下手に兵を送れば、彼らと戦争になるかもしれません。なにより、背後から矢を射かけられる可能性があります」
「裏切り者が王都にいる、と言うのか」
ラグナの語気が、自然と荒くなる。
ヘリストが、さも意外そうに眉を引き上げた。
「ラグナ様も、うすうす気づいておられたではありませんか」
「しかし、今回、セルヴァント伯自身も父上に随行していただろう」
その疑問に答えたのは、サヴィネだった。彼は、俯いた姿勢のまま、声音に苦悶を滲ませて、訥々と言葉を吐き出していく。
「当然ながら、伯の馬車も我らとともに襲撃を受けました。ですが、伯の姿は、既に馬車には無く……」
と、そこで一度声を詰まらせ、サヴィネは大きく息をついた。
「我々は陛下の命を受けて、道中、伯の行動を注意深く監視しておりました。昨日も、伯が馬車に乗り込んだのを確認したはずでした。ですが……」
「伯のご子息のミュリス男爵は?」
ラグナの問いを聞き、サヴィネの喉から唸り声が漏れた。
「……我らとともに、陛下をお守りしておられましたが……ご無事かどうかは……」
「実の息子をも切り捨てたのか……!」
腹の底から一気に込み上げる、嫌悪感に、忿怒。一瞬にしてこめかみの辺りが熱を帯びるのを自覚して、ラグナは咄嗟にこぶしを握りしめた。手のひらに爪が食い込む痛みが、おのれをおのれに繋ぎとめる。
「ミュリス様は、陛下の信奉者であらせられましたからな……」
ヘリストの声からも、切々たる無念さが聞き分けられた。
「私の後見人に手を挙げたものの、一向に甘い汁は吸えぬわ、着々と自分達の特権は削がれていくわ、業を煮やした、というところでしょうね」
そう言って、テアは窓のほうへ顔を向けた。どこか遠くを見つめながら、いつになく弱々しい声で呟く。
「ラグナに縁談をねじ込んでこないのは、権力争いの愚かさに気づいたせいか、と一縷の望みを
「この数か月ほど、伯の屋敷を不審な人物が足繁く訪れているのを確認しておりました。伯が陛下に随行して王都を離れるこの機会に、セルヴァント家を
怒りに顔を歪ませ、絶句するヘリストに、テアはゆるりと首を横に振ってみせた。
「先生、悔やむのは後にいたしましょう。とにかく、今は一刻も早く陛下を助けに行かなければなりません。陛下が無事なことを、王都の謀反者達はまだ知らないはずです。彼らに気づかれる前に、秘密裏に行動する必要があります」
もうテアの声には、一片の不安も感じられなかった。静かな決意を瞳に湛え、ヘリストを、ラグナを、順に見据える。
ヘリストもまた、テアの言葉に深く頷いたのち、ラグナを見やった。
「私も、テア様も、王都を離れるわけには参りません。かといって、名代とするに値する者を見極める時間もない」
そう言ってヘリストは、深呼吸を一つした。正面からラグナの目を覗き込み、
「ラグナ様ならば、数日皆の前に姿を見せなくとも、色々と言い訳が立ちましょう。どうか行ってくださいますか」
「勿論だ」
ラグナの愛馬は、既に玄関前に用意されていた。その横には、荷物を括りつけたヘリストの馬。サヴィネが乗ってきた馬は、とても使い物にならないのだろう。
気丈に振る舞ってはいるがやはり不安であるに違いない、テアが珍しく感傷的な面持ちで、馬に跨ったラグナの手をそっと握ってきた。
「どうか気をつけて」
「父上と合流し次第、すぐに戻ります」
ラグナが力強く頷いてみせれば、テアが満足そうに微笑んだ。
「サヴィネの言うことをよく聞くのですよ。わがままを言って困らせることのないように」
「分かっています」
「サヴィネも……くれぐれも気をつけて。ラグナを頼みましたよ」
「分かり、ました」
少し気負い過ぎたか、サヴィネが言葉の途中で息を詰まらせた。慌てて「お任せください!」と胸を張る。
満月が、西の空を柔らかく照らしている。東の空が闇の縛めから解き放たれるまでは、まだもう少しかかることだろう。
サヴィネに従って、ラグナも馬の腹に脚を入れた。絶妙な呼吸で、愛馬が地を蹴る。
夜のしじまの中へと、二頭の騎馬は粛々と歩を進めていった。
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