絡み合う糸 (3)

 

 

 ラグナは、ひとけの無い礼拝堂の裏手へとフェリアをいざなった。

 建物の向こう側から、広場の喧騒が漏れ聞こえてきて、ラグナはきつく唇を引き結んだ。この非常時にお前は一体何をやっているんだ、との声が、ラグナの中で大きくなる。だが、彼は、躊躇いを一思いに奥歯で噛み砕くと、勢いよくフェリアを振り返った。

 冴え冴えとした月明かり降りしきる中、フェリアがもの問いたげに首をかしげる。

「話って、何?」

 単刀直入に切り出されて、ラグナは内心狼狽した。早鐘を打ち始めた心臓を落ち着かせるべく、そっと呼吸を整える。

「怪我は、大丈夫か?」

「痛くないわけじゃないけど、これぐらい大したことないわ」

「そうか」

 ラグナは、フェリアの手に巻かれた包帯に目を落とした。

「まさか、燃えている建物の中に飛び込んでいくとは……」

「間取りを考えたら、まだなんとかなるかな、と思ったのよ。玄関も、あの子が隠れてそうなところも、火元の食堂から離れていたし」

「そうは言っても、建物内部がどんな状態かなんて、外から見ただけでは分からないだろう」

 先刻の、あの胸を締めつけられるような焦慮を思い返し、ラグナは一旦息をついた。それから、静かに言葉を継ぐ。

「本当に、心配したんだぞ……」

「ごめんなさい」

 フェリアが、申し訳なさそうにこうべを垂れた。

 山からの風が、辺りに漂う焼け焦げた臭いを、ほんの刹那、吹き払う。

 ラグナは、腹を括った。胸一杯に息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。

「好きだ」

 フェリアが顔を上げた。

 驚きに見開かれた彼女のまなこを、ラグナの視線が突き通す。

「フェリア、俺はお前のことが好きだ。これからも、お前とずっと一緒にいたい」

 一音一音に想いを込めて、ラグナは言いきった。

 フェリアは、瞠若したまま、彫像のように立ちつくしている。

 やがてフェリアは、そっと目を伏せると、静かに首を横に振った。

「何をばかなことを」

「何がばかなものか。俺ははっきり解ったんだ。俺にとってお前がどんなに大切な存在か。お前を失うかもしれないと考えるだけで、目の前が真っ暗になるような気がした。お前がいない世界なんて、俺には考えられない」

 フェリアの背中が燃え盛る建物の中へと消えていった時の、あの絶望が思い出され、ラグナは知らずこぶしを握りしめた。

 そして、同時に思い至る。あの瞬間、ウルスもまた、ラグナと同じ思いをいだいたであろうということに。

「あなたには、国を背負うという大切な仕事がある」

 フェリアは、思い詰めたような表情でラグナを見上げ、そうきっぱりと断言した。

 だが、ラグナとてこの程度で引き下がるつもりはない。

「好きな女一人背負うことができずに、国など背負えるものか」

 思いの丈を込めて言いきれば、フェリアの瞳が微かに揺れる。

 ラグナは大きく息を吸うと、祈るような心地でフェリアの目を覗き込んだ。

「フェリア、お前の気持ちを、聞かせてほしい」

 狼狽の色を目に浮かべ、フェリアは一歩あとずさった。何かを言いかけ、また口を閉じ、つい、と、視線をラグナから外した。そうして、まるで独白のように、ぼそりと呟いた。

「私は、あなたには相応しくないわ」

「俺は、そうは思わない」

 即座にラグナが否定するも、フェリアは、俯いたまま力無く首を横に振った。

「私は、あんな綺麗な服なんて持ってない」

 あんな、とは、一体何のことを差しているのだろうか。予想もしていなかった彼女の言葉に、ラグナは思わず眉をひそめる。

「髪もばさばさだし、お化粧なんてしたことないし」

「一体何の話だ」

 話の行き先が読めず、少し苛々しながらラグナが問いかければ、フェリアが寂しそうに微笑んだ。

「選鉱場で、ブロームの姫様があなたの手をとった時、なんてお似合いなんだろうって思ったわ」

 その瞬間、ラグナは息が止まりそうになった。喘ぐような呼吸を数度繰り返したのち、ブローム公の娘と自分とは何の関わりも無いことを、弁明しようとした。

 だが、フェリアは、そんなことは承知の上だとばかりに、ゆるりと首を横に振る。

「別に、彼女に限定して言っているんじゃないの。身なりは勿論、立ち居振る舞いや話し方一つとっても、私と彼女、いえ、あなた達では、もう、決定的に、のよ」

「だからどうした。俺が好きなのは、他の誰でもない、フェリア、お前なんだ!」

 ありったけの想いを込めて、ラグナはフェリアを見つめた。

 フェリアは、今度は目を逸らさなかった。琥珀の瞳が、真っ直ぐにラグナを見返してくる。

「でも、私は、あなたの傍にいてよい人間じゃ、ない」

 フェリアの頬をつたう大粒の涙が、月を映して銀色に輝いた。

「そう思って、髪を伸ばしたのに、どうして今更……」

 髪。子供時代からずっと変わらなかった、フェリアの髪。背が伸び、身体が柔らかみを帯び、ラグナやウルスとは存在へと変化する中でも、まるで時が過ぎゆくのを惜しむかのように、彼女の髪は短いままだった。身分というものの意味もよく解らぬまま、ともに過ごした幼い日々が、このままずっと続きますように、と、それはまさしく祈りのごとく……。

『いつまでも子供みたいな恰好をしてるのも変かな、って、思って……』

 夕刻のフェリアの言葉が、ラグナの耳に甦る。この長い髪は、子供時代との決別を意味していたのだ。

 そこまで考えて、ラグナは唐突に気がついた。今日の夕食の席におけるフェリアの様子が、八か月前とは、少し違っていたということに。ラグナとウルス、二人に等しく注がれていたはずの彼女の眼差しが、今やその均衡を失ってしまっていたという事実に。そう、彼女の瞳がラグナに向けられているように感じられた時も、その視線は、実際にはラグナを通り過ぎていた――!

 ラグナは、おのれに重なるもう一つの面影を思い起こした。ラグナとよく似た見目の、ラグナとは似ても似つかぬ冷徹な男の、かんばせを。

「フェリア、そこにいるの? 院長先生が呼んでるわよ」

「は、はい、今行きます!」

 表のほうから名を呼ばれて、フェリアは慌てて袖口で涙を拭った。そうして、ラグナの横をすり抜けて、走り去っていった。

 

 

 ラグナは、放心したように、一人、広場に立っていた。

 一時は天をも焦がす勢いだった託児院の火事も、あらかた消し止められ、黒々とした柱の残骸と煤だらけの壁が、無残な姿を月の光に晒していた。灰色の煙が立ち上る中、あちらこちらでまたたく小さな炎に、数人が手分けして水をかけている。

 すぐ背後に砂利を踏む音を聞き、ラグナはのろのろと振り返った。

「どこ行ってたの? サヴィネさんが探してたよ」

 ウルスが、疲れきった表情で立っていた。頬には煤が、髪には灰が沢山へばりついている。俺がフェリアと話していた間も、こいつは懸命に消火に当たっていたんだな。そうラグナはぼんやりと思った。

 だが、罪悪感はなかった。ウルスをねぎらう気持ちも、称賛の念も、ラグナの表層には浮かび上がってはこなかった。代わりに胸腔からこみ上げてくるのは、目の前の男に対する、気が遠くなりそうなほどの妬ましさだ。

 ラグナの視線に気がついたのか、ウルスが眉をひそめた。ラグナを咎めたてるような口調で、一言、「何?」と問うてくる。

 考えるよりも早く、ラグナの口が動いた。

「フェリアに告白した」

 その言葉がもたらした効果は、覿面だった。ウルスは、まさしく一撃を喰らった顔で、僅かにあとずさる。

「さっき、解った。俺には、フェリアが必要だ。彼女のいない世界なんて考えられない」

 どうしてこんなにも穏やかな口調でウルスと話ができているのか、ラグナは自分でもよく解らなかった。

「彼女は、なんて?」

 ウルスの声が、微かに震えている。

 ラグナの口元が、とても自然に、笑みを作った。

「自分はあなたには相応しくない、だそうだ。可愛いことを言ってくれる」

 どこかほっとした様子で、ウルスが小さく首を横に振った。

「階級というものは、君が思うよりも、ずっと、大きな障壁だ」

「だが、俺の両親は乗り越えた」

 ラグナが間髪を入れずに切り返せば、またもウルスの声が、頼りなげに揺らぐ。

「でも、彼女は断ったんだろう?」

「いいや」

 ウルスが、愕然と目を見開いた。

 ラグナは、これ見よがしに胸を張ってみせる。

「俺の軽率さをたしなめはしたが、拒否はしなかった。かつての母上のようにな。ならば、こちらも父上に倣って、ゆっくり腰を据えて説得するまでだ」

 堂々と宣言するや、ラグナは挑戦的な眼差しを思うさまウルスに突き刺した。

 しばしの間、二人は無言で睨み合った。

 焼け跡から瓦礫の崩れる音がする。

 最初に視線を逸らせたのは、ウルスだった。彼はラグナから顔を背けると、そのまま何も言わずに立ち去ってゆく。

 ラグナは、そっと足元に視線を落とした。

 今しがたまでラグナの胸を突き破らんばかりに荒れ狂っていたウルスへの嫉妬は、いつの間にか消え、あとにはただ虚しさだけが残っていた。

 

 

 

 火事の翌日、ラグナはルウケの館から一歩も出ずに過ごした。

 その次の日も、また次の日も、学校の課題を口実に、ラグナは館に引き籠った。

 フェリアへの告白について、ウルスには「断られていない」などと言い放ったものの、実のところ、それが負け惜しみであるということは、ラグナ自身はっきりと自覚していた。

 館の二階にある自室のバルコニーから、何とはなしに湖を眺めながら、ラグナは何度目か知らぬ溜め息を吐き出した。

 間違いなく、ウルスはフェリアのことが好きなんだろう。何しろフェリアは、人見知りで内気なウルスのことを小さい頃から気にかけてくれた、かけがえのない人間だ。恋心をいだくようになるのも、無理はない。

 そして、恐らくフェリアもウルスを悪しからず思っている。ウルスの家での夕食の席で、ヨルマが二人の仲に言及した際、彼女は始終無言だった。仮にフェリアにその気が無ければ、彼女の性格からして、何か言わずにはおられなかったはずだった。冗談めかせてはぐらかすなり、やんわり断るなり、いっそ話題を変えるなり。あの時フェリアが何も言わなかったのは、ウルスの反応を窺っていたからに違いない。

 ラグナの口から、また深い溜め息が漏れる。

 ヴァスティから離れていた八か月の間に、ラグナはすっかり取り残されてしまっていた。

 それというのも、全ては、選鉱場での事故で怪我人を助けるために、ブローム公の援助を受けたせいだった。あの時ラグナが、ウルスやヘリスト達の言うことに従ってさえおれば、こんなにも長い間ヴァスティを留守にする必要なぞなかったのに。後悔の念がラグナの胸に押し寄せる。

 だが、そうなれば、おそらくあの時怪我をしていた人間は、全員命を落としてしまっていただろう。近隣で一番の腕前を持つ癒やし手も、フェリアの母親も。そして、それを回避できる唯一の手段が、ラグナ自らがブローム公を頼ることだったのだ……。

 あの時、選鉱場で、フェリアは確かにラグナの名を呼んでくれていた。ラグナに向かって真っ直ぐ駆け寄ろうとしてくれていた。邪魔さえ入らなければ、ラグナはその腕の中にフェリアを迎え入れることができたはずだった。

 ラグナは思わず唇を噛んだ。

 ウルスは、まだ自分の気持ちをフェリアに伝えていないようだった。どうやらそれはフェリアも同様で、二人は、互いに手探りで相手との距離を測っているように見受けられた。

 ならば、と、ラグナはこぶしを握りしめた。ならば、二人の間に自分が入り込む余地は、まだ残されているのではないだろうか、と。

 恐らくは八か月前まで、フェリアから見てラグナとウルスは同じところに立っていた。いや、フェリアの髪のことを考えるならば、むしろウルスよりもラグナのほうがフェリアに近かったかもしれない。今はウルスに先んじられてはいるが、これから追い上げればいいだろう。押しの弱いウルスが競争相手なら、余程の悪手さえ打たなければ、勝てるのではないだろうか。

 そこまで考えて、ラグナは握りしめたこぶしをそっと開いた。勝とうと思えば、勝てるだろう。だが、……。

 傾き始めた太陽が、湖面を赤く染めてゆく。

 欄干に身をもたせかけながら、ラグナは、出口のない迷宮を彷徨い続けた。

 

 

 

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