8

 塀の内側に転げ落ちた。ぼうぼうに茂った草があなたの体を受け止める。


「申弥!」


 あなたは立ち上がった。草がちくちくと足を刺す。ざわざわ、と音を立てながら、建物が落とす影の中を進んだ。


「申弥!」


 ツタに覆われた洋館だった。緑の隙間から辛うじて、レンガ積みの壁とスレート屋根が窺える。


「申弥!」


 裏手から正面に回る。人の出入りがないのだろうか、門扉はツタに覆われている。庭の隅には、カシやシイが半ば林のように密集していた。


「申弥!」


 三毛猫、キジ猫、サビ猫、サバ猫、黒猫――緑の中に溶け込む野良猫たち。じゃれ合い、威嚇し合い、あるいは鳴き――しかし、申弥はいない。首輪がついた茶白の雄猫はいない。


「申弥……」


 あなたは猫と緑の中に立ち尽くした。茂みに縁どられた狭い空を、飛行機が横切っていく。離発着のラッシュがはじまる時間だった。耳慣れたはずの物音がやけに空々しく聞こえた。


 にゃあ。


 あなたはその声を聞き逃さなかった。


「申弥!」


 申弥はそこにいた。蔓に覆われた洋館の、薄暗い庭の隅。切り株の上で丸くなっている。


「申弥!」


 申弥は切り株から降りた。猫たちの間を縫って、こちらに向かって駆け寄ってくる。あなたはそれを迎え、抱え上げた。


「申弥ぁ。申弥ぁ……」


 柔らかな毛並み。太陽と緑の匂い。生命のぬくもり……家を出た間に、少し重くなったような気がした。念のために確認するが間違いなく申弥だ。ミサンガの首輪、前足の水玉模様、あまり雄らしくない小さな顔。


「心配したんだから」あなたは言った。「家に帰るよ」


 みゃあお


 申弥がぐずりだす。むかしから抱っこは苦手だった。


「自分で歩きたいの?」


 地面に下ろしてあげる。すると、申弥は洋館に向かって一直線に走り出した。壁面がツタに覆われているが、テラスに出る窓だけは屋根に守られ浸食を免れている。窓がわずかに開いており、申弥はその隙間に吸い込まれるようにして姿を消した。


「待って!」


 あなたは追いかけた。天井が高いのか、二階建てにしては大きな建物だった。距離感が狂わされる。騙し絵でも見ている気分だった。 


「申弥……」


 カーテンがわずかに揺れていた。その隙間からオレンジ色の光が漏れている。猫の鳴き声。飛び跳ねる音。それらを咎める声はない。


「あの、すみません」


 大声で呼びかけようとしたが、声が思ったように出なかった。当然のように返事はない。もう一度繰り返す。


「あの、すみません」


 返事はない。声を発する度に、身体ごとちいさくなっていくようだった。


「あの――」


 ゴオオオオオオオ


 離発着のラッシュが続く。あなたは言葉を切って、ふと足元を見下ろした。コートが膝を隠している。裾をめくると、膝の傷が剥き出しになっていた。スニーカーは片方が脱げている。どこで落としたのだろう。


 ゴオオオオオオオ


「夢なんだ」あなたはつぶやいた。「きっと何度も繰り返して見る夢なんだ。起きたら忘れちゃうような、うたかたの、はかない夢」


 ゴオオオオオオオ


「わたしはここで何度も申弥を見つけて、それで――」


 ゴオオオオオオオ


「だから、わたしはこの場所を知っている。だから、わたしはここに誘い込まれた」


 ゴオオオオオオオ


「毎晩、訪れてるから。これまでも、これからもずっと訪れ続けるから」


 ゴオオオオオオオ


「ねえ、そうだよね、申弥」


 ゴオオオオオオオ


 空が闇の軍勢に屈しつつあった。西方の撤退戦は、もう間もなく決着がつくだろう。半分だけの月が、決着を待ちかねたように東の空に顔を覗かせていた。


 ゴオオオオオオオ


「申弥」あなたは声を絞り出した。「ごめんね」


 ゴオオオオオオオ


「わたしが勉強ばっかりでさびしかったんだよね。でももう大丈夫だよ、明日で全部終わるから」


 ゴオオオオオオオ


「でもね、それでも外に出たいっていうんなら、いいよ。今度からたまに散歩に出してあげる。だから、ねえ、うちに帰ろう?」


 ゴオオオオオオオ


「お母さんだって、きっと心配してるよ」


 ゴオオオオオオオ


「お母さん、いまごろ職場だろうな。謝るのは明日になっちゃいそう」


 ゴオオオオオオオ


「でもきっと、この夢じゃもうお母さんには会えないんだよね」


 ゴオオオオオオオ


「カツ丼、食べたかったな」


 ゴオオオオオオオ


「お母さ――」


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

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