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 陽が傾きつつあった。春はまだ遠い。ときおり強い風が低層住宅地の細い道路を吹き抜け、肌を突き刺した。部屋着のまま飛び出してきたことを後悔する。路上で遊ぶ子供、話し込む主婦、散歩帰りの老人――奇異の視線を感じながら、猫がいそうな場所を見て回った。路地裏や植木鉢の隙間、塀や屋根の上、車の下……


「申弥ぁ」


 栄は昭和の香りが残る町だ。しかし、いたるところで道路の拡張工事や、民家の建て替えが行われている。それでも、駅前の商店街はむかしから活気にあふれ、このご時世でもシャッター通り化を免れていた。夕食時が近いせいだろう、買い出し中の主婦や子供の姿が目立つ。精肉店から揚げ物の香ばしい匂いが漂ってくる。財布はない。息を止めて走り抜けた。


「申弥ぁ。申弥ぁ」


 アーケードの入り口を通り過ぎ、商店街の裏通りに入った。ここも下町情緒が色濃い。曲がりくねった車道。緩やかな勾配。入り組んだ細い路地。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 診療所、コンビニ、和菓子屋、クリーニング店、公衆浴場、雀荘、居酒屋――民家と商業施設が混在する通りを抜けると、私鉄の路線にぶつかる。このあたりまで来ると、猫には遠すぎる距離だ。路線に沿って西に進み、自宅の方角へと引き換えすことにした。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 踏切の前で折れ曲がり、狭い車道に出た。商店街をぐるりと回り込んで引き返した格好だ。まっすぐに伸びた細い車道。歩道には黒い街路樹が並んでいる。公営住宅の敷地に目をやると、スズメたちがちょこまかと飛び跳ねていた。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 下町には猫が多い。狭く、曲がりくねった道が、車の侵入を妨げているのだ。三毛猫、トラ猫、サビ猫、サバ猫、黒猫――しかし、申弥はいない。首輪がついた茶白の雄猫はいない。


「申弥?」


 お寺の前で茶色い後姿を見つけた。すぐに角を折れて見えなくなる。あなたは追いかけた。路地裏と言っていいだろう、文化住宅と古い民家が軒を並べていた。道は、わずかにうねるようにして奥に伸びているが、猫の姿は見当たらない。


「申弥? 申弥?」


 文化住宅の手前で左に折れる道があった。覗き込むと空き地が続いており、正面は「安全第一」のフェンスに阻まれていた。ここからでは、左右に折れる道があるのかわからない。確かめるべきだろう。しかし、なぜか足がすくんだ。


『未亜?』


 記憶の中で、あなたは母に手を引かれている。視線の先には、野良猫がいて、あなたと目が合うと、路地裏に逃げ込んでしまう。とっさに追いかけようとするが、母はあなたの手を握ったまま動かない。


『お母さん、猫』


『こういうところは危ないのよ』


 いまとは別人のような口調だった。思い出して、少し驚く。


『どうして?』


『こういうじめじめした場所にはよくないものが棲みつくの』


 おそらく十年以上前の記憶だ。ここと同じ場所かどうかもわからない。どうして、急にこんなことを思い出したのかわからなかった。


 ガアガア


 カラスが頭上を飛び去って行く。あなたはフェンスを見つめたまま動けない。


 ガアガア ガアガア


 一歩、二歩と後じさりした。


 ガアガア ガアガア ガアガア


 強い風が路地裏を吹き抜けた。洗濯物だろうか、どこか近くで布が激しくなびく音が聞こえる。


 ガアガア ガアガア ガアガア ガアガア


 あなたは部屋着のまま飛び出してきたことを後悔した。


 ガアガア ガアガア ガアガア ガアガア ガアガア


 表通りに出ようというところで足がもつれ、そのまま倒れ込んだ。激痛。あなたは手をついて体を起こし――


『未亜?』


 痛みが呼び水となったのか、記憶がふたたび蘇る。野良猫――たしかオッドアイだった。目が合うと、路地裏へと逃げ込み――


「待っ――」


 しかし、あなたは立ち上がることができず、追いかけることができず――手をついたまま、四つん這いになったまま動けない。


「未亜?」


 呼びかけとともに自転車のブレーキ音が聞こえた。振り向くと、雄二が自転車を降りるところだった。夕日を背負っている。


「大丈夫か?」


「うん……」


 雄二の手を借りて立ち上がる。右膝が擦り剝けていた。


「何やってんだよ」


「猫……」


「申弥のことか? あいにくと、まだ見つかってないよ」


 あなたは膝から目を上げた。路地裏の方を振り向いて、それから雄二と目を合わせる。灯油巡回販売サービスの車が近くを回っているらしい。「雪やこんこん」ののんきなメロディがやけに懐かしく思えた。


「そう」

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