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『申弥ぁ?』母は言った。『起きてから見てへんけど』


 それだけ言ってテープ起こしの作業に戻ろうとするので、慌てて引き留めた。


『そんなわけないでしょ』あなたは言った。『わたしが家を出るときは、たしかにいたのに』


 そのとき、母は居間の布団で寝ていた。今月は、雇われ店長をやっているコンビニで夜勤のシフトに入っていた。


『かんかん声でわめきなさんなって』母は言った。ずり落ちた老眼鏡を指で直し、小声で続ける。『お隣がうるさいのを忘れたわけやないやろ』


 ハイツ住谷の壁は、ウエハースのように薄かった。テープ起こしの打鍵音にも苦情が来たことがある。母は作業机を反対側の壁際に移さなくてはならなかった。


『発情期やからね』母は言った。『申弥も雄やし、雌猫が甘えた声でにゃんにゃん鳴いてれば、ふらっと飛び出したくもなるやろ』


『去勢してるの忘れたの?』


『なら、散歩でもしてるんやろ。腹ペコになったら帰ってくるわ』この話はおしまいとばかりに、母は手をぱんと叩いた。『それより、何か忘れてへん? 受験生さん。やることやりや。明日になって、後悔したくあらへんやろ?』


『お母さんががっかりしたくないんでしょ』あなたは小声で言った。


『何? お母さん、もうイヤホンつけてもうた。そんなか細い声じゃ聞こえへんよ』


『もういい』


 あなたは母に背を向けた。視線の先にあるのは、五畳半の和室――素晴らしきわが子供部屋だ。教科書、ノートが収まったカラーボックス。勉強机がわりのこたつ。折りたたまれた布団。い草のカーペット。猫のトイレと段ボールのキャットタワー。


『そうそう』母は慰めるように言った。『今夜はカツ丼にしようと思ってんねん。お店の売れ残りやなくて、ちゃあんと、お母さんの手作りやからね』


『そんなので喜ぶほど子供じゃない』


『何、拗ねてんの』母は言った。『ホント、子供なんやから』


『子供じゃないってば!』あなたは怒鳴った。間髪入れず、隣人が壁を叩く音がした。


 ドンドン


『しいっ』母は子供をたしなめるように言った。それから、小声で続ける。『まったく、あのママさん、壁に張りついてるんとちゃう』


『お母さんは、申弥がいなくなってもどうだっていいんだ』


『大袈裟やなあ』母は言った。『申弥もいまごろ、よその猫に相談してるとこなんちゃう。飼い主の女の子が過保護で困るって。ほら、お店までの道中にガラガラの駐車場があるやろ。あそこでよく猫が井戸端会議してるのを見かけんねん』


『申弥は家を出たことなんてなかったんだよ!』


 ドンドン


『騒がしくてどうも』母は声を張り上げた。それから、あなたに向かって、『元は野良やろ。こんな狭い部屋じゃ、猫だって息がつまるってもんやって。たまには外に出してあげても――』


『お母さんが逃がしたの!?』


 ドンドン


『揚げ足をとるもんやないよ』それから、どちらにともなく、『ああ、もうやかましい!』


 ドンドン


『お母さんはわかってない!』あなたは叫んだ。『申弥はわたしの弟なんだよ!』


 ドン!


『あんた、まだそんなこと――』母は言葉を切った。『ちょっと、未亜。どこ行くん』


 あなたはスニーカーをつっかけながら言った。『申弥を探しに行く』


『入試はどうなんの』母は言った。『お母さんを失望させる気? たった一人の家族を?』


『申弥だって家族だもん!』


 あなたはドアを叩きつけた。


 ドン!

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