2
『申弥ぁ?』母は言った。『起きてから見てへんけど』
それだけ言ってテープ起こしの作業に戻ろうとするので、慌てて引き留めた。
『そんなわけないでしょ』あなたは言った。『わたしが家を出るときは、たしかにいたのに』
そのとき、母は居間の布団で寝ていた。今月は、雇われ店長をやっているコンビニで夜勤のシフトに入っていた。
『かんかん声でわめきなさんなって』母は言った。ずり落ちた老眼鏡を指で直し、小声で続ける。『お隣がうるさいのを忘れたわけやないやろ』
ハイツ住谷の壁は、ウエハースのように薄かった。テープ起こしの打鍵音にも苦情が来たことがある。母は作業机を反対側の壁際に移さなくてはならなかった。
『発情期やからね』母は言った。『申弥も雄やし、雌猫が甘えた声でにゃんにゃん鳴いてれば、ふらっと飛び出したくもなるやろ』
『去勢してるの忘れたの?』
『なら、散歩でもしてるんやろ。腹ペコになったら帰ってくるわ』この話はおしまいとばかりに、母は手をぱんと叩いた。『それより、何か忘れてへん? 受験生さん。やることやりや。明日になって、後悔したくあらへんやろ?』
『お母さんががっかりしたくないんでしょ』あなたは小声で言った。
『何? お母さん、もうイヤホンつけてもうた。そんなか細い声じゃ聞こえへんよ』
『もういい』
あなたは母に背を向けた。視線の先にあるのは、五畳半の和室――素晴らしきわが子供部屋だ。教科書、ノートが収まったカラーボックス。勉強机がわりのこたつ。折りたたまれた布団。い草のカーペット。猫のトイレと段ボールのキャットタワー。
『そうそう』母は慰めるように言った。『今夜はカツ丼にしようと思ってんねん。お店の売れ残りやなくて、ちゃあんと、お母さんの手作りやからね』
『そんなので喜ぶほど子供じゃない』
『何、拗ねてんの』母は言った。『ホント、子供なんやから』
『子供じゃないってば!』あなたは怒鳴った。間髪入れず、隣人が壁を叩く音がした。
ドンドン
『しいっ』母は子供をたしなめるように言った。それから、小声で続ける。『まったく、あのママさん、壁に張りついてるんとちゃう』
『お母さんは、申弥がいなくなってもどうだっていいんだ』
『大袈裟やなあ』母は言った。『申弥もいまごろ、よその猫に相談してるとこなんちゃう。飼い主の女の子が過保護で困るって。ほら、お店までの道中にガラガラの駐車場があるやろ。あそこでよく猫が井戸端会議してるのを見かけんねん』
『申弥は家を出たことなんてなかったんだよ!』
ドンドン
『騒がしくてどうも』母は声を張り上げた。それから、あなたに向かって、『元は野良やろ。こんな狭い部屋じゃ、猫だって息がつまるってもんやって。たまには外に出してあげても――』
『お母さんが逃がしたの!?』
ドンドン
『揚げ足をとるもんやないよ』それから、どちらにともなく、『ああ、もうやかましい!』
ドンドン
『お母さんはわかってない!』あなたは叫んだ。『申弥はわたしの弟なんだよ!』
ドン!
『あんた、まだそんなこと――』母は言葉を切った。『ちょっと、未亜。どこ行くん』
あなたはスニーカーをつっかけながら言った。『申弥を探しに行く』
『入試はどうなんの』母は言った。『お母さんを失望させる気? たった一人の家族を?』
『申弥だって家族だもん!』
あなたはドアを叩きつけた。
ドン!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます