六十九:刑吏の剣

 医院を出て早々街中と月の原を私用トラックで爆走し、オンケルを抱えて受入所に飛び込んできた人足に対し、ゾンネ墓地の守長もりおさは怒ることもなく穏やかに迎え入れた。

 半覚醒状態の駅長を書斎の寝台ベッドへ放り込み、すっかり青黒く腫れたエアーズの右手を簡単に診て、話を聞きながら氷嚢で冷やし添え木を当てる。そんな治療の所作一つ一つにいちいち痛がりつつも、勢いのままに喋りたくる人足の言葉に意識を寄せながら、クロイツは妙に慣れた手付きで添え木の上から包帯を巻き、ほつれ止めの手袋を被せた。

 エアーズも丁度良く事情説明を終え、関心半分労わり半分に固められた手を摩りつつ、扇風機の翅を作動。バリバリとけたたましく回る様をそれとなく観察しながら、守長は二人分の紅茶を淹れ、ソファの背にゆっくりと身を預ける。


「葬儀屋――トートのことだろうが、彼は此処には戻って来ないよ。昨日の時点で還ってしまった」

「還っ、え? マジ?」

「元々その日に還るつもりで生きていたそうだ。あまり言いたくないような風だったものでね、私から敢えて事情を聞いたり引き留めたりはしなかった。だが、彼の力自体は必要なんだろう?」

「えっあぁ、うん。正直言って、そのまま葬式に出したら恨まれそうだしな。あいつが還っちまうなんて信じたくないけど……」


 がっくりと肩を落として告げるエアーズに対し、流石の死の番人と言うべきか。クロイツはいささかの動揺も示すことなく、首から上に鎮座する十字架の中心、几帳面に留められた石を親指で静かに撫でつける。少しばかりの思案を挟み、やおら視線を自身の膝から青年の頭に上げて、彼が報せるのはある種の吉報。

 葬儀屋トートの代わりを出来る物ならばいる。その言葉にエアーズは縋るような視線を向け、臆することなく言葉が並んだ。


「今はトートの方に付いているが、戻り次第フリードと――ビヘッドに任せよう。どちらも死化粧エンバーミングの資格持ちだからね」

「フリードは分かるけど、ビヘッドが?」

「嗚呼。表に出てこないだけで、彼は私と一緒にこの墓地を立ち上げた物だ。必要なことは一通り知っているし、実践できるだけの腕もある。シズの葬儀も、責任はトートが負っていたが、実際にあの体裁を整えたのは彼だよ」

「ふぅん……?」


 半信半疑に腕を組みかけ、走った痛みに慌てて解き。手持ち無沙汰にソファへ背を沈めながら、エアーズは首を傾げた。

 ビヘッド。此処ゾンネ墓地の二階、部外者の何人なんぴとも出入りを許されない倉庫に住まう、四人目の墓守。トートが葬儀を進行する役を負い、フリードが墓を維持する任を帯びるならば、ビヘッドはさながら彼等を守る剣だ。実際に仕事をしている所を目撃したことは、恐らくは墓地の幸いとしてまだ無いが、危うい状況になって上から降りてきた彼を見たことはある。

 その姿は、一言で言えば神父服に身を包んだ傭兵と言った具合。あのフリッカーよりも尚高い上背に隆々の体躯、おまけに両手は指が欠け、手首と足首には何故か枷まで掛けられていた。そんな状態の物に、あの細っこい葬儀屋トートと同じ真似が出来ると言われても、エアーズにはいささか信じがたい。

 しかし――


「あんたがそう言うなら本当なんだろうな」

「おや、随分信用してくれるね」

「これでも俺ァトラックの運ちゃんだぜ。観察力がなくてやれるほど甘い仕事じゃねぇのさ」


 クロイツは、人柄を評するのに虚偽も誇張も使わない。そのことは長い付き合いの中で実感していることである。そして、今この場でその実感を裏切るような物でもない。

 ならば、彼が信頼に値する評した人物は、やはり応えるだけの何かを持っているのだ。それを疑うほど、エアーズは自分が鈍い物だと卑下するつもりはなかった。ついでに言えば、自分が生きてきた年数よりも長い付き合いの朋友に対して、その不誠実を疑い不興を買うこともないだろう。


「そんじゃ、宜しく頼むな。俺シンシャのこと捕まえて来るからさ」

「シンシャを? 確かにファーマシーとは仲が良さそうだったが、葬儀の前から呼んでしまうのかね」

「オンケルは――まだあれが助けられると思ってんだよ。まともに還れるようにしてやれるって、本気で思ってるんだよ。……俺だって、そう信じてぇんだよ……」


 涙声で呻き、もぎ取る勢いで頭を抱えながら俯くエアーズ。その様子をただ見守るクロイツは、一体何を考えていたのか。

 ゆったりとした所作でガラステーブルの上の陶杯に手を伸ばし、まだ湯気の立つ紅茶を一口啜って、守長は静かに言葉を紡ぐ。


「シンシャを呼び寄せれば良いんだね?」

「へ? あぁ、うん……あ、もしや」

「そのもしやだろうが、君が現地へ行くより彼の方から来てもらった方が、恐らく双方の負担が軽くていいだろう。薬店の番号は知っているから、私の方で連絡を入れておくよ。君は少し休みなさい」

「えっいや、そんなことまであんたには」

「その手でトラックを運転する気かね? ただでさえ親友が死にそうで動揺していると言うのに、そんな状態では事故を起こすよ」

「ぅぐう」


 そう言われてしまうと抗弁のしようもない。言葉に詰まり、それでも負け惜しみのように扇風機の翅を鳴らす。部屋中に響く騒音にクロイツが鬱陶しがったのも束の間、守長はやおら身に纏う法衣カソックのポケットから古びた鐘型の呼び鈴を取り出すと、二階の方へ視線を送りながら二度音を響かせた。

 りん、琳、と。燻んだ見た目からは考え難い、高く澄んだ音が受入所の空気を揺らし、余韻がゆっくりと尾を引きながら消えてゆく。後に残るのは奇妙な緊張感を帯びた静謐と、それから。

 ぎしり、ぎしりと階段を軋ませる重い足音。

 そこに時折混じる、じゃらり、と鎖の鳴く音。

 そして。


「どうした、クロイツ」


 掠れた、しかし恐ろしく威圧的な、低い男の声。

 長く聞いて慣れているせいであろう、クロイツはさも平気そうに構えているが、エアーズの方はたまったものではない。ひとを何人殺せばそんな色が出せるのかと、そう思わず問いたくなるような薄く鋭い気配に、人足は知らずのうちにだらだらと冷や汗を垂らす羽目になった。

 そうと当の本人は気付いているのか否か、声の主はゆったりとした歩調で古い木床を軋ませ、客人の方を一顧だにせずクロイツの傍まで歩み寄り、勧められたソファには掛けずに、義足の彼の斜め後ろに立つ。朋友同士、と言うよりは主従の関係に近そうな立ち位置に、何か言いたそうな雰囲気を醸しながらそわそわするエアーズをちらと見て、守長は微かに苦く笑ってみせた。


「知っているだろうが、一応紹介しておこう。ゾンネ墓地の墓守、名をビヘッドだ。客人の前で寛げる性格ではなくてね、少々の無礼は許してほしい」

「嗚呼いや、いいんだけどさ。その……」


 おずおずと巨漢を見上げる。

 人で言えば四十代後半から五十代前半、だと言うのに衰えを知らない隆々の体躯。悠然と前に降ろされた腕には太い鎖の枷が掛けられ、極め付けは断頭されたような滑面かつめんを晒す首の上に納められた、ぼろぼろの鉄剣。着込んだ清潔な法衣カソック外套クロークで墓守と主張しているものの、剣の柄から垂れ下がる血で汚れた布と言い、人差し指や薬指の欠けた両手と言い、何より隠しようもなく滲む死の気配と言い、凄絶な戦場いくさばを嫌でも想起させる見た目だ。

 一度は納得したものの、実物を見るとやはり疑いたくなってしまう。彼からはどうしても、死者を清める側ではなく、死者を作り出し切り刻む側の臭いがしてしようがない。だからと言って頭ごなしに否定も出来ず、エアーズは言葉を探す余裕もなく沈黙してしまった。

 妙な沈黙が三者の間に横たわり、クロイツのやや大仰な咳払いがそれを打ち払う。続けて一度柏手を打ち、その音に無言で意識を寄せたビヘッドに、守長はわざとらしく頭の螺鈿細工を撫でつけながら声をかけた。


「あー、ビヘッド。シズの件が片付いたばかりですまないが、またお前に仕事を頼むよ。状況は後から説明するが、フリードと一緒にやってくれるかね」

「状況からして変死遺体に対する衛生保全エンバーミングが必要になるだろうが、そのまま進めて構わないか? 或いは、司法の判断を仰ぐべき案件になるか?」

「まだ何とも言い難いが、恐らくはならない。なったとしても血を抜く程度で終わるだろう」

「承知した」


 やり取りは至極簡潔に。

 小さな首肯と同時に、ビヘッドのあたまの柄頭に下がる赤い房飾りが揺れる。剣と同じく年季の入ったそれは、烈しい実戦の中で付いた傷にはあまりそぐわない、何処か少女趣味的な素朴さと可憐さがあった。それに、およそ名剣とは言い難い分厚さ――力一杯叩きつけて切ることを用途とした刃の無骨さにも見合っていない。

 じろじろとエアーズが眺めていると、墓守の視線が這うように右手を睨め付けてくる。咄嗟に左手で覆い隠すものの、感情の分からないその視線が剥がれることはなし。いっそ背の後ろにでも隠してしまおうと、そろそろ腕を動かす人足に、ビヘッドは冷淡にも思えるほど静かな声を投げた。


「その怪我は何だ?」

「まあ、ちょっと、医者を殴って。瓶なんか殴るもんじゃねぇよな」

医師ファーマシーを殴るような事があったか」

「俺の大親友を酷い目に遭わせてた。あの時は……いっそ、殺してもいいと思ったくらいに」

「ふぅん」


 納得したのか鼻で笑われたのか、いささか判別しにくい声が一つ。何だよ、と苛立ちを込めて見上げる人足の視線を、男は傲然とさえ思える佇まいで待ち受ける。

 思わず気圧され、黙り込んだ客人を見つめながら、ビヘッドはじゃらりと鎖を鳴らしながら自身の手首を軽く握り、僅かに首を傾げて沈黙。奇妙な緊張感が漂う中、もう一度何事かと尋ねかけたエアーズを遮って、墓守の低く掠れた声が響く。


「貴方は死者とどう向き合う」

「へ? えっ、俺? え、えっと……」


 助けを求めて視線を送るも、ビヘッドはあくまで沈黙したまま。普段なら助け舟を出してくれるクロイツの方も、何故やら黙して語ろうとしない。

 答えを、待たれている。そのことに思い至って、しかしエアーズは二の足を踏んだ。

 彼等が今自分に求めている答えとは、即ち死者をどう清め、どう整えるべきか、その算段を立てる基礎だ。自分の希望、或いは取り残されたものの欲望が、そのまま彼等の行動指針となる。そのような重大事に、親友テリーの葬儀という恐ろしく責の重い儀礼に、果たして軽薄な身の上の己が中心として関わってもいいのか。

 分からない。欲望自体はあるが、吐き出していいのか分からない。悶々としてエアーズはソファに身を投げ捨て、バリバリとけたたましく扇風機を掻き鳴らしては、墓守に殺気立った視線を投げ付けられ慌てて止めた。

 そうして静かになった室内を、そぞろに見回す。板張りの床に毛足の長い絨毯、高級そうな革のソファ、ガラスのテーブルには白磁のティーセット。白い天井からは華奢なステンドグラスのランプが下がり、手元に暖色の光を落としている。部屋の隅には観葉植物みどりが少しと、年を経て艶やかな年季を刻んだ飾り棚。棚の上には、男ばかりの墓地にはあまり似つかわしくない、瀟洒な銀の香炉と同じく銀の燭台が飾ってある。燻されたような色からして実用品なのかもしれないが、ともあれ繊細な細工が垣間見える品だ。

 あれを輸送しろと言われたら相当気を使うだろうと、人足らしくも今の悩みとは無縁の考え事を少し。その内に話を突然振られた動揺が過ぎ、冷静にものを考える余裕が出てきた。


「なあ、ビヘッド」

「何か」

「俺、そんなに頼もしく見える?」


 軽く尋ねてみる。あまり深刻に聞いても、二人の眼力を疑うようで却って気まずいだろう。

 対する墓守はあくまでも真面目だ。


「友人の為に心身を削れる物が頼もしくなければ、物は全員軟弱物ということになるな」

「まあ、うん……えっと、仮にあいつにもっと頼もしい友達がいたとしても、俺でいいのか?」


 おずおずと投げたのは、抱える不安の核心。

 つまるところ、この親友からの評価に対する自信に乏しい青年は、確固たる根拠を以って背を押してもらいたいだけなのだ。言いたいことが無いのでも見つからないのでもなく、言いたいことが言ってもいいことなのだと言う言質げんちが欲しいのだ。

 そのことを悟ってか否か、墓守はあくまで生真面目に、茶化すことも怒ることもなく答えた。


「今この席に、医師を殴りつけてまで座ったのは貴方だ。かのものに関係する他のものがどれほど優れていようとも、関係はない。ことこの場に於いて最も信頼に値するのは貴方だけだ。貴方以外を探す気はなく、後から来たとしても聞くことはない」

「そっ、か。じゃ、決めて、いいんだな」

「嗚呼」


 取り立てて強い感慨もなく、ビヘッドは頷く。

 その拍子にまた房飾りが揺れ、エアーズはそれに一瞬気を取られながらも、心の中で練り上げていた言葉を男にぶつけた。


「生きてた時と全く同じように、出来るならどっちも。あんまりこう、切り刻んだり、塗りたくったりしないで欲しい」

?」

「うん、……多分テリーもファーマシーも、どっちも死んじまうから。俺にとっては憎たらしい相手だけど、テリーからすれば親友だし。それならどっちも、ちゃんとしてた方が良いだろ」


 対するビヘッドは、無反応。それらしい哀れさや納得の感情のかけらも見せず、ただ染み入るように言葉を噛み締めて、それからまた一つ点頭した。


「承知した。そのように場を整えよう」

「ん、あんがと。頼むぜ」

あい。では、葬儀で」


 トートの寡黙さとはまた違う、言い捨てるような愛想のなさ。どこか投げやりにも思える態度に、エアーズは少しばかりカチンと来て、半ば捨て台詞の体を成した声を放つ。

 俺は客だぞ、と。下手に言い放てば厄介物クレーマーと言われて放り出されかねない横柄な物言いを、しかしてビヘッドは静かに受け止めた。


「客人だからどうした。私に何かして欲しいことがこれ以上あるのか? 要望は先程聞いた」

「ゔ……いや、もっと愛想良くたっていいだろ」

「愛想などと今更の指摘を。私にとっては死者も生者も等しく技術を振るう相手に過ぎない」

「そうかもしれんけど、だからってな」

さえずるな」


 空気が、その時凍りついた。

 そして、思い知る。

 今こうして、彼が普通に話しているのは、客人におもんばかって合わせているだけなのだと。


「……っ!」


 尚も言葉の溢れそうな喉を、エアーズは咄嗟に手で押さえた。一方のビヘッドは一顧だにせず、あちゃあとばかり頭を抱えるクロイツの傍を離れる。そのまま部屋を辞そうとして、木床を軋ませながら歩み寄った墓守は、人足とすれ違いざまに呻いた。


「要らぬことまで根掘り葉掘り、正常性から半歩踏み出せば指摘の名を借り愚痴愚痴ぐちぐちと詰る。これだから生者は嫌いだ。私の数百年を、死者と血臭が作り上げた私を、何処の誰が変えられると言う気だ」

「……ごめんって」

「叱られて謝る程度の軟弱さで図々しく人のさがに踏み込むな。私は貴方と仲良しこよしになる気も無ければ、たがと枷が外れた時に手を掛けぬよう躾けられてもいない」

「うぅ……」

「ふん」


 今度ははっきりと侮蔑を込めて、ビヘッドは一笑し。何も言い返せない人足と何も言い返さない守長を置いて、来た時よりも急いた足取りで応接間を出て行ってしまう。後に横たわるのは沈黙ばかり。

 それをようやく打ち払うのは、痛みを堪えるように頭へ当てていた手を下ろした、クロイツの弁解である。あまり憎たらしく思わないでやってほしいと、中々の無理難題から話を切り出して、彼はいささか話しにくそうに言葉を紡ぎあげた。


「人と話すこと自体が死ぬほど嫌だとか、そう言う訳ではないんだがね。自分の間合いパーソナルスペースに踏み入られるのが極端に苦手なんだ。それでいて穏便に会話を避けられるほど器用でもない。もう少し早く止めていればよかったね」

「いや……まあ、いちゃもん付けたのは俺だし良いんだけどさ。怖い兄さんだな、あのひと」


 深々と腰を折るクロイツを留めさせつつ、ぼすっと勢いよくソファに背を投げ出して、エアーズは疲れた声でぼやく。ばりり、と少しだけ扇風機の翅を回し、軋む音に構わず首を回して足元を見つめ、そのまま黙り込んだ青年に、守長は申し訳ないとまた一度腰を折った。

 黒い十字架の中心、几帳面に石留めされた煌めく石を、胼胝たこと傷の目立つ手で軽く撫で付ける。その所作に意味はあるのか否か、人足が感情を読みかねている間に、彼は右手のペン胼胝を隠すように左手で包んだかと思うと、陽光の射す窓の方へ視線をずらした。


「彼は私などより余程敬虔な宗教者なんだがね。それ以上に無神論者だ。その上傭兵として生きすぎて、すっかり精神が荒んでしまった。あれでも随分落ち着いた方だよ」

「ん、んん? 神父サマで無神論者で、傭兵? 何かややこしいな」

「元は刑吏けいりの剣だとも聞いているよ」

「……どうしようもねぇな」


 どのような信仰を得たのかはともかく、宗教のほとんどは殺生を禁じている。その戒律を破り、戦場を渡り歩いてひとを殺傷し続けたならば、それは確かに心を病んでもおかしくないのかもしれない。しかも、信仰がありながら神は信じていないなどという特大の矛盾まで抱えていては、正気を保っている方が難しい。

 しかしそれでも、彼は何かを殺す以外の生き方を選べなかったのだろう。己が刑吏の――刑即ち斬首刑、つまりは首切り役人の――剣として生まれついたが故に。人の首を切る役目を、物として動き出すほどにまで長く濃密に果たした剣ならば、生まれ落ちたその身に宿るのは人の首と命を断つ技術に他ならない。

 道理を踏み外したり狂気に陥ったり、とかく精神を病むような物は、往々にして歪んだ過去や性質を持つ。それは若輩者のエアーズも知るところだ。しかしビヘッドは、今まで見てきた物達の中でも特大の歪みを抱えている。それが無理に日常へ埋没しようとしたならば、ああなってしまうのも無理はないのやもしれぬ。

 ふぅ――と。重く長い溜息が、エアーズの肺腑から漏れ落ちた。


「なんかもー、どっと疲れた……」

「だろうね。とこを貸そうか?」

「此処でいい……」


 杖をつきつき立ち上がろうとするクロイツへは適当な返答、ずるずると身体を横に倒し、ふかふかとしたソファへ中途半端にうつぶせる。途端、ずっと張り詰めていた緊張感が一気に緩み、沈み込むような眠気が襲ってきた。

 ぎぃ、と木の床が軋むのは誰の脚によるものか。思い馳せることもなく、エアーズの意識は沼へ引きずり込まれるように闇へ落ちていく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る