七十:残滓

 朋友達の離別より、時は二日遡り。

 老探偵が駅長へ別れを告げた同日。


「そこな少女よ、起きたまえ」

「んぁ」

「起きぬか物殺し!」

「ひゃいっ!」


 寝起きの悪い付き人と徹夜で絵の仕上げをしていたクロッキーを引っ立て、強面の父親から呼び出しを喰らったと言う良家のお嬢様プラムと名残を惜しみつつも別れ、贅沢にも一等席を取って始発の汽車に飛び乗り。朝の五時半から汽車に揺られることおよそ四時間、ふかふかの座席に埋もれて仮眠を取っていたアザレア一行は、呆れたような少年の声によって目を覚ました。

 いつからか掛けられていた古布を跳ね除けながら上体を起こせば、一等席として区切られた広い個室の内側、各々の荷物や上着が掛けられている板張りの壁に、軍服を纏う少年が寄り掛かっている。その頭は人間のものならず、海松色みるいろの表紙に銀の箔押しがなされたおんぼろの辞書。頭の年季の入りようと年恰好が全く相関していないが、今はそれを疑問に思う段ではない。

 寝ぼけ眼を擦り擦り、ずっと頭の下敷きにしていた髪を手で梳きながら、ぷんすかと腕を組む少年を見上げるアザレア。一方の辞書頭の彼はと言えば、身動ぎ一つせずに熟睡している男どもを、早く起きろと言わんばかりの威圧を込めて見下している。

 どのような経緯で絡まれることになったのか、アザレアに心当たりはない。それ故に、問う声は自然と警戒を交えたものとなった。


「えと、どなた様……? 私アザレアだけど……」

「む、そう言えば貴君きくんとは初対面であったな。我輩は大日揚帝國だいにっちょうていこく陸軍中尉のモールディと言う物で――ではない馬鹿者! こんなこと悠長に言っとる場合か! 月の原ぞ此処は! 先程から葬儀屋トートが突っ立って待っておるが!」

「えっ?」


 確か、トートとは朝の十時に物の街で落ち合う約束だったはずなのだが。予定変更でもあったのだろうか、と素朴な疑問に首を傾げかけた物殺しに対して、モールディは良いから降りろ事情は後だの一点張り。アザレアの肩に引っかかった古い布、もとい軍服の肩に掛けるマントを引っ張って奪い取ろうとしながら、早く席を立てとせっついてくる。

 その内に寝こけていた付き人キーン絵描きクロッキーも起き出し、少年兵はここぞとばかりにおろおろする少女を引っ立てて、寝起きの男達共々車内から飛び出した。

 快速待ちの為に停車していた古い汽車、その扉がアナウンスと同時に閉まったのは、彼女達が出て程なくしてのことである。


「はー間に合った間に合った。あのままでは行き違いになるところであったな」

「えーっと、モールディ……くん?」

「我輩を子供扱いするでない!」

「じゃあモールディ中尉。私達、トートさんとナナシ駅で落ち合う約束だったんだけど」

「敬意を払うか払わぬかはっきりせい貴様……まあいい。その葬儀屋との約束が反故されたから我輩がおるのではないか。何でもそこの絵師の少年、其奴の親が公安から戻ってきたとな」


 ぴしりと指差し、視線を向ける先には露骨に緊張して肩を強張らせるクロッキー。

 そう言えば、名家で世話になったとき、元廃物ビジョンの描かれたスケッチブックを見せられながらそんなことも説明された。その時は自身に降りかかった出来事への衝撃が大きすぎて、聞いて理解もしたし共感もしたが上の空だったことは否めない。乙女の強姦未遂が誰かの死よりも衝撃的だった、などとアザレアには口が裂けても言えないが、それだけに話半分で聞いていたことへの罪悪感が募る。

 しかして、モールディにその辺りの機微を構う優しさはないらしい。一行をその場に置き去り、少し離れた所に立っていたトートを問答無用で引っ張ってくると、ほれ、と無責任な声を投げて男を突き出してきた。


「やることはやったぞ、葬儀屋。後は知らん」

「嗚呼」


 トートの方は、相変わらずの無口。引っ張られても逆らわず静かに従い、手をひらひら振って歩き去ろうとする少年兵の背中へ、丁重に腰を折って敬礼する。そして、物言いたげに佇む物殺し達にも同じように深々と頭を下げると、何も言わずに駅の出入り口へ向かって踵を返した。

 付いて来い、とでも言いたげに刹那振り返り、また歩き出す。仕方なく、寝起きの男どもと肩を竦めあってから追従すれば、トートはふと気付いたように歩速を緩めてアザレアの隣に並んだ。

 いい加減月の原は一人で歩けるようになった、と苦笑しつつ言うものの、どうやら道案内を意図したことではないらしい。白檀の香り漂う死装束の前、風などでずり落ちないよう留める赤い組紐を指に巻きつけながら、彼はそっと添えるように切り出す。


「健脚か?」

「へっ? けんきゃく……えっと?」

「長歩きは出来るかと言うことだ、アザレア」


 突然の問いに戸惑う主へ、すかさず付き人のフォロー。そう言う意味なのか、と、古風な単語の意味を初めて知った新鮮さに目を瞬きつつも、物殺しは物殺しらしい冷静さと打算を以って回答する。


「ちょっとゆっくりペースで良ければ、山登りくらいは出来ます。これでも脚には自信ありますから」

「ならば良い」

「でもどうして?」

「オレの目的地が山の中腹にある」


 さらりと宣われ、しかしてアザレアも大袈裟に驚きはしない。なるほど、と薄い笑みと共に小さく頷き、それ以上深掘りすることも反駁することもせずに、黙々と歩く葬儀屋と肩を並べる。

 そんな彼等の後ろについて歩きながら、クロッキーとキーンはそれとなく視線を合わせ、どちらからともなく会話の口火を切った。


「山の中腹って、変に中途半端だよね。普通頂上でしょ、何か用事あるって」

「そうだな。故に予想が付く」

「知ってるの?」

「アーミラリがそれに関する写真と推測を持っている。俺もそれを持たされて“起こされ”た。だが、その写真が撮られたのは彼が所持している一枚きり、推測も何か根拠があるわけではない。……お前に話しても構わないが、実際に見た方が良かろう」


 付き人にしては妙に迂遠な気遣いであった。満身創痍で死にかけていたクロッキーにもう少しだけ生きていようと思わせた、何ものをも斬り伏せてゆくあの鋭さが、今に限ってなりを潜めている。この包丁頭の男は、妙な憐憫や躊躇で言葉を濁すほど軟弱ではないと言うのに。

 などと、不審に思う心は奥底へ。クロッキーは純粋に疑問だけを述べる。


「どうして?」

「お前が絵師だからだ」

「どう言うこと?」

「見れば分かる」


 核心はやはり教えてもらえない。これでは先にあるものが気になって、所有者ちちおやの葬儀を終えたら還るなどとはとても言い切れるものではなくなってしまった。確かに己は最早存在意義の尽きた物であろうが、一端に好奇心や執着心は残っているものだ。

 むうと唸り、焼け焦げた頭の角を撫ぜるクロッキーから、キーンはふいと視線を外した。



 トートを先立、キーンを殿しんがりに置いた一行が歩くこと十五分。

 その間にアザレア達は、キーンの曰く「この荒野が出来る原因になった戦争で滅び、それ以降手付かずとなっている前線の街」の大通りを突っ切り、倒壊寸前の廃墟の横を通り抜け、崩れ去て小山と化した煉瓦の壁を乗り越えた。ぼろぼろに風化した壁の向こうには、もう何度も見た荒野月の原が無尽とばかり広がっては、吹く風に僅か砂塵を巻き上げる。

 ゾンネ墓地の受入所は、そんな廃街はいがいの程近く。月の原を遠く眺めるかのような佇まいで、死者の弔いに訪れるもの達を静かに迎え入れるのであった。

 そして今、ゾンネ墓地の表では、総勢六人の小さな葬儀が挙げられようとしている。

 模様と称して可能な限り肉抜きされ、燃えやすいようにと油を染み込ませた木棺の中には男が一人。簡素だが清潔な衣服を着せられ、胸の前で組んだ手に木の数珠を持たされ、顔に白い布を掛けられた状態で横たえられているのは、紛れもなくクロッキーの元所有者おやである。

 死者の顔を見ていいのは、その肉親と死の番人のみ。そんな異世界の掟に従って、物殺しとその付き人は棺から数歩距離を取り、かの男の分け身たる物の背を見守っていた。

 棺の中を覗き、傍に控える墓守の許可を得て、未だ包帯の取れぬ手で白布をそっと取り除ける。その奥にいかなる表情が待ち受けていたのか、クロッキーは何も言わず、泣きもせず、ただただ縋るように男の頰へ手を添えるばかり。

 長い、長い静謐が落ちて、アザレアの声でゆるりと打ち払われた。


「……ケイさん」

「どうした」

「物って、所有者おやならどんな人でも無条件で慕うものなんですかね」


 それは、この世界に招かれてから抱き続けた、ほんの素朴な疑問であった。

 アザレアは物殺しである。人を模し人のように生きるものを、許された行為とは言え殺すことに戸惑い躊躇ったことは多々あれど、決して無知のままでいたわけではない。況してや、彼女は人の街へ来るまで、物ばかりが身を寄せ合い暮らす街に間借りしていたのだ。暇があればその住人達の間を訪ね歩き、時には御伽噺を聞き、時には昔話を聞いてきた。

 その中で、物達が己の所有者に負の感情を向けたことは、少なくともアザレアが出会った中では一度もない。彼等は一様に所有者へ家族への思慕かき人への恋慕か、程度の差はあれど好意的な感情を語る。そして、正の感情を向けることと、彼等が綴る経歴の穏やかさは、多くの場合で相関しなかった。

 彼等は常に親を慕っていた。仮令、そのせいで心身を壊すほどの苦境に落とされようとも。

 それが、アザレアには、理解できないのだ。


「ふむ……確かに、そうだな。苦手意識を持つことはあれど、憎むほどのことはない。長寿の物には際立った感情を持たない物もいるが、恨み辛みを抱えていると言うのは聞いたことがないな」

「どうしてでしょうか。私なら絶対やり返すのに」

「俺達にとって親は全てだ」


 きっぱりと、何の躊躇いもなく。キーンはそう断言した。

 それをふぅんと聞き流したアザレアであるが、よくよく思い返せば、何やらとんでもなく重たいことを言われた気がする。恋する乙女とはまこと面倒な思考の持ち主で、物全体のことを指した今の発言にまで少しときめいてしまうのだから、恋愛初心者のキーンには始末に負えない。

 急に顔を赤くして黙り込んだ少女を見下ろし、きょとんと包丁の頭を斜めに傾け。ふと、先程放ったのが婉曲な告白プロポーズだと捉えられたことに思い至ったらしい、慌てて違う違うと否定を入れてがっかりした顔をされてしまった。

 不貞腐れたようにそっぽを向く少女を不器用に宥めすかしながら、付き人は続けようと思っていた言葉を改めて引っ張り出す。


「人は生まれた後で成熟し世界を広げていくものだが、物は最初から精神的なものをある程度確立した状態で動き出す。人と違って、基盤に何かを入れる余地が少ないんだ。故に物は基盤を作った人間に、半ば存在の担保を依存していると言っていい」

「よく分かんないです」

「物にとって所有者とは、親子というよりも分身のようなものかもしれん。親の苦も楽も、自分のことのように知っている。理不尽の裏にある機微も心情も理解出来る。……自分自身の判断と言ってもいい行為だ。憎むに憎めないだろう」


 それに、と声色を変えて話の穂を更に接ぐ。


「どの物も大抵は何十年と使われた器物の成れ果てだ。動き出す以前の経歴は様々だろうが、殆どの物が乱暴に使用されることに慣れている。多少乱雑な扱いを受けたところで、道具としての使用強度の範疇に入ってしまいかねん」

「ケイさんみたいに?」

「そういう事だ。お前ほど異様な包丁の使い方をした所有者もそうは居ないが」


 腕を組み、しみじみと語る自身の分身キーンを見上げ、アザレアは何を思っただろうか。

 虎目石の瞳でクロッキーの背を見据え、それに気付かぬ少年が傍らの墓守フリードから棺に入れる花を受け取っている様子をしかと脳裏に焼き付ける。そして、少女にしてはやや低い声を、憚るように地面へ横たえた。


「何と言うか――奴隷みたいですね。物のスペックの方が人のよりもずっと高いのに」

「まあ……人の身を得て自律的に動くとは言え、元はと言えば使われる側だ。本質的に状況と命令に振り回されやすいことは確かだろう。しかし奴隷などと、俺以外の前では絶対に使うな」

「分かってます、私だって普段からそんなこと思いませんし。ケイさんだから言っただけです」

「俺はお前の付き人であって奴隷ではない」


 ね、と。照れ臭そうにはにかみながら見上げてくる、愛すべき主人の正中線に、キーンは微塵の迷いもなく諌めの手刀を一撃。ふげっ、と不細工な声を上げて顔を押さえ、軽く引け腰になったところで、墓守達が棺の傍に二人を呼び寄せた。

 思えば、今は葬儀の真っ最中。人が別れを偲んでいるのだから自重せよ、とクロイツやらトートやらから投げられたお叱りを拝聴し、別れが済んで吹っ切れたのか穏やかに苦笑するクロッキーへ謝意を示してから、フリードに渡された花を受け取る。一体何処から剪定したのか、まだ茎の断面に水気を残した白菊を数輪渡された二人は、それぞれ軽く祈ったり願ったりしながら、そっと横たわる男の腹の辺りに――胸より上に供えていいのは、これも例の如く肉親と墓守だけなのだと言う――納めた。

 男の首から上には再び布が掛けられ、その面を見ることは出来ない。しかし、アザレアは隠された男の表情が安らかなものと確信を得て、後ろへ下がりざまに小さく頭を下げた。

 クロッキーやレザ、そして人の街に為した所業は看過されるべきではなく、生きていたならば償わねばならなかっただろう。だからと言って、分身クロッキーを傷付けるほど世間の評価に追い詰められ、死の瀬戸際までも苦悶したと言うこの男が、死んだ後にまで苦しむ必要はないのだ。

 故に物殺しは安堵し、そしてこれ以上の興味を彼に抱かない。同じ考えの付き人と、献花の余りらしい菊の花を弄ぶクロッキーと共に棺を離れると、フリードが男の亡骸を白い布で包み、更にその上から棺の蓋を置いて閉めた。

 そのまま、受入所に隣接する火葬場へと、棺を乗せた車輪付きの台を押していく。その姿をトートやクロイツと共に見届けて、葬儀屋の手がもう良いとばかり右手を上げたと同時に、全員が一気に相好を崩した。


「アザレア、ケイ、参列してくれてありがとう。誰一人来なかったらどうしようかと思っていたところでね、あの人も少しは浮かばれるだろう」

「いえ、そんな……私達もトートさんの約束ついでに来たような感じでしたから。この後はどうしましょう、私達まだ居た方がいいですか?」

「いいや、後は墓守の仕事だ。些か忙しなくて済まないが――どうも、トートの方の予定が立て込んでいるそうでね。早めに此処を発ちたいと」


 頼めるかな、と申し訳なさそうに声を低めた守長に対し、アザレアは不満を漏らすこともなし。約束したのだからとにこやかに承諾し、右手でOKのサインを出してみせる。

 そんな物殺しを眺めて、トートはやはり何も言わずに踵を返すと、やや急ぎ足で受入所の方へ歩いていった。かと思えば、何やらやけにマチの広い革の鞄を肩に掛けて出てくる。歩く度にプラスチックと思しきものが触れ合い、かちゃかちゃと軽い音を立てる鞄へ思わず視線を向けた少女に、訥々とした言葉が投げられた。


「行こう」

「あっはい」


 あわあわするアザレアが準備を整えるのを待ち、付き人と絵描きを伴って、墓地を辞する。既にこれから何をしに行くのか知っているのか、クロイツは微かに寂しそうな空気を纏いながらも、ごく平然として見送りに徹した。

 そして、トートを含めた物殺し一行が、月の原駅へ向かうべく足を返したところに、火葬場の方から急いた足音が近づいてくる。再び歩みを止め、その方に皆が視線を向けた先には、息を切らせたフリードの姿があった。

 持ち場はどうしたとのクロイツの問いには、もう一人に代わってもらったと中々に無責任な報告を投擲。唖然とする守長を置き、墓守は喪服の男を真っ直ぐに見据えて言い放つ。


「トート様、私も御供願いたく存じます」


 トートは無言。ぱちり、とカメラのシャッターを切るような音と共に、白紙だった感光紙が何処かの廃墟を写したものに切り替わる。それが何を示しているかは誰にも読み取れず、従って、この場にいるもの達は皆、ただ固唾を呑んで返答を待つばかり。

 果たして、彼は何も言わず軽く頷き、徐に止めた足を再び動かした。

 つまるところ、彼なりの承諾の合図である。そのことをフリードは予測していたのか否か、相変わらずの貼り付けたような丁寧さで頭を下げ、一拍遅れて歩き始めた物殺し達の更に後ろから、静々と追従した。



 月の原駅は、かつてこそ街の再興を目指すもの達の為に多くの便数と路線数が確保されていたが、荒廃し切ってしまった現在では見る影もない。それでも、観光地への行き来や慰霊祭の臨時列車を受け入れる為に、月の原には名生ななしから人の街へと向かう以外にも数本の路線が確保されている。

 トートが予約していた一等席も、そんな他の街へと向かう路線の一つ。白浜から名生を結ぶ路線のそれよりも幾分広く、そして豪華な内装を備えた汽車は、地図にも載らぬ亡き街を経由し灯前街図書館ひのまえまちとしょかんまでを結ぶのだと言う。その亡き街、日立ひだてなる駅が最寄りとなる街に、どうやらトートの用事の一つがあるらしかった。

 車内サービスとして供される、果実香の強い紅茶に角砂糖を入れながら、アザレアは訥々と語られた今後の予定に、思わず渋い表情を浮かべた。


「日立って、そこ……クロッカーの住所です」

「知っている」

「私、襲われたんですよ?」

「聞いている。しかし無視は出来ない」

「それは……そうですけど。その、クロッカーと鉢合わせになったりしないですよね? 今はまだ遭いたくないです」


 不安げに尋ねる物殺しに対して、トートは何も言わず。手元にある煎茶を何処だか分からぬ口に一口流し込み、ぱちりと写真を切り替える。廃墟の写真から黄昏時の何処かの街へ、心境の仄暗さを表すように暗い画面を写した彼は、確証はない、と些か鈍い語調で告げた。

 途端に表情を強張らせ、砂糖を溶かす手を止めたアザレアの頭に、窓際で黄昏れていた付き人が徐に手を乗せた。うひゃあ、と素っ頓狂な声を上げて飛び上がる少女に、いつもよりも柔らかい声音で、低く静かに言葉が投げられる。


「案ずることはない。俺が居る」

「あっ」

「ひゅーぅ、お似合ーい」

「少し黙れクロッキー」


 そう言えば此処には頼れる付き人がいるのだ。そのことに思い至り、ほんのり頰を染めながら顔を覆うアザレアと、至って平然そうに窓の外を睨みつけるキーンへ、下手くそな口笛――唇も無いのに何処から出ているのやら、最早本人にすら分からなかった――と共に囃し立てるクロッキー。三人の戯れを差し向かいの席で眺めながら、トートは遺影の中の写真を、鮮やかな桜並木に切り替えた。



 などと。

 すっかり眠気の取れたらしい男どもと戯言を言い合いつつ、ゆったりと汽車の旅を楽しむこと、およそ一時間弱。

 嘗ては大きな街であったろうことが窺える、待合室を備えた広いホームに、一行は僅かな緊張を湛えながら降り立つ。

 者共が各々服の裾を払ったり提げてきた荷物を抱え直す間、一人準備を終えたアザレアの双眸が見上げるのは、五年の歳月を経て赤錆が浮き、埃の積もった白看板。『日立駅』の文字と、その隣に印刷された駅章――山間やまあいに昇る太陽の図案――をじっと見て、物殺しは何も言わずに顔を正面へ戻した。

 五年前に住人が全滅し、それ以来無人と化した廃墟の街。地図の記載は既にないが、遺品整理や廃墟の取り壊しの為に人が出入りする関係上、汽車の駅は未だに運営され続けている。その証左と言うべきか、駅舎には物殺し達以外にも、様々な年恰好や服装の人と物が見受けられた。彼等は皆一様に、何を持って行くやら何を捨てるやら、家を取り壊すやら取り壊さないやら、街のもの達が残した遺産の取り扱いについて薄暗い声を交わしあい、観光客の体できょろきょろしている少女らには一瞥もくれない。

 そんな声を交わし合うもの達の一組、何事かメモを見ながら言い合う、身なりの良い人間の男と作業服姿の物。その横顔を眺めるアザレアの視界に、そっと付き人が割り込んでくる。


「あまり見るな。裏組織の者だ」

「裏組織の? でも此処は……」

つぐみの勢力圏なのは間違いない。だが、その壊滅を目論んでいた内通者スパイが居たと言うのも界隈では有名な話らしい。結局はその内通者ごと自壊したが」

「へえぇ」

「内通者の遺品整理か本拠地アジト漁りか……何をしに来たのかは知らんが、あれに目を付けられるのは厄介だ。観察は止めておけ」


 行こう、と。軽く背を押されながら促され、断る理由もないアザレアは素直に従った。

 相変わらずの静々とした所作で改札に向かうトートの後ろに、何処か不安そうな様子でスケッチブックを抱えるクロッキーと、狙うような沈黙を溜め込んだフリードを連れ、やや小走りでついてゆく。

 その姿を見咎める者、一人。

 色の薄いサングラスの下に蛇のような金目と袈裟懸けの傷を隠し、癖のある茶の髪をぐしゃりと掻き上げて、五十男は掠れた声で呟いた。


「見慣れねェだ」

「今回の物殺しですよ」


 大して興味も無さそうに応対するのは、作業服に似つかわしくない無骨な軍靴を履いた物。首から上に据えられた朽ちかけの木箱、その取っ手を絡めて戒める鎖を指先で磨きながら、物の男は続けた。


「クロッカーに一度捕まって逃げ果せたとか」

「ほぉ。度胸のある嬢ちゃんだ」

「単に運が良いんでしょうよ」

「あんな小娘が運だけで逃げられる訳があるか? 俺ァ思わん。――何にせよ、あの娘は一度肚ァ据えて話してみる必要がある。手配しろ」

「御意、父上ファーザー


 きびきびと会釈し、作業服の男がその場を去る。その後ろ姿に気を留めることなく、男はぎらつく目でじっと、改札から出て行った少女達を睨んだ。

 片や、物殺し達は裏組織のものが向けた関心に気付いたか否か。表面上は平静を装ったまま改札を通り抜け、諸所補修の跡が残る正面出入口アーチを通り、迷うことなく駅前大通りを右に曲がる。

 元は活気ある商店街が広がっていたのだろう、道の上まで大きく張り出したまま色褪せたひさしの下を抜け、金目のものが根こそぎ片付けられて伽藍洞と化した商店の亡骸を横目に、草が伸び出しはじめた石畳を左へ。片付けられもせずゴミが積まれた裏路地へ入り込み、ガラス窓が割られ家財の一切を窃盗された民家の脇を通り、まばらな人目を避けるように一行が歩き続けた先には。


「め、名家のお家より大きい……」

「名家よりも古い家だったからな」


 立ち並ぶ家々と比しても一際豪奢な――否、この街で最も大きいであろう邸宅が、待ち構えるかの如く門扉を開いていた。

 名家の屋敷ですら入るに怖じ気づくほどであったと言うに、『そう』の表札を掲げたこの家と来たら、その三倍近くも立派だ。あまりの壮大さに眩暈を覚え、アザレアは乾いた笑声を零しながら、特に意味もなく付き人の背の後ろへ隠れた。

 そんな少女には構わず、トートは鍵の開け放された門を開け、何故やら手入れだけは完璧な前庭のど真ん中を突っ切っていく。相変わらず何の事情も説明してくれない彼を、残された四人は束の間唖然とした風に眺めた。


「えっえっ待って下さっ、先っ先行ってケイさん」

「押すな、尻に手を当てるんじゃない。……掴むのはもっと駄目だ!」


 そして、付き人へセクハラ紛いのボディタッチなど行いつつ、アザレア達も慌てて後を追い。

 静々と庭を抜け、種々の花が咲き誇る美しい花壇の角を曲がった葬儀屋の足は、芝生の敷かれた片隅に建つ、小さなガラス張りの温室サンルーム前でゆっくりと止まった。


「すご、ガラスの温室」

「古い家には良くある。――それより、アザレア」

「……分かってます」


 少し遅れて隣に並び立った物殺しにも、彼が立ち止まった理由はすぐ察せられる。


「御帰りですか、? は御一緒にいらっしゃいますか……旦那様、旦那様? 嗚呼、嗚呼、やはり、やはり貴方は……御嬢、何処に行かれてしまったのです……」


 丁寧に。

 執拗に。

 手の爪が割れるほどに。

 幾度も幾度も、温室のガラスを拭く物独り。


 いかにも古めかしい装束に身を包み、此方をちらりともせずに何事か呟きながら、温室の拭き掃除を続ける男。その首から上には、花期の最盛を過ぎた紫の花洎夫藍クロッカスが、赦しを乞うように首を垂れていた。

 その姿を一目見て、物殺しは直感する。


「リペント、いや……」


 ゾンネ墓地の保管庫で見た、古い名簿。その中で見た、未だ生きている旧き物の名は。


「アイザック、さん?」


 まさしく、彼に持たせるべきものであろうと。


「……御嬢!」


 果たして。

 花洎夫藍の執事リペントは、名を呼ばれた刹那、弾かれたように振り返った。

 その足で、一目散にアザレアの元まで走り寄る。


「御嬢……御嬢? 御嬢、御嬢ですね? 御帰りになられましたか……嗚呼、嗚呼、やっと、貴女とまた御逢い出来た……やっと……!」

「えっ、わっ」

「御待ちしておりました、ずっと御待ちしておりました……御待たせして申し訳ありません、御嬢、御嬢……!」


 宙を彷徨っていたアザレアの手を取り、水に触れて荒れ放題の肌がひび割れるのも構わず握り締め、跪きながら泣き声を零す。その喉から止め処なく溢れ出す言葉は全くもって事実と相関してはおらず、一見すると理性を保っているように見えるかの物の意識は、今目の前で呆然としている少女が目的の者でないことも、その者が何を目的に此処へ来たかも認識してはいない。物殺しとして経験を積んだアザレアから見れば、このリペントと言う男が、最早正気を保った存在でないことは火を見るよりも明らかであった。

 故に、少女は戸惑いを振り払い。縋るように手を掴む執事の手にそっと左手を重ね、その体温に気付いて面を上げたリペントへ、ゆっくりと声を紡ぐ。


「殺されて、くれませんか」

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