六十八:永の別れ

 覚束ない手つきで服をまさぐられる感触で、オンケルはゆっくりと意識を取り戻した。

 直前まで散々うなされたり暴れたりしたせいか、夢も見ないほど深く眠りに就いていたようだ。起こした身体は未だ倦怠感を帯び、長く寝ていたせいか関節のあちこちが軋るものの、最前の時のように絶望的な気分ではない。自身が思ったほどショックを受けていないことに半分安堵しつつ、何の気なしに胸の傷へ手を当てて、彼はふと気付く。

 巻きつけられた包帯の感触が違う。見下ろせば、着せられている服も最前のものではなく、鉄道員としての制服の下に着ていたものだ。明らかに誰かが取り替えた後である。

 ならば、それは誰が? 首を傾げて候補を出そうとしたオンケルは、その時初めて、自身のすぐ隣から響く物音に気付いた。


「……!」

「おっ気付いた。大丈夫かー?」


 はっとして見上げた先には、二十歳ほどの男が一人。替える前の包帯やその他諸々のゴミを黒いビニール袋に押し込みつつ、いかにも呑気そうに問うてくるかのものの首から上には、使い古された旧型の扇風機が鎮座している。

 見間違えようもない、あの雨の夜に、瀕死の己をこの医院まで送り届けてくれた人足――エアーズである。何故やってくれたのかは兎も角、彼が何某か世話を焼いてくれたのは、この状況からして間違いではないだろう。

 軽く頭を下げて謝意を示しつつ、何故医師ファーマシーでも薬師シンシャでもなく人足が医師の真似事をしているのかと問えば、返るのは膝の上に投げられた制服の上着と、複雑な感情を秘めた沈黙。不安に駆られもう一度問うと、彼は尚も無言を保ったまま腕を組み、そして諦めたように言葉を紡ぎ上げた。


「テリーから顔を合わせたいって“入電”があったんだ。でも何ていうか……何で会いたいのかって聞いたんだけど、その辺よく聞こえなくてさ。医者がどうのとは言ってたけど」

『どうの とは ?』

「診察室がどうのとか、錯乱してるとかって言ってたけど、それ以上はノイズで何にも。で、何かおかしいと思って、来てみりゃやっぱり変だ」

『何か ?』

「うん。まず平日なのに玄関が閉まってる。なのにすぐ隣の勝手口は開いてる。こりゃおかしいって思ってこっそり入ってみりゃあ、あんたがそこでぶっ倒れてた。俺が医者の真似事してたのはそのせい。……この時点でもう大分ヤバ度高いけどさ」

『続けて』

「医者がいねぇの。探したのに何処にもいねぇの。焼肉奢るって約束したのに、探偵もいねぇ」


 な予感がするよなぁ、と。エアーズの声は軽薄を装いつつも、何か恐ろしいものを見たように掠れて細い。その声をオンケルは静かに聞き届け、肩口に落ちてきた懐中時計の鎖を摘んで背に払うと、意を決したように腕を振り上げた。

 自身の両手を繋ぎ合せてすぐに離し、右手の拳の親指と小指を立てて、受話器を模したそれを懐中時計の縁に軽く当てる。同時に、左手の薬指が、膝の上に放り投げられた上着を円状に撫でた。

 正規に普及するものとは形式の違う、彼独特の手話。しかし、否それ故にこそ、その意を汲み取ることくらいは、手話や身振り手振りの類に疎いエアーズにも何とか出来た。

 即ち。


『手を貸してくれ 薬局に 電話をしたい』

「薬局……ええと、シンシャに? あいつ薬剤師だぜ、頼むなら名家の方じゃねぇの?」

『駄目だ 彼らは 今 別のことで忙しい し 名家には 多分 これを 何とかする 手立ては ない 薬師なら 持っている はず だから』


『頼む 助けてくれ』


 切々と述べられる陳情に対して、エアーズが取れる対応など僅かもない。即ち、面倒事を嫌って突き放すか、或いは協力するかの二択だ。そして彼に、縋られて無碍に出来るような薄情さの持ち合わせなどは、財布の中の紙幣と同じくらい無かった。

 バリバリと頭を掻き毟る代わりに、ばりばりと喧しく扇風機のファンを掻き鳴らし。うるさい、と冗談めかした風に腕を動かしてみせたオンケルの竜頭リューズへ、軽く手刀を見舞う。そして、床に放り捨てたゴミ袋をスニーカーの底で脇に押しやりながら、エアーズは無言で手を差し出した。

 先程から立ち上がろうともたついていたのだが、どうやら助け起こしてくれるらしい。厚意に甘えて掴めば、思った以上に力強く、そして勢いよく引っ張られ板張りの床に立たされる。お陰で閉じかけの傷が強く痛んだものの、それを気にするよりも早く、人足が言葉を並べた。


「俺があんたの手話見ながら電話するより、直接迎えに行った方が多分いい。シンシャの店の場所は知ってる、連れてってやるから一緒に来いよ」

『いい のか?』

「構うもんか。俺達に大親友の平穏無事な生き死にが掛かってんだぜ、今更金勘定で考えることなんかありゃしねぇ。いや焼肉は行きたいけど」


 ちらとはみ出る欲望は聞き流すべきか否か。そもそも金勘定の話はしていなかったのだが、わざわざその話を出す辺り、何かしら報酬は頂いておきたいらしい。分かりやすい青年である。

 今が切迫した状況とも一瞬忘れ、思わず肩を軽く揺すって笑う素振りを見せたオンケルに、人足は本日二度目の手刀。続く、手持ちは少ないが出せるだけ支払う、との提案に三度手刀をお見舞いし、そして有無を言わせずオンケルの手首を引っ掴んだ。

 少し走ると前置きしつつも、走るとは名ばかりの早歩きで、一階にある重傷人専用の病室を辞する。


「……やっぱ、誰もいねーな」


 ドアを開けて出た廊下は、恐るべきと喩えたくなる静謐に満ちていた。

 普段であれば、医院が静かなのは平和の証拠だと好意的に受け止められただろう。しかし、今は不穏さばかりが目立っていた。少し隔てたその奥には、今も尚傷に苦しむものがいることを、オンケルもエアーズも知っているが故に。

 あまりの張り詰めた静寂に気圧され、足音を立てるのが憚られる。歩調は無意識の内に周囲を忍ぶものとなり、早く辞さねばと焦れる心中に反して歩みは慎重さを増し、移動速度は遅くなる一方。いっそ手に手を取り合い全力疾走したくなる衝動が二人の間で湧いてくるものの、それは流石に不味いだろうと言う心情と、玄関まであと少しだと言う期待感のせいで実行に移せない。

 結局、こそこそと柱の影や半開きのドアに隠れ、カチカチと小気味良い懐中時計オンケルの頭の音に止めろだの無理だの押し問答を繰り広げながら、ようやく正面玄関まで辿り着いた二人は、さも堂々とガラス扉を開けようとサムターンに手を伸ばし――


「危ねぇっ!」


 背後から襲ってきたパイプ椅子を、エアーズは襲い掛かってきた物ごと蹴り飛ばして難を逃れた。

 それなりに常人離れした人足の脚力が、中肉の男を背中から床へ叩きつけ、その勢いで得物であった椅子が手から離れる。がしゃん、とけたたましく掻き鳴らされる大音声を背に、蹴りつけられた胸を押さえながら身を起こしたのは、遮光瓶の中に水薬を揺らす五十路の男――ファーマシーである。しかしその身はすっかりやつれ果て、羽織った白衣は酷く物騒なことに、何ものかの流した血で汚れていた。

 何を、誰に、していたのか。かの物と話したオンケルには想像がつく。しかし、この状況でそれを改めて問う勇気はない。代わりに、何も知らず巻き込まれたエアーズが、警戒心と敵意を剥き出しにしてファーマシーを質した。


「何のつもりだよ。あ?」

「…………」

「俺のこたぁまだいい。立派な不法侵入だし、その辺を言い繕おうとは思ってない。でも怪我人オンケルのこと床にほったらかして、その上も影一つ見せねぇで他の怪我人何人も死なせて、あんた一体どういうつもりだ? ぇえ?」


 二日。オンケルとしてはとんでもないことをさらりと言ってくれたものだが、そのことを尋ねられるような状況ではない。己とファーマシーとを交互に見る彼をいささか乱暴に背の後ろに下がらせ、エアーズが語気を荒げてもう一度問えば、医師の頭がごぼりと溺れ死んだような音を立てた。

 水薬の中に生まれた大きな気泡が液面を激しく騒がせ、一緒に入っている柳の枝を揺らす。それが何の感情を示したものなのか、人足は知らない。知るは此処にいない老探偵ばかりだ。

 更なる沈黙が三者の間に横たわり、そして苦々しいファーマシーの声が、それを乱暴に蹴り退ける。


「……還って……欲しく、ないんだ」

「は?」

「あいつに還ってほしくなんかないんだ! だか、だから何とか……何とかしようと……!」


 感情の爆発は一瞬。だが、それで十分だ。

 大親友テリーからの意味深長な“入電”と、人の出入りが断たれようとしている医院。ファーマシーの発言。これらを全て付き合わせたならば、答えに行き着くことは、そう難しい話ではない。

 だがそれは、エアーズにとっては許しがたい。


に何しやがったてめえっ!」

「出来るんだ、出来る筈なんだっ! 私は、私は取り返しの付かないことを――いいや、いや、違う、そんな筈はないんだ」

「こっちの質問に答えろやァっ!!」

「戻そうとしたんだ! 今戻そうとしている、私達のことはもう放っておいてくれ……!」


 怒気も露わに叫ぶエアーズ。対するファーマシーは、他人の血がこびり付いた手で頭を抱えながら、もう片方の手で喘ぐように自身の胸を掻き毟って激しくかぶりを振っている。その喉から溢れる言葉は会話になっているように聞こえても、此方の意思や感情はまるで通じていない。

 なるほどこれは錯乱しているなどと形容するわけだと、エアーズは焦燥と憤怒とで煮えたぎる思考の片隅で苦笑した。その場違いな感情は心の底に留めやり、人足はぼきぼきと指を鳴らしながら、未だ何かを喚く医師との間合いを詰める。

 具体的に何をしているのかは聞き出せていない。しかし、ファーマシーが親友に向かって為した所業は、平素ならば糾弾されてしかるべきようなものであることは確かなのだ。何しろ、他でもない、それをテリーに施したであろう医師本人が“取り返しの付かないこと”などと宣っているのだから。ならばエアーズに止めない選択肢は存在しないし、その為に彼をどれほど傷付けても後悔しない自信があったし、今がその時だという確信があった。もしかするとシンシャを頼った方が素直に片付くかもしれないし、物殺しであれば何もかもすっぱりと切り捨ててくれるのかもしれないが、今此処にいない彼らを呼び込む時間すら惜しい。

 無防備に立ちすくむファーマシーと、半歩分の間を空けて仁王立ち。己より頭半個分ほど背の低い男の胸倉を、片手で掴んで引き寄せる。ぅう、と喉の奥で男が呻いたものの、同情心や憐憫の情など微塵も湧いてこない。むしろ決意が微かな躊躇すらも踏み砕き、錆びたネジよりも緩みなき害意で固め尽くされたエアーズは、彼の頭を殴り壊すつもりで拳を振り上げた。

 しかして、それが振り下ろされることはなく。

 代わりに、医師の手が振り上げられ、


「――!!」

「どわぁっ⁉」


 恐らくはエアーズの方を制するつもりで動いたのだろう、半ば体当たりじみた勢いで割って入ってきたオンケルの腕に、いつの間にか握り締められた注射器の針が突き刺さる。

 駅長が痛がる素振りを見せたのも僅かな間。恐らくは反射的に、医師の手によって押子プランジャーが押し込まれ、中に充填された薬液が入れられる。そして、注射筒シリンジに半分ほどまで満たされたそれらが全て入れ尽くされた途端、男の身体が力を失ってよろけた。

 咄嗟にファーマシーから手を離して抱き留めなば、何でもない、と弱々しく首を振られる。しかしながら、そんな手話つよがりを真に受けるほどエアーズも愚かではないし、第一言ったそばから意識を失っているのでは説得力のかけらもない。幸いにして命に関わるような代物を投与された訳ではないらしく、腕の中のオンケルは規則正しい呼吸を繰り返している。

 とは言え、荷物になってしまったことにはいささか苛立ちを感ぜざるを得ない。抱き締めたまま立ち回れるほど器用ではないし、床へ放り出すには無防備すぎる。その一方で、背にした玄関から逃げ出す決断すらも、エアーズには出来なかった。


――そうだ。今此処で、彼を野放しにすれば。

――親友とは、二度と会えない。


 そんな強迫観念が、エアーズに此処へ留まる以外の選択肢を取らせてくれない。

 どうすればいい。何をしたらいい。いや踵を返して逃げるべきなのだろうが、いやしかし――答えの出ない自問自答と、焦燥と恐れに荒れ狂う心を無理矢理平静の中に押し殺し、エアーズは医師の動向を慎重に見定めながら、腕の中で眠るオンケルをそっと床に降ろして壁にもたせかける。それと時をほぼ同じくして、ファーマシーが空になった注射器をその場に落としたかと思うと、やおら白衣のポケットに手を突っ込んで新しい注射器を引っ張り出した。最早形振りを構う余裕もないらしい。

 腰に巻きつけた上着を解き、先手を取るは人足。まずは一番の脅威である注射器を封じる魂胆であろう、両手に広げた上着を手へ被せるように飛びかかった。慌てたようにファーマシーが腕を引くものの、そこは天性の勘の差。更に深く間合いを詰めて下から布を振り上げ、あっという間に注射器ごと腕をぐるぐる巻きにしてしまう。それに医師が焦る間もなく、エアーズは素早く脚を跳ね上げ、何の躊躇もなく鳩尾に膝を喰らわせた。

 意識を奪うほどの鋭さはないものの、急所に蹴りが入るだけでも苦悶は相当のものである。悲鳴の代わりに吐き出した気泡で水薬の液面を騒がせ、膝から崩れ落ちそうになったファーマシーを、しかしエアーズは許さない。左手で医師の手を服ごと拘束しながら、ぐっと握り締めた右の拳で、今度こそ遮光瓶の頭を思い切り殴りつけた。

 びしり、と嫌に生々しく響いたひび割れの音は、殴りつけられた瓶からか、或いは殴りつけた人足の拳からか、はたまたそのどちらもか。怒りすら晴らしそうになる激痛を必死に押し隠す彼からは、思ってもいない暴言が低く低く滴り落ちる。


「あんたは、あんただけは殺してやる……!」


 本当は、そんなことが出来る勇気も力もない。はずだ。

 だが今は、今だけは。

 親友の命が掛かっている今だけは、誰の力を借りなくても、この物を還せるのではないか。


 刹那でもその期待が芽生えたならば、拳を握る価値はある。

 そして、此処にそれを止める要素は、何一つない。

 とても心の中だけでは納めきれぬ激情と、堪えても堪えられぬ激しい痛みに、最早「殺してやる」以上にまともで過激な言葉を探す余裕もなし。上げるは手負いの獣も怯む咆哮ばかり、今度こそ頭を粉々に叩き割るつもりで、エアーズは右腕を振り上げ、


「エアーズ――エア、エア。待て、止せ」


 潰れきってがらがらに嗄れ、それでも聞きなじみのある老爺の声が、溶岩の如く沸く殺意に冷水をかけた。


「あ、ぇ……、?」


 ぎぎ、ぎ、と。ただでさえ古く錆びた扇風機の首を軋ませながら、ゆっくりとその方を仰ぐ。その時力が緩んだせいで、どうやらそのまま気絶したらしいファーマシーが床に崩折くずおれたものの、そんなことは気にすべくもない些事だ。エアーズの視線は何処か哀願の色を帯びて、医師の背の奥、人気のなかった廊下を睨んだ。

 ひび割れて壊れた黒電話の頭、其処彼処に血の飛んだ服。爪の割れ剥がれて血に汚れた手。

 “廃物”もかくやの惨状になり果て、砂漠もかくやと尾羽打ち枯らしても、それは見紛うことなき親友テリーの姿だ。


「……テレンス」

「エアーズ」


 憑かれたように、青年は老爺の傍に歩み寄る。

 一方のテリーは、真っ直ぐに立っていることも辛いのだろうか。半身を壁に預けながら静かに並び立つを待ち、やがて正面から向かい合った彼の肩へ、そっと、しかして力強く手を置いた。

 途端、堰を切ったように、押し留めていた感情が溢れ出す。傷めた手が悲鳴を上げるのも構わず、テリーの胸倉を皺が寄るほど掴んでは、半ば寄りかかるように己の頭を押し付けた。

 そう出来る程度には背が高いはずだと言うのに、今のテリーはひどく小さく、そして痩せ細っているように思えた。


――嗚呼、本当に。

――本当に、これが最後だ。最期なのだ。


 どうしようもない実感が、涙と共に湧き上がり。

 例えようもない悔恨が、悲哀を連れて溢れ出る。


「テレンス……テレンス、何で、なんでだ。何であんたなんだ」

「エア」

「畜生、ちくしょう、ちくしょ……っ、俺が、俺があん時別れてなきゃ、俺が……!」

「エア、良いんだ。良いんだよ」


 取り繕いようもないほど氾濫する言葉と涙とで、まともに別れの言葉も責める言葉も、悔やむ言葉さえ紡げない。ただただ胸倉を掴んで泣き声を上げるばかりのエアーズに、聞いたこともないほど柔和な声が上から落ちて、ゆっくりと意識の中に浸透していった。

 傷だらけの冷たい手が、癒すように肩を叩き、背を摩る。いよいよ言葉も失くし、ぐずぐずと泣きじゃくるばかりの親友に、テリーはあきらめの混じった声で一つ笑いかけた。


「逢えてよかった。もう二度と話せないかと」

「俺は二度と逢えねぇんだよッ!! 二度と話せねぇんだよ、馬鹿……」

「すまない」

「謝って済む問題かよ……謝られたって、俺、俺どうすりゃいいんだ……っ」


 声を荒げる人足に対し、老爺はあくまでも柔らかく受けるばかり。此方はずるずると未練を引きずっているのに、彼方はもうすっかり吹っ切れて静かに構えているのが、エアーズには言葉にし難いほど悔しかった。

 それ故に彼は、テリーの服を握り締めるその手を離せず。

 そして、彼が懇切大事そうに手渡そうとしてきたものにも、すぐには気付けない。


「エア、エアーズ。手を離してくれないかね」

「……何だよ」

「私の持ち物の中で、命の次に価値のあるものさ。受け取ってくれるかね?」


 悪戯っぽく肩を竦めながら、胸倉を掴み上げる手をそっと解かせ、腫れはじめた右手を表に返す。此処に来て興奮剤アドレナリンが切れたのか、甲に触れられた途端気が遠くなるような激痛が走ったものの、此処で失神しては本当に終わりだと、エアーズは何とか気を奮い立たせて堪えた。

 そんなことは御構い無しに、テリーは羽織った外套の内ポケットから出したものを、親友の掌へ押し付ける。思わず視線を下げて検めれば、人足にも見覚えのある金銀の色が視界に飛び込んできた。

 脚に文を括り付けて舞う銀の鳩と、一杯に咲き誇る金の菖蒲アヤメ。それらが蒔絵された黒檀の葉巻入れは、間違いない。テリーが“案内人特権”を行使するとき、或いは何か重大な事柄を前にしたときの為に、肌身離さず持ち歩いていたものだ。それが如何なる出自を持つものかも含めて、エアーズには受け取り難い価値を秘めた品である。

 それでも、青年に突き返す選択肢はない。突き返したところで、彼に待っているのは死だ。

 ならば、いっそ。


「預けたって思って、いいんだよな? あんたに返さなきゃならない、大事な物なんだな?」

「嗚呼」


 いっそ、呪いを掛けてしまえばいい。

 かつて老探偵が語った案内人の如く、数百の時を生きる慰みの為に。


「絶対、戻ってこいよ。約束だ、約束だから……」

「きっと。――いや、必ず」


 掠れた声が紡ぐ確かな返答。それを余韻までも聴き取り、飲み下して、ようようエアーズの中で踏ん切りが付いたか。力の入らない右手の代わりに左手で、金銀の蒔絵を覆い隠すように葉巻入れを握りしめ、古びた関節を軋ませながら扇風機の首を縦に振った。

 死に瀕したとしても、彼はやはり彼。交わした約束を違えるような物ではない。ならば最早、悲愴を表に出して泣き叫ぶことも、憐憫を垂れて生暖かく接することも、親友を看取る態度としては無粋の一言に尽きるだろう。

 死者の前でやってもいいことは、ただ一つ。


「戻ってきたら、今度と言う今度は焼肉奢らせるかんな」

「お前が貧乏を脱却する方が先かもしれないよ」

「俺が億万長者になっても絶対奢らせる。いいかよ、これも絶対だかんな! 約束だぞ!」

「あぁ、約束だ」


 いつも通りの姿で見送ってやるのが、せめてもの礼儀だ。

 気を抜けば溢れそうになる涙を堪え、ずきずきと痛む右手を差し出す。老探偵も両手を差し伸べ、淡雪あわゆきに触れるような柔さで握り返した。しかしてエアーズにはその慎重さが気に入らない。小さく一笑し、激痛を押して思い切り力を入れてやれば、痛い、と苦笑しながらも、テリーの方も少しだけ力を込める。

 両の手で、暖めるように握られているのに、冷たい。

 死者の手のように、冷たいのだ。


「……本当に、約束だかんな……」

「勿論、約束だよ」


 またしても湧いてくる後悔を振り払うように、エアーズの方から手を離せば。

 テリーの手は、煙のようにするりと離れて、体側に落ちる。


「っ……う、く……」


――まだだ。まだ、泣いては駄目だ。


 押し留めた感情が爆発しそうになって、親友と視線を合わせられない。弾かれたようにエアーズは踵を返し、まだ駄目だ、まだいけないと呪詛の如く繰り返しながら、未だ昏々と眠り続けるオンケルを引っ立てる。鉛のように重い足を引きずり引きずり、目の前に隔たるガラス戸の前に立ち、もう悔やまぬと心に決めて、

 人足は最後にもう一度だけ、親友の方を振り返った。

 探偵はまだそこに居て、朋友をじっと見送っていた。


「――――」

「…………」


 言葉はもう交わせない。駆け寄ることももう許されない。

 だから、ただ親友の最期を意識の底に焼き付けて、エアーズは今度こそ扉を開ける。


「絶対、絶対だぞ。約束だ……」


 振り千切るような己の呻き声だけが、やけに大きく聞こえた。

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