六十四:宝飾具

「……っ」

「!?」


 散々に追い回し、壁を超え屋根を伝い、時折遭遇した華神楽のものどもを脅しつけて強引に縄張りを通過し、何やら私刑リンチの真っ最中であったもの達をついでに張り倒し。その際に驚いたり怒ったりした連中から何発か殴られたり蹴られたりしながら、ようやく足の速い幼女の先回りに成功したキーンは、辿り着いた雑貨屋の店先で突如鮮血をぶちまけた。

 名家で起きた、“案内人特権”の強引な行使による発作と症状はほぼ同じ。呼吸をする度に軋るような激痛が襲い、一度血を吐き切っても際限なく込み上げ呼吸もままならぬ。前回と違う点を挙げるならば、吐き出された血の量が遥かに多いことと、移動中一度も特権など行使していない点であろうか。以前の時点で己が持つことになる特権の危うきは理解しているのだから、無意識にも使わぬように気を払っていたと言うに、何故またかくも苦しめられねばならぬのか。

 いくら咳き込んでも溢れる血をそれでも吐き出そうと奮闘しながら、キーンは愕然と立ち竦むプラムの前に立つ。一方の幼女はと言えば、自身を追いかけてきた物が突然大量に喀血かっけつした事実を理解しかねているらしい。心配もせず恐れもせず、ふらつく巨漢を射殺さんばかりに見つめているばかりだ。


「プラム、今度は――逃げるな」

「あ、や……あ、うぅ」


 刃と鞘の間からぼたぼたと血を零し、それでも言葉を言い切ったキーンに、まだプラムは言葉を掛けられない。何やら喃語なんごじみた呻き声を石畳に転がし、案山子のように硬直する娘の前で、再びの発作。耐えきれず遂に膝をついた包丁へ、真っ先に駆け寄ったのはプラムではない。


「んななな何、何っ!? だだだ大丈夫そこの貴方っ!? 救急車は!?」

「良い、放って置いてくれ……、っ」

っ!? いやいやいや無茶なこと言わないの! いいからウチ来なさいな!」


 息も絶え絶えに座り込む大男を動かそうと奮闘するのは、年季の入った万華鏡の頭を持つ四十代半ばほどの女性。『万華ばんか』の看板を掲げた古い雑貨屋、その店主である。

 白いセーターやら生成りのエプロンやらが血に塗れることも構わず、女店主は血を吐きながら何とか立ち上がったキーンに押し潰されかかりながらも肩を貸して、店の中へ引きずっていく。その一部始終をプラムはひたすら見つめるばかり、女店主の方も気付きながら気にかける余裕はなく、嵐のような騒ぎの後には立ち尽くす幼女だけが残った。

 長話の末にすっかりキーンを見失い、聞き込みと彷徨の果てにアザレアとクロッキーが『万華』へ辿り着いたのは、それから三十分が経った後である。



「ゔぅ……ゲイじゃんごべんなじゃい……」

「もう良い、分かった。反省していることは充分過ぎるほど伝わった。服が鼻水塗れになる前に離れてくれ」

「やぁーっ! ぶえぇごわがっだよぅゔ」

「…………」


 胸郭に溜まった血を吐き出しきり、疾走直後で荒れていた呼吸を整えたことで、あの激しい発作はひとまず鳴りを潜めたらしい。血を被ったスーツから間に合わせのシャツとスラックスへ――身頃が今にも張り裂けそうな問題は彼の巨躯に免じ妥協するとして――着替え、その着替えた服に号泣するプラムが頭を押し付けたことで、替えの服は見事鼻水だらけにされた。

 元はと言えばプラムがものどもを置いて走り回ったせいだが、その元凶は彼の失言なのだ。故に力ずくで引き離すことも出来ず、また消耗した身体のまま諭すのも億劫で、結局キーンは幼女を纏わり付かせたままソファに身体を預ける。

 びいびい泣き喚く齢九ほどの幼女、明らかにサイズ不足の服を着崩し居心地悪そうに縮こまる巨漢。何ともアンバランスな空気の漂う只中に、勇敢にも焼菓子と紅茶を携えて割り込んできたのは、背後に人間の少女と物の少年を従えた万華鏡頭の女店主である。


「アザレア」

「遅くなってごめんなさい、ケイさん。……えっと、プラムのその有様と、そのピチピチの服はどうしちゃったんですか?」

「泣き始めたのは俺のせいだが、泣き止まん理由は分からん。服のことは言うな、俺とて着たくて着たものではない」


 仔細の説明と、自分達の名は呼ばぬのかと言う無言の抗議は一旦流し、付き人は二人掛けのソファの端へと身を寄せる。流れるように隣へ腰掛けた物殺しの差し向かい、生暖かい視線を向ける女店主と少年もまた隣り合って座り、ひとまず茶会の準備が整った。

 さて、と一言放ったのは女店主。その指は我先と焼菓子をつまみ、それに倣ってクロッキーとアザレアもそれぞれクッキーと小さなパウンドケーキを取った。


「自己紹介が遅れちゃったわね。私はカレイド、『万華』うちの店主だわよ」

「アザレアです。物殺しでケイさんの主人」

「ケイだ」


 どうもどうも、と頭をぺこぺこ下げあい、三者が一頻り満足したところで、カレイドは早速話を切り出す。


「そいで、プラムちゃんが居るってことは御屋敷から追い出された感じかな?」

「そうです。どのくらいで戻れば良いか分かんないので、とりあえずプラムについて行こうって、それで此処に」

「そうなのよねぇ、プラムちゃん暇になると此処来るのよね。ほら、うち装身具アクセサリーとか置いてるから。でもアザレアちゃん、名家に追い出されたらしばらく入れて貰えないわよ?」


 五人分のティーカップに紅茶を注ぎ、ガラスの砂糖入れとミルクピッチャーを添えながら、カレイドはひょこりと首を傾げた。

 名家の会合は然程回数の多いものではないが、その分数日がかりの長丁場だ。その間にはかの瀟洒な邸宅が貸し切られ、それまで滞在していた客人は、余程の要人でもない限り今回のように外へ放り出されてしまう。そして、短くても一日、長ければ一週間、余人の立ち入りは禁じられる。

 物殺しが如何なる事情で彼等の厄介になっていたのかは分からぬが、出されたと言うことは夜を越す場所がいるだろう。概ねそんなことを掻い摘んで話せば、アザレアは鳶色の目をぱちぱちと数回瞬しばたたき、ふと思いついたように声を上げた。


「カレイドさん、『日の出』って何処にあるか知ってますか?」

「ニトちゃんが働いてる民宿のこと? 白浜って港町の海沿いだわよ。此処からだと汽車とバス使って――そーねぇ、一時間弱ってとこかしら」

「海沿い……えっ海見えますか?」

「勿論。日の出が綺麗よぉ」

「わぁ!」


 見たい、と目を輝かせる少女の顔のあどけなさは、ややもすれば自分をころしに来るかもしれぬ者のそれとは思えない。

 噂ではこの少女、物の街にいた仕立て屋を既に還していると言う。しかしながら、このいかにも善良そうな子が、一体全体どうやって命を奪う決断を出来たのだろうか。内心訝りながら、しかし言動で悟られぬよう丁寧に自然体を装い、女店主はゆっくりと足を組む。その動きに意識を引かれたか、夢想するように手を組んで少女は視線を上げた。

 その双眸は、先程までの無邪気でいとけない鳶色ではなく。

 人をも躊躇なくその手に掛ける、げに恐ろしき物殺しの持つ、虎眼石の瞳。

 それこそ石の如く冷たい眼に射竦められ、カレイドの背が凍る。隠しようもないほど震える手をぐっと組んで何とか堪え、席を蹴り飛ばしたい心を叱咤して構える内に、ふいと視線は背後の店先へと逸れ、戻ってくる頃には元の色に戻っていた。


「どうかした? 泥棒?」


 心中で安堵の溜息をつきつつ、平静を装って尋ねれば、アザレアは首を横に振った。


「知り合いが通りがかった気がしたんですけど。……気のせい、だったみたいです」

「ホントにぃ? 怖い顔してたわよぅ」

「本当です。気のせいでした」


 口ではそうのたまいながら、表情は厳しい。そんな顔でそう言われたら余計気になる、とばかり組んだ足を解いて膝を乗り出す女店主に対して、少女はあくまでも沈黙を貫いてソファに背を預ける。

 伏せがちに向く視線の先は、左隣に座する付き人。泣き疲れたらしいプラムを寄り掛からせたまま、キーンもまた己が主人の方を見る。カレイドが見咎めるよりも早い目配せだけが、物殺し達の感じた気配の正体を雄弁に語っていた。

 そんな目をされると、余計気になるのがこの女店主の面倒なところである。


「ちょーっとー、アザレアちゃぁーん。一応私店長でぇー、店長としては不審者情報欲しいんだけどぉー」

「あー……えっと、ごめんなさい。確信のないことは言いたくないんです。変に色々言って皆がぴりぴりするのも嫌ですし」

「本当に駄目?」

「駄目」


 しつこく念押しするカレイドに対して、アザレアはあくまでも冷淡な顔を保ったまま受け答えをこなした。何ともはや、強情な娘である。この意志の堅さは成程物殺しらしいと言うべきか。

 感心と呆れを半分ずつ混ぜた溜息一つ、女店主はぱちんと柏手を一つ打って、周囲で硬直する妙な緊張感を払い去る。同時に、万華鏡先端の封入箱オブジェクトケースに入った種々の宝石が、しゃらりと軽やかな音を立てて揺れた。


「それじゃ、別の形でうちに貢献してもらいましょ」

「別?……あっ」

「逃がさないわよーぅ?」


 手薬煉てぐすねを引いて待っていたと言わんばかりに、女店主は素早く立ち上がって少女の手を掴む。恐らくは細工物を扱う故であろう、節くれ立った白い手の力強さに、物殺しはあっさりと気圧された。

 そのまま店の方へと連行されるアザレアの隣、すっかり寝入ってしまった幼女を置いて、手負いの付き人もそっと後を追う。



「八号! まぁー、あなた指ほっそいわねぇー。八号、八号ならそう、この辺りが丁度……」

「あっあのっプラムからも貰って」

「ローテーションよローテーション。嗚呼あったあった、ほらっ! お洒落に遠慮は要らないのよアザレアちゃん! お安くしちゃうし何なら名家にツケちゃえばいいのよぅ」

「ああっ駄目、駄目です! そんな一杯見せられたらお財布の紐緩んじゃう……!」


 樫のカウンターに置かれた宝石箱、その中で燦然と煌めく指輪に白熱灯を当て見せつけるカレイドに、冗談なのか本気なのか分からぬ大袈裟な手振りで目を覆うアザレア。二人の女が送る賑やかな茶番を横目に、キーンは新しい服に袖を通す。

 ハイネックの黒いシャツに灰色のベスト、消炭色チャコールグレーのジャケット、黒いスラックス。足元の靴は変わらず、ラペルに懐中時計の金鎖が輝く点も変わりはない。

 仕立物ほどとはゆかぬまでも、過不足なく身を包む古めかしい型の三揃いを、キーンは何処か照れ臭そうに摩った。


「俺が着られる服が店にあるとはな」

「古い街だもの。大抵何でもあるよね」


 関心したように呟く付き人に対し、さしたる感慨もなく返すのは彼の差し向かいに立つ物。着古したシャツとジーンズにヒールのないサンダルを突っかけた、どう見ても接客には向かぬ服装をしたその首から上には、花の形にカットされた宝石が種々煌めくボトルチャームが鎮座している。

 一応着飾る精神はあるのか、シャツの胸ポケットに桜をかたどるブローチを光らせ、女職人は淡々と記憶を辿った。


「華神楽の幹部の一人ね。元々あなたくらい大きかったんだけど、病気で痩せて、仕立て直すにはちょっとサイズが変わりすぎたからって売られたって話。着て似合う人がいて良かった」

「華神楽か。古い組織の割には、新参の密売人に後れを取っているようだが」

「幹部は強くても下っ端は下っ端」

「腑抜けているだけではないか? 洞臥の構成員は奴の前で、別の組織の密売人を嬲り殺したと聞いている」

「洞臥の方は総長がイカれてるだけだし。華神楽は確かに、最近は兵隊の数も減ってるって聞いてる。今の公安は裏と融和気味だし、それに合わせてインテリ志向になったんじゃない?」

「そうか……」


 こともなげに裏組織の事情をぺらぺらと語ってみせる女職人。

 しかしながら、それは初対面の物に語ってもいいことなのか、そも何故堅気の物が裏組織について知っているのか、聞きたいことがじわりと浮かんでくるものの、キーンがそれを言葉にすることはなかった。問うたところで答えが返ってくるとは思えなかったのだ。

 代わりに、より無難な質問を投げる。


「お前の名は?」

「セレッソ。それがどうかした?」

「特に何と言うわけではないが、服については感謝する。何か礼を返せれば良いが」

「お礼」


 全く想定していなかった、とでも言いたげに一言呟く様は、あたかも豆鉄砲を喰らった鳩のよう。

 そのまま噛みしめるように数回「お礼」を繰り返し、そぞろに店内を歩き始めたセレッソは、ふと手に触れた古い箪笥を見て何か思いついたようだ。建てつけの悪い引き出しを揺すりながら引き開け、中に納められた黒い箱をいくつか取り出して適当な籠の中に放り込むと、試着室の傍に立っていた付き人の腕を引いてカウンター近くの椅子に座らせた。

 年季を重ね飴色に艶めく樫の天板、その上に、セレッソの手がてきぱきと箱を並べてゆく。一体何が出てくるのか、期待半分不安半分に眺めるキーンの前で、箱の蓋は静かに開かれた。

 薄べったい箱の中、黒いクッションに埋もれる形で鎮座しているのは、精緻な切子カットが施された青い風信子石ジルコンが数個。買えば紙幣が軽く十枚は飛んでいきそうな代物だが、セレッソは無造作に素手で摘んで箱から取り出した。


「あたし、今石留めとロー付けの練習してるんだ。その練習がてら、ちょっとした御守りみたいなの作ったげる。その手間賃でお礼ってことにできない? 材料費はこの際無視で」

「御守りか」

「みそっかすなおまじないだけど、その辺のスピリチュアルな店の怪しい護符よりは効果あるよ。一応魔法使いの弟子だし」


 魔法使いの弟子、即ち、リブロウの弟子と言うことであろうか。気軽にとんでもない単語が飛び出てくるものである。

 軽く包丁の側面を突いて困惑を示しながらも、キーンは何とか平静を繕って頷いた。


「俺の手持ちで出せる範囲内ならば出そう。あまりアザレアの財布は頼りたくない」

「んー……じゃあ、いっせーので希望額」

「一万れん紙幣換算で?」

「そう。いっせーの」


 ぴっと三本指。

 対するキーンは一本指。

 両者の間にばちりと火花が散り、視線が拮抗。膠着を挟んで再び立てたのは、人差し指と中指の二本。つまりは紙幣二枚だ。これを大雑把に換算すれば、高級なホテルの素泊まり一回分程度であろうか。キーンの財布としては中々に痛い出費だが、貴金属と宝石を使って一から手作りした装飾品に出すならば、かなり譲歩された方だと言えよう。


「握手?」

「握手だ」


 短い言葉を投げあった後は、もう何を言う必要もない。どちらからともなく右手を差し出し、がっしりと堅い握手を交わして交渉成立の意を示した。

 そしてまたどちらからともなく手を離す。かと思えば、女職人はうきうきとしてデザイン帳と思しき冊子を何処からか引っ張り出し、一方の付き人はカウンターの上に並んだ箱へ手を出した。

 蝶番で接続された蓋をそっと持ち上げれば、現れる中身は全て宝石。先程セレッソの摘んでいた風信子石ジルコンをはじめ、色も形も種類も様々の鉱石が静かに出番を待っている。概ねは汚れ一つない新品ばかりだが、中には中古品から毟り取ってきたらしい、輝きや色のくすんだものも散見された。

 包丁にその価値を判じられるほどの審美眼はないが、見た目に美しいことは確かだ。興味の赴くまま宝石箱を開けていたキーンは、最後の箱の蓋を開けたところで、魅かれるように手を止めた。


「…………」

「へぇ、良いのに目付けるじゃん」


 黒いクッションの上、薄暗い店内でも確かに燦然たる、四角くカットされた大きな色付き水晶。広く取られたテーブル面は淡い黄色から橙色、赤へグラデーションし、少ない切子面ファセットがそれでも美しく光を跳ね返して、単調な色彩の中に深い陰影を刻んでいた。

 蓋を開けた格好のまま固まる男、その目の前で、セレッソは石を見ながらさらさらとデザイン帳の上に筆を走らせる。


「御守りって言ってもデザインは自由だし、要望があったら聞くよ。何がいい?」

「花……」


 質問に対しては上の空。それでも、まともな単語が返ってきただけましだろうか。

 尚も筆を動かしつつ、セレッソはひょいと肩を竦める。そして、言葉もなく見入る男の差し向かいに椅子を動かすと、デザイン帳をそっと大きな手の傍に差し出した。

 思わずキーンが視線を移せば、そこには粗く線を束ねて描き出された護符のデザイン案がいくつか。その内の一つ、女職人の指が突いて示す先には、石を固定する為の石座いしざの図案が書き出されている。先程呟いた一言を反映してか、石座の裏の部分には、一輪の花の透し彫りが入っていた。

 先端が浅くいくつかに割れた花弁、深い切れ込みの入った細長い葉。花冠は横から見た図になっており、七枚の花弁が半球状に集まって豪奢なシルエットを形作っている。花冠を支えるがくに切れ込みはない。

 見覚えのある花ではある。では実際何なのか。記憶を辿ろうとしたキーンより早く、セレッソがからかうように声を上げた。


「あなた、“王の舌”って話知ってる?」

「桜参道にあった王国の話か」

「それ。んでそこの王家に連なる家は代々、当主に職杖しょくじょうを受け継いでると」

「……伝聞によれば、杖には雫型の柘榴石ざくろいしがはまっていたそうだが」

「それは王笏おうしゃく。じゃあ問題、王の舌に王様がプレゼントした名前は?」


 少しばかりの沈黙がそこにあった。

 やがて、付き人は言葉を紡ぐ。


「――めい千言せんげん

「だーいせーいかーい。あなたが選んだのは名家の職杖から毟ってきた石でーす」

「おい」

「しょーがないでしょ。職杖を修理するからその時に石も取り替える、外した石は自由に使っていいって、そう言ったのは王の舌本人よ」

「初耳だな」

「そりゃ内々の決定だからね。アーミラリだってこんなこと知りゃしないよ」


 饒舌に語りながら、セレッソは色付き水晶入りの宝石箱の蓋を閉めた。あ、と思わずキーンは声を上げ、しかし何をするでもなく、カウンターの上で諸手を組み、苦悩するように小さく俯く。途端に二人の間へ静寂が割り込み、辺りには形容しがたい緊張の糸が張り詰めた。

 それを断つのは、包丁の呟き。彼の視線は何処か慎重さを帯びてセレッソの手元に広げられたデザイン帳を検め、そしてまた自身の手元に戻る。続けて放たれる声は、その心根が読めぬほど微かな感情が滲んで、確かに掠れていた。


「千寿菊、か」

「ん?……うん。王の舌には色々と逸話があってさ。元々奴隷だったとか、銀の脚をしていたとか、王墓に植えた桜が今も遺ってるとか。――でも、私はもっと違う話が好き」


 滔々と語りながら、傷と荒れの痕も色濃い手で、かりかりと紙にペンを走らせる。キーンはその声に何も言わず意識を傾け、セレッソは澱みなく下書きを清書していきながら、ぽつりぽつりと思い出したように声を零していった。

 ある時に王が弾劾された。その一言から、物語は紡がれる。



 ――王のまつりごとに隠れて民を虐げていた、一人の貴族がいた。男は己の卑小さと悪意の露見を恐れ、自領の民を煽動し、王に己の卑しさをなすり付けんと謀反を起こした。果たして男の企みは成功し、王は玉座より引きずり下ろされた。

 ――煽られた民は静まるところを知らず、かつての横柄さ横暴さを今かと詰り、王城の門の前に仁王立つ王へ石を投げた。身を砕かれた王は何も言わず門の前を塞ぎ続け、然れども両の脚を砕かれ遂に地へ倒れた。それでも尚沈黙を守った王に、民衆は武具を振り上げた。

 ――その時、臥した王の前に一人の男が踊り出て、これを庇った。

 ――よい身なりをした、義足の男だった。


‟待たれよ、皆の衆! 何ゆえ王に刃を向けられるか!”


 ――男は猛る民衆に叫んだ。王の舌たる男が現われ、民は揺れた。

 ――男に叫び返す者がいた。民衆の不満を後ろから煽り立てていた、貴族の男だった。


‟王の暴虐の為に。王は民を重圧し、いたずらに穀倉を開け閉てし、人の純潔を蹂躙した。かの王はおみと民を惑わす。かの昏迷は正されねばならない!”

‟世迷い事を申されるでない、貴殿は全体何十年前の話をしていると言うのだ! 確かに王は足らぬ者であったやもしれぬが、今は斯く変わられたではないか!”

‟貴様に何が分かると言うのだ。王は十人の乙女と二十人の妻を手篭めとし、その夫とその友四十人の首を飛ばした。苦言あればその臣を馘首かくしゅし、喘ぐ民よりその家財を搾取した! この罪科は見逃されてはならず、風化してはならぬ!”

‟黙れ、盗人風情が!”


 ――温厚だった男が、その時初めて罵声を口にした。諌めるでもなく責めるでもなく、ただ男を罵る為に放たれた声が、貴族の男を縫い付けるよりも堅固に黙らせ、猛り昂ぶっていた民をにわかに冷ました。

 ――男は晒した。貴族の男が為してきた罪の数々を。それを王が知ることを。知るが故に狙われた乙女を城へ招き、虐げられた妻を夫から逃がし、一冬の蓄えを解放し飢饉ききんを遠ざけたことを。そして、己に擦り寄る背徳の輩を遠く退け、真に玉座をけがす者の罪を断たんとしたことを。

 ――男は綴った。王との出会いを。打ち捨てられ死にかけた己を拾った腕の温もりを。病に臥せば寝ずに看病し、知恵熱に唸れば嫌な顔一つせず新たな示唆を与え、解けたよろこびを己のことのように分かち合った幼い頃の日々を。少ない言葉の裏に隠れた王の偉業を。そしてそれが、己の言葉を受けるよりもずっと前から為され続けてきた事実を。

 ――男はそして、嘆いた。


‟かつての王を嬲る貴方達は、それと何が違うのだ”


 ――民は、遂に王の首を落とせなかった。



「…………」

「あたし、このくだり好きなんだよ。優しくて愚直で、聡明な王の舌らしい話で」

「王の舌の人柄に関しては俺も同意だ。だが、セレッソ。それと花に関係が?」


 思えば、素朴な疑問だ。かくも長い、しかも手元のデザイン案とは関連の薄そうな物語を聞くほど複雑な話ではないように、キーンは思う。そして事実、セレッソはどうやら、深い意図があってこの話をしたわけではないらしい。

 かりかりとペンの走る音に、アルト調の声が緩く絡んだ。


「別に。ただ何となく、王の舌は千寿菊マリーゴールドが好きだったなって、そんなこと思い出しただけ。それにあなたと彼、よく似てると思うよ」

「俺はかの者ほど慈悲深くはないが」

「嘘つけ」


 キーンの謙遜をばっさりと切り捨て、清書を終えたデザイン画に消しゴムをかける。その拍子に揺れたボトルチャームの中の宝石が、横から差す細い陽光に煌めいた。束の間そちらに意識を取られたキーンは、しかしすぐに視線を外して手を組む。女性の頭などまじまじと見るものではない。

 ふいとそっぽを向いた大男の、使い込まれて磨り減った出刃包丁。その刃を覆う鞘にこびりつく、拭っても未だ取れぬ血をちらと眇めて、セレッソもまたすぐに手元へ視線を落とし直した。


「そう言うとこだよ、付き人さん」


 くすくすと微かな笑声を最後に、二人の物の会話は緩やかに途絶えた。

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