六十五:来客
赤茶色の煉瓦を組んで作られた壁、緑青色の三角屋根。樫の扉のノブには『開店中』の札が下げられ、洒落た小窓のカーテンは開け放たれて、吊り下げられたプランターの中では小さな桃色のバラが花開いていた。
時刻は昼三時過ぎ。双子だった兄妹の営む仕立て屋『TAYLOR SISS & PINS』と、そこに一人遺されたピンズは、柔らかな静けさの中で人を待つ。
とは言え、仕事をせず無為に過ごしている訳ではない。裁断台の傍に椅子を出し、自分で淹れた紅茶と焼菓子を供にして、縫製士は黙々と布を弄っている。刺繍枠にはめ込まれ、ぴんと張った焦げ茶色の布地には、金の糸で葡萄の葉と実が縫い取られていた。
近く
模様を一つ縫い終え、糸を切って小休止。紅茶の入った杯を持ち上げようとした丁度その時、今まで沈黙を保っていたドアベルが音を立てた。振り向けば、そこには三十路ほどの男が一人。半開きの扉にもたれ掛かるように立つ物を、彼女はよく知っている。
「久しぶりね、アル」
「嗚呼――シーナ。もう五年になるか」
格子の入った白シャツ、茶色いスーツ、黒い外套、踵の高いブーツ。
アル、もとい
ゆっくりとクロッカーが座面についたことを確かめ、ピンズは客人へのもてなしの準備を進めにかかる。そのきびきびとした働きぶりを眺めながら、彼は堪えるように外套の上から脇腹を押さえた。
そんな友人の様子に気付いているのか否か、ピンズは新しく出したカップとソーサーを作業台に置きながら首を傾げる。
「怪我でもした?」
「少し。別状はないさ」
そのようには見えないが。喉まで出かかった言葉を、ピンズは飲み込む。
結局は無言を保ったまま、縫製士は
「私がやるわよ」
「……ありがとう」
覇気のない声が溜息と共に転がり落ちて、押し殺された呻き声に塗り潰された。はっとして視線を向けたピンズに対して、クロッカーは微かにかぶりを振るばかり。庇う手は何かを掻き毟るように握り締められ、折角仕立てたシャツに大きく皺が寄っている。しかし、それを仕立て屋として諌めたり責めたりすることは、ピンズには出来なかった。
再び店主は友人の傍を離れる。その足で店の出入り口へと向かったかと思えば、ドアに掛けた札を『準備中』に変え、そして鍵をかけ人の出入りを断った。
ドアの覗き窓にカーテンを引き、ブラインドを下ろして、店内に流していた有線放送も止め。絞り気味の照明だけは点けたままで、ピンズは慎重にクロッカーの差し向かいまで戻ってきた。一方の彼はと言えば、相変わらずシャツを握りしめたまま、堪えるように息を潜めて椅子に背を預けている。見るからに尋常ではない。
少考し、再び裏へ。二階の居住スペースへ上がり込み、薄手の毛布を取って下りてくれば、友人からは何処か朦朧とした視線が投げられた。それを遮るように男の広い肩へ毛布を掛け、念を押すように手を載せる。触れられることに慣れぬ友人は、思いの外強く叩かれたことに須臾身構え、そして気付いたか諦めたかのように力を緩めた。
それでも、痛みを堪えるように全身が硬直しているのは変わらない。仕立て屋はそこまで読み取った上で、親友として言葉を引っ張り出すのだった。
「少し寝たら良いんじゃない? 注文は後で聞くわ」
「いや――」
「大丈夫、いいの。……貴方が何したのかは聞かないけど、今日は誰も来ない。予約は入ってないし、仕立て屋に一見で入るひとも居やしないし、閉めた店に押し入ってくる馬鹿も多分いないはずよ。だから、ゆっくり休んで」
クロッカーが抱えている事情は知らない。それは事実だ。
しかし、だからと言って無知ではないし鈍くもない。彼が何か、一般人には聞かせ難い陰惨さを抱えていることくらい、彼女でなくとも察せられる。更には、今の彼がとてもではないが普通に振舞えるほどまともな体調でないことも。
此処でピンズと他の尋常な物との違いを述べるとすれば、彼女はクロッカーが抱える不穏さやあらゆる損得を抜きに、友人の立場から施しが出来ることだろう。そして、そうした行為を惜しまぬ精神性の持ち主であることを、彼は知っている。
故に、掛けられた労わりに対して、クロッカーは至極素直に身体を預けた。
「……すまない」
「良いのよ、貴方だもの」
何でもないことのように笑い、無防備に背を向ける。その所作一つが、一体全体どれだけ強固な信頼の下に成り立っているのか、知らぬは無邪気な仕立て屋ばかりだ。
「針山のお嬢じゃありませんか。ご機嫌麗しゅう」
「あら。貴方……名家の」
「
「ちょっと、疲れちゃって」
厄介事とは、常に予期せぬ方向から降ってくるものである。
クロッカーを寝かせ、案内人から請けた仕事の続きに取り掛かってからおよそ二時間少々。布地に刺繍を入れ終わっても目を覚まさぬ友人を置き、表のプランターに水をやっていた彼女へと声を掛けたのは、何やら物々しいアタッシュケースを提げた男だった。
一介の民草であるピンズですら知る者だが、普段人の街で暮らす彼が、何故今この場に立っているのかは流石に知る由もない。
そして、生半な隠し事が彼に通用しないことも。
「
「あの話はやめて、思い出したくないの」
「こりゃ失礼。……安心、は出来ないかもしれませんが、ステアリィの旦那は無事ですよ。それに駅長殿も、少し前に目を覚ましたそうな」
「本当? オンケルも物の街に居たのね」
「あまり詳しく聞いちゃいませんが、ともあれ直に会って話してますよ。元気そう――と言うにはまだ傷が塞がっちゃいませんが、峠は越えたようで」
「そう」
それは良かった、と胸を撫で下ろす。
ステアリィもオンケルも、あのような惨禍に巻き込まれていい物ではないし、そのせいで命を落としてもいい存在では尚更にない。助かったならば、それに勝る幸いはないだろう。
心傷を毟られた動揺が少しばかり和らいだ所で、蛇の目がサングラス越しにも分かるほど鋭くピンズを睨む。殺意や害意ではなく、一厘の隙にさえ漬け込もうと画策する者の目だ。否応なくまた身を固めた女に、脅しの篭った声が突き刺さった。
「で、お嬢。一体何をお隠しで?」
「何も隠してなんかないわ」
「は、嘘は良くありませんな。針山のお嬢、貴女は私らにとって邪魔なものをお隠しでいらっしゃる。あまり突っ撥ねても良いことはありませんよ」
「あなた達の事情なんて知らないわよ。そんな風に脅されなきゃいけない理由だってない」
「……少し、怖い思いをしないと分かりませんか」
大きな諦めと、少しの苛立ち、微かな疲労。そんなものを溜息と混ぜた声が、石畳の上を転がり落ちた。そうピンズが知覚すると同時に、目の前から地潜が掻き消える。
あっと言う間もなく、二メートルほどあった間合いを男の脚が潰し、女の華奢な肩を武骨な手が掴んだ。薄い筋と骨が軋り、痛みに呻いた細い喉に、いつの間にか抜かれたナイフの刃が当てられる。
――彼は、決して気のいい家政夫などではない。文に長け武に長け、眼隠の筆頭の第一側近として辣腕を振るう、厳格なる公安の者なのだ。最終的な目的の為にはか弱い一介の婦女子を引っ立て、逆らえば傷付けることすら厭わぬ。
今にも切り刻まんと力の込められた凶刃、そのぎらつきを視界の端で捉え、ピンズは微かに息を呑んだ。しかし、言え、と脅迫の槍が突き立てられても、彼女は小さく首を振るばかりだ。
「私ゃ最悪最低の殺人犯を追ってるんですよ。この名家の御膝元に麻薬を持ち込んで売り捌き、何の罪もない民間人を薬漬けにして殺し、今も大手を振って歩いてるクソみたいな奴を。お嬢からはね、こんなことは言いたかありませんが、そのクソの臭いがする」
「……知らない、っ」
刃が首筋に触れた。
冷たい。
「嘘は、良くありませんね、お嬢? 貴女が詳細を知ってるか知らないかなぞ関係ない。貴女はただ、その店の中に匿ってる輩を、こっちに引き渡してくれるだけで構やしないんですよ」
「何も隠してないってば!」
「いい加減にしませんか」
いよいよ男の声が低くなる。
しかし、その先を地潜が言うことは、
「離れろ……!」
低く、低く。怒りに黒く煮え立つ声が、真横から耳へと入り込んできた。
悪寒が背に走る。瞬時に本能が警鐘を鳴らし、それに従って声と正反対の方へ飛び退けば、ナイフを
古めかしい型の茶色い三揃い、膝下まで丈のある黒い外套。革手袋を着けた左手には先程まで己が握り締めていたはずのナイフが握られ、右腕が庇うように震えるピンズを抱き寄せている。その首から上は、幾重も折り重ねた黒い布で覆い隠され判別出来ない。ただ、カチカチと振り子の揺れる音が、抑えようもなく石畳に転がった。
――服装と
ジャケットの内ポケットへ手を差し入れ、隠し持っていた予備のナイフを引き抜く。掛かってくるなら来いとばかり構えた男を前に、しかし彼はそれ以上何もせず、手にしたナイフを間合いの丁度真ん中めがけて投げ捨てた。甲高い音を立てて転がったそれに、地潜の碧眼が一瞬落ち、そして疑うようにクロッカーへと向けられる。
「何のつもりですかい」
「私の友人に乱暴狼藉を働くのは止めて頂きたい。何の因果もない女に刃を向けるなど、おおよそ公僕とも思えんことを仕出かすな」
「貴方にだけは言われたかありません。止めさせたいなら大人しく捕まってくれませんか」
「生憎だが貴方方に断罪される気も謂れもない。私のことは私自身でけりを付ける」
きっぱりと言い切った罪過の権化に対して、公安の男が返したのは無言の圧力。言い分を信じなどしない、そんな主張を言外に語る地潜に、失意の嘆息が虚しく突き刺さる。
未だ震戦の止まらない友人をそっと背後へ押しやり、店に戻っていろと重々言い含めながら、一歩前へ。両の手をだらりと脇に下げた、武器を持つ者に対してあまりに無防備な格好で、クロッカーは石畳の上に仁王立った。漂う沈黙は、信頼すべき友人が確かにその場から退き、気配が消えるまでの待ち時間だ。聞き耳を立てようとしていたのか、不安と好奇心の混じったような気配がしばらく扉の前に留まり、やがて観念したように離れていった。
そうして喉から溢れ出すのは、苦しい呻き。
「今朝、恩人を殺した」
「……何故?」
「実験は失敗した。近く彼は人を襲う“粗悪品”と化しただろう。汚染された実験動物は実験の後厳密に処分しなければならない。違うか?」
「クソみたいな理屈に同意を求められたところで、私にゃ分かりかねますな。此処であんたを逃しちゃいけないってことは分かりますが」
再びの嘆息。また一歩間合いを詰める。
「何も意味は無かった。弱者から強者まで、老若男女のあらゆる人種、状況、調合、どれも意味は無かった。何度実験を繰り返しても、何度結果を吟味しても、そこに結果など、残りはしなかった」
「はっ! あの麻薬密売が実験だと? で、実験だから見逃してくれとでも言う気ですかい? 本気で言ってるなら貴方は屑以下ですよ」
「そうだ、どれもこれも実験だ。そこには
「……じゃあ、良いでしょう。言い分を信じるとして、貴方のせいで街が一つ地図から消えた。貴方のせいで消えない心傷を負った女が隔離病棟で頭を抱えている。貴方のせいで存在意義を見失った物が大勢死んだ。とても単純に、貴方は見逃せないほど法を犯している訳ですが、それについては?」
「何も」
短い言葉が零れ落ちる。
その声は、隠しおおせぬ疲労に掠れていた。
「貴方達のやり方で償えるなどと思ってはいない。償う気も、ない」
「ほぉ。それで私が納得するとでもお思いですか」
「微塵も思っていないが、それは私の存在意義だったものだ。牢獄に閉じ込めようが刑務に
「詭弁ですね」
「そうだろう。元より貴方達と交わした議論が収束するなどとは思っていない。何処まで行っても、所詮私と貴方達は影と光だろう」
深い影を落とした声が、虚空を不安定に揺らし。
蛇と物の視線が絡み合った刹那、両者は同時に地を蹴る。
「なら力ずくでも来てもらうまでですよ!」
「断る」
地潜の繰り出した
様子見の一合を潜り抜け、しかしてどちらも退かず。殴り合いでは埒が明かぬと思ったか、公僕は制圧から捕縛へと己が身体捌きを切り替える。対するクロッカーは、掴みかかってこようと構える男に半身を向け、羽織った外套の身頃に片手を隠しながら腰を落とした。
その時。
真上に感じ覚えのある気配が現れたかと思うと、何やら不穏な影が差し――
避ける間も無く、地潜は頭から熱湯を被ることになった。
「どわっちぃい!? あづっ、あぢぢぢぢっ!」
高所から落下した時に少し冷えたとは言え、軽く火傷する程度には熱い湯である。地潜は堪らず頭を押さえてうずくまり、クロッカーはと言えば、湯がぶちまけられる直前に後ろへ飛び退っていた。
少しの衝撃が去り、地上のものどもが揃って上を振り仰げば、そこには蓋の開いた電気ポットを抱えて窓から身を乗り出すピンズの姿が。大火傷に至っていないことからして、沸騰する前のものを引っ張り出してきたらしい。だが、それにしても水ではなく湯を使う辺り、中々に容赦のない女である。
恨みがましく見上げる公僕へ、ピンズは誇らしげに声を振り落とした。
「ざまぁ見なさいこの似非やくざ! 店の前で喧嘩なんかするからよ!」
「こんにゃろ、お嬢ォ! 私ゃスキンヘッドですよスキンヘッド! 人間の地肌に湯はちょぉーっと酷かありませんかね!?」
「水じゃ反省にならないでしょうがぁーっ!」
「だぁっぢぃいっ!」
喚きながらの熱湯第二弾。まだポットの中に残っていたらしい湯が再び蛇の禿頭に直撃し、悲鳴が路上を飛んでゆく。ここで流石の公僕も、これ以上上からものを落とされるのには堪えられぬと判断したか、真っ赤になった頭を抱えながらよろよろと店から離れた。
そんな二人を、クロッカーは黙々と眺めやるばかり。一頻りぎゃんぎゃんと騒いだ後の沈黙に、柱時計の無感情な視線が棘となって突き刺さる。
「……私が注文しに来たのは事実だ」
「どうだか」
「実験は終わったと言っただろう。此処へは全くの私用で来て、彼女は仕立て屋として私を招き入れようとしている。ついでに、言っておくが注文は勿論出来ていない」
「そーよそーよ、営業妨害よ」
「さっきまで疲れてるから店は閉めてるっつってたでしょうが貴女は!」
「何とんちんかんなこと言ってるの、私は自営業よ? なら開けるのも閉めるもの勝手じゃない。疲れてたって、友達が来れば
勝ち誇ったように返され腹は立つが、言っていること自体に不審な点はなく、最早ぐうの音も出ない。その内に
びしょ濡れになったジャケットを脱いで水を絞り出し、絞ったせいでしわしわになったそれを小脇に抱えて、放り出したアタッシュケースを回収。ついでに顔に掛かったままの湯を拭おうとハンカチを引っ張り出したものの、ジャケットの胸ポケットに入れていたばかりに同じく濡れて使い物にならず、仕方なくシャツの袖口で拭く羽目になった。
そして、そんな男に、クロッカーはそれ以上興味を示さない。ふと気付けば、地潜の周囲には犬の仔一匹の気配もなく、仕立て屋の二階の窓も閉ざされて、辺りには眠りに落ちたような静けさが広がっていた。
「実験、ねぇ……」
仕立て屋の扉を眺めながら、ぽつりと転がした蛇の声は、静謐の中にただ消えるのみ。
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