六十三:残留
「どうして、薬を押し付ける方になっちゃったんでしょうか」
アザレアが漂う静寂を打ち破るまでに、時は多くを必要とせず。
痛ましげに、憐れみを込めて石畳を転がった少女の声に、物殺しの言葉が重ねられた。
「結局麻薬の抜き方が見つけられなかったから? それで自棄になって、あんなことをするようになったって言うんですか」
「……さあな。奴とそれなりに深く関わった自信はあるが、だからって個人的な感情や過去を全部ぶちまけてくれるほど仲のいい間柄でもなかった。おれは、おれの実体験と勝手な推測を話してるだけさ」
酷く疲れたような、溜息混じりのフェイリャーの声。吹き抜ける風に乗り、遠く消えゆくその響きに、アザレアは何を思っただろうか。膝の上で強く両手を組み、微かに眉根を寄せて俯いていたかと思えば、弾かれたように跳ね上げた。
高い位置で括った髪を揺らし、振り返る。けれども、虎眼石の双眸に映るのは人気のない裏路地の石畳ばかり。商店の軒先に据えられた鉢植えの
勘違いだったのだろうか。疑問符を心の中に浮かべながら、ゆっくりと身体を戻したアザレアに、どうかしたかと尋ねるはクロッキー。物殺しはそれに答えぬまま小さく首を振り、ちらとフェイリャーに視線を送った。対する男も視線を飛ばし返す。
一瞬の目配せの間に、どんな意志のやり取りがあったのか、クロッキーには分からない。しきりと首を傾げる少年に対して、言葉を投げたのはフェイリャーだった。
「二人とも、昔話はもう終わりだ。おれが話せることはもうねェ、とっとと行っちまえ。いい加減あの大男も、名家の御嬢ちゃん捕まえてる頃だろ」
「う、うん? でも、フェイリャーさんはこれからどうするのさ」
「どうも何も、場所変えてまた客待ちだよ。路地裏は客足がシケてていけねェ」
「本当に、それだけなの」
クロッキーの、今にも泣きだしそうに細い声音に、刹那返す言葉を失った。
生返事を返しながら、少年をまじまじと観察する。手に巻かれた包帯、煤で黒く汚れたスニーカー、裾の焼け焦げた
――そして、自然に癒えるものでもない。
即ち、少年は死期が近いのだ。今でこそ平気そうに振舞って物殺しと行動を共にしているものの、それは
なればこその、問いであろう。
半壊した頭を背後の壁にもたせ掛け、フェイリャーは諦めたように笑う。
「おれは還されたい相手が決まってるもんでな。少なくとも御嬢ちゃんじゃねェ。よってお前が気にすることでもねェ」
「それって――!」
「行けよ少年。お前等は此処で死んでいい奴じゃねェだろ?」
煙草を手挟む左手をさも邪険そうに振り、しかし言葉は絹のように柔らかく滑らかに響いて、二人を遠ざけた。
それでも尚食い下がろうとしたクロッキーの腕を掴んだのは、隣でやり取りを静聴していたアザレアである。虎眼石の輝き潰えぬ
ただでさえ非力な生まれに加え、休息を摂ったとは言え満身創痍の身では抗うべくもない。なす術もなく立たされたクロッキーの、非難を隠そうともしない視線を受け止めながら、アザレアは空いた片手を軽く握り込む。
ふっと、微風が一陣。長い茶髪を揺らしながら掌の中に集まり来たる白い靄は、瞬く間に一輪の花を
ややあって、物殺しが男の手元にそっと捧げたのは、季節外れの
「……さよなら」
物殺しからは何の説明もない。戸惑いも露わに花を取ったフェイリャーの方を見ようともせず、アザレアは未だ不服そうに突っ立つクロッキーの腕を強く引き、足早に石畳を蹴る。
尾のように長い髪を
足音が潰え、姿が隠れ、気配も消え。
辺り一帯を静寂が覆い始めた頃に、傷めた喉は再び声を零した。
「恨まれてるねェ、お前は」
しみじみとした声音は、席巻する静けさを緩やかに払って御影石の
格子柄のシャツ、焦げ茶色の三つ揃い、黒い外套。首元にアスコットタイをきっちりと締め、足元は踵の高いブーツで固め、革手袋で手元も隠している。首から上に鎮座する紫檀の柱時計は相変わらず艶やかな年季が入り、金の振り子が静かに時を刻んでは、差す陽光に眩く煌いた。
クロッカー。世間一般で忌々しく語られる彼の名とは、そのようなものだ。
しかし、フェイリャーにとってみれば、彼の名とは
「久しぶりだな、アルフォンス」
「ええ、どうも。お久しぶりです」
アルフォンス。それが、フェイリャーの知る彼の名である。対するクロッカーも否定はせず、喉元を滑り降りる名を素直に飲み下して、黒百合の花を手持ち無沙汰に転がすフェイリャーの傍に歩を進めた。
一歩踏み出せば掴みかかれるほどの近距離に己が身を置き、足を止める。差し向かいに座る露天商は、動かぬ男の足元にじっと視線を落としていたかと思うと、立てかけていた杖に縋ってゆっくりと立ち上がった。さして背高でもないクロッカーからすれば、男の壊れかかった寄木箱の頭は、僅かながら見上げる高みにある。沈黙は保ったまま、しかしながら何処か恨めしげな感情の滲む視線を受けて、フェイリャーはおかしそうに肩を軽く竦めた。
「何しに来たんだ。またおれを実験台にしに来たかい」
「それも良いかもしれませんが、止めときましょう。僕が破壊したいのは
「それじゃ何の用だ?」
男の問いに、クロッカーは僅かな沈黙。
須臾張り詰めた静謐の糸を、フェイリャーが訝るよりも早く、ぼろ布に隠された喉元に銃口が突きつけられた。
「よくもまあ、僕のこと物殺しにべらべらと喋ってくれましたね。おまけに要らない推測まで付けて」
「ははぁ、あの御嬢ちゃんにプライベート探られたのが気に入らねェってか。だが、口封じには遅すぎやしねェかい」
「ええ、今更も今更すぎますね。ですからこれは、単なる僕の八つ当たりです」
平坦な調子で言い返しながら、革手袋に包まれた親指で、ゆっくりと撃鉄を起こす。引き金に人差し指を掛け、少し引けば銃弾が飛び出す段になっても、フェイリャーには動揺もなければ恐怖の色もない。凪の水面の如く静かに佇む暗殺者の残骸を、クロッカーは検分するようにじっと見つめて、両者の間に横たわっていた一歩分の距離を詰めた。
ずたずたに裂かれ、完治せず皮の引き攣れた首の真上。撃てば間違いなく当たる近距離に――否、最早喉元へ食い込ませるいほどの勢いで銃を近づける。それでも、対面の男に恐れの色は浮かばない。ただ、成り行きを見守るだけだ。
一秒。二秒。三秒。柱時計の振り子が時を刻み、やがてかの物の纏う空気が、深い失望に揺れた。
「貴方は……僕を、止めてくれるんじゃなかったんですか。絶対に止めてみせるとあの娘に吐き捨てたあれは、見栄っ張りの嘘だったんですか?」
「――――」
「大言壮語も虚言も妄言も、もううんざりです。僕が欲しいのは結果だけなんですよ。理論でも理想でもない、確かな事実さえこの手にあれば、僕はそれで良かった」
搾り出すように呻いて、ふと自身の口走ったことに意識を向けたらしい。はっとしたように微か息を呑み、クロッカーはそれきり押し黙った。
再び、静けさが裏路地を支配する。きりきりと張り詰める音さえ聞こえそうな緊張の中で、暗殺者の左脚が石畳を
「お前の親は、噤の中じゃ参謀役でな。頭は切れるが、腕力はあまり無かった。抗争だの戦争だのと言うのは武闘派の部下に任せて、自分は裏で作戦立ててるような男だったよ」
「だから何だと言う気ですか。
「そうだな、お前は百年で親も持ってない暴力を手に入れるに至った。片やおれは有ったものをほとんど失くした。家と思っていた場所も、家族と慕った奴等も、金も名声も、自分の手脚も。全部だ」
「だから止める力など無いとでも? そんなものは言い訳でしかない」
「誰もンなこた言ってねェ」
そう誰も、目の前の男をどうにも出来ないなどとは言っていない。どれほど落伍しようとも、どれほどに尾羽打ち枯らそうとも、如何に多くを喪ったとしても、フェイリャーにはまだ残っている。
裏通りの暗殺者から漂泊の行商人と転身し、五体満足の身から隻腕隻脚の身に成り果てた彼が、それでも捨てられなかったもの――
「っが、は……!」
「よお、立てよアルフォンス。命投げ捨てて掛かってやるから、お前もかなぐり捨てて殺しに来い。お前が滅茶苦茶にした半生全部くれてやるから、嫌ならおれを還してみせろよ」
捉えられぬ速さでかの物の胸を抉る杖、その先をクロッカーごと石畳へ叩きつけながら、半壊の物は朗らかに笑ってみせた。
「どうせおれは、いつか気が狂って誰かに殺されるんだ。だから命懸けで止めてやる」
「はは、はっ……期待、してますよ」
おぞましいほど快活として語るフェイリャーへ、クロッカーが返すは嘲笑と期待。
握り締めたままの自動拳銃が悠然と掲げられ、そして火を噴いた。
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