六十二:古疵
「……おれの前から奴が消えてから、十年くらい経った後だったか」
水を打ったように静まり返った裏通り、そこにフェイリャーは思い出したように声を零した。
否、ただの小洒落た飾り物ではない。よくよく検めれば、ねじ留めされた二枚の板の間にもう一枚、薄く鋭い鋼鉄の板が挟まっている。それが何かなど、最早つらつら考える必要すらない。
「フェイリャーさん、これは」
「ちと前に手に入れた物だ。大昔の御婦人が護身用に持ってた奴でな、刃の部分はおれが研ぎ入れといた。すぐに使えるぜ」
ついでに細工のところも綺麗に磨いてやった。そう自慢げに胸を張る露天商に、アザレアはいきなり武器を渡された戸惑いを残しつつも、まずは大事そうなものをくれたフェイリャーへ感謝を。そしてまじまじと観察し、使い慣れてきた得物によく似た武器であることを確かめてから、もう一度深く頭を下げた。
一方のクロッキーは、驚き慌てを数回繰り返して感情が一周回ってきたのだろう、哀れなものを見る視線を露天商へ注いでいる。
「女子へのプレゼントにナイフって、フェイリャーさん……流石に悪趣味っていうかさ。そのチョイスは無いんじゃないの」
「プレゼントじゃねェ必要経費だ。御嬢ちゃんは今丸腰なんだろ? 物殺しが出歩くのに何も持ってないんじゃ格好がつかんぜ」
「それにしたって……」
「いいのクロッキー、言ってることは本当だから。前に貰ってた分は全部盗られちゃったし、何処かで買わなきゃとも思ってた」
「そ、そうかなあ?」
尚も可哀想な物を見る態度のクロッキーを苦笑いと共に宥め、鞄ではなく服の内ポケット――プラムの貸してくれた服には、何故やら意味深長なポケットやホルダーが取り付けられていた――へナイフを仕舞い込んで、返す手で鞄から財布を取り出す。蓋を開いた途端現れた紙幣を指の腹でなぞりながら、代金はいくらと尋ねれば、露天商は少し考えてから金額を提示した。
アザレアが名家から頂いた内の、ほんの何十分の一。女子高生が買うには高すぎて手が出しにくいほどだが、何せぎっしり詰め込まれた大金の束を所持している今だ。命を預ける道具と言うことも相俟って、物殺しに躊躇はなかった。
「おーおー、随分えげつねェ小遣いだねェ」
「名家の人のせ――お陰です」
「嗚呼、あの連中。……そうさな。あいつら結局、今日まで奴のことどうにも出来なかったもんなァ。自分じゃ護れねぇから精々自衛しろってことなんだろうよ」
たっぷりと皮肉の篭った言葉だった。
対するアザレアは、複雑な表情と感情を隠せない。彼等の助力で貞操と命の危機を免れた身としては名家を悪く言われたくはないのだが、フェイリャーの声音には気分だけで抗しがたい説得力が滲んでいる。恐らくは名家のものに助けてはもらえなかったのだろうと、察するのは容易だった。
もやもやと思案に耽る少女を鼻で笑い、男は欠けた右腕を宥めるように摩った。
「奴は十年後、おれの前にもう一度現れた。じっと俯いて、左手にでけぇ鞄を提げて、何処から調べたのかおれの家に訪ねて来てよ。勿論警戒はしたが、何せあの酷ぇ現場から引っ張り上げた奴だ。
「ちょっとうっかりしすぎじゃないのフェイリャーさん……」
「あのなァ少年、おれァ噤が無くなった後すぐに裏から足洗ったの。
クロッキーの茶々には不貞腐れた抗弁。当の本人も迂闊だったことは自覚しているらしい。罰が悪そうに煙草をひと吸いして、紫煙と共に声を吐き出した。
「まあともあれ、奴は逃したときよりも随分明るくなったように見えた。物腰は柔らかくなってたし、おれの振った世間話に笑いながら答えもした。向こうの方から冗談を言うこともあった」
「全然信じられないんですけど」
「御嬢ちゃんは未来を先に見ちまってるからな。それに、その時のおれは親のことを泣きながら喋る奴しか知らねェからよ。『結論』を見つけて吹っ切れたんだろうって本気で思ったし、そんな呑気なこと考えてたせいで、奴の術中に……」
歯切れ悪く呻き、肘から先の欠けた腕をぐっと握り締めた。
「具合悪いんですか?」
「……ちょっとな。いや、構わなくていい。対処のしようがねェんだ」
指先が、骨を折ったように鈍く痛む。
とは言え、理不尽さへの苛立ちと怒りを目の前の少年少女へぶつけることも出来ない。腕を抱えてじっと耐え忍べば、俯く男の断ち割られた頭を、アザレアの双眸がじっと見つめた。かと思えば視線を石畳へ落とし、自身の腿の上で組んだ手に移し、暫し沈黙。
ぱっと顔を上げたときには、何か面白いことを思いついたような、何とも楽し気な笑みを一杯に湛えて目の前の男を見据えていた。
「フェイリャーさん、悪気とかないので怒らないでくださいね」
「ぁあ?……おうっ」
抗う暇を与えず、少女の
今更女の子に触れられて慌てるほど初心でもないが、意図の分からない接触にフェイリャーは身を固めるしかない。ちらと視線を上げれば、視界の端の方に白い靄がちらついた。何かしらの“案内人特権”を行使しているのだろうが、流石に物殺しへ貸与される特権の内容など知る由もなし、募る一抹の不安に自然と押し黙ってしまう。
黙々と耐える内、物殺しは上手くいったと独り言を零して元の横座りに戻った。
「落ち着きました?」
「ん?……あー」
ずきずきとした痛みが消えている。否、消えてはいないが、和らいでいる。
どう考えても、目の前の彼女が行使した特権による結果なのだろう。だが、
何をした。自然と口をついて出た疑問に、アザレアは事もなげに応えた。
「えーと……鎮静剤? 鎮痛剤? どっちか分かんないですけど、その辺に使われてるらしい花を一番効きそうな形で出してみました。何がどう言う形で出たのかは分かんないです」
「分からんのかい! やたら大雑把だな」
「大雑把な考えでも何とかしてくれるみたいですから。いやまあ、その――まさかほんとに薬っぽく使えるとは思ってなかったですけど。結果オーライってことで、ね?」
「あのなぁ……」
えへへ、と可愛く笑って見せる少女を前に、フェイリャーはがっくりと肩を落とした。
結果オーライとは本当によく言ったものだ。これで企みが失敗していたら、彼女はどんな顔で己を見るつもりだったのだろうか。ある種の諦めと共に想像し、真っ青な顔で慌てるアザレアを幻視したところで、余計な妄想だとすぐに切り捨てた。
ともあれ、話すのも億劫なほどの疼痛はそれなりに解消されたのだから、これ以上は追及しても無駄なことだろう。振り払うように深呼吸を一つして、同時に吸い込んだ煙を虚空に向かって細く吐き出す。
「そんで、話を戻すがよ。奴はおれが目を離した隙に、おれの茶に睡眠薬混ぜやがった。その時の
「気緩みすぎでしょ」
「返す言葉もねェや」
「え、そ、そんなあっさり認めなくても……ねえ、本当に裏組織の物なの?」
危機管理能力のなさに呆れるべきなのか、お人好しもいいところな当時のフェイリャーに同情を示すべきなのか、察知されないほどの偽装能力を讃えるか恐れるかすべきなのか。どれも違うような気がして、クロッキーの声と雰囲気は複雑だった。
対する男は、ふわりと左手を掲げ――その手が迷いなく少年の頸動脈を刈り取ろうと動いたところで、事の成り行きを見守っていたアザレアに阻まれる。先程買い取らせたナイフは折り畳んだまま、しかし何時でも展開出来るように手の内で握り締めて、油断なく手刀の手首に自身の右腕を添えていた。
加減したとは言え、大した反応速度だ。或いは、此方が
「組織ぐるみでやれねェことをするのがおれの役目だ。堅気の衆の中に紛れ、人畜無害を装い、命令を受けたらどんな奴でも背後からグサリ……ま、
「そう言うものなんだ」
「おうよ、案外多いんだぜ。その辺でニコニコ野菜売ってるジイちゃんが実は敵対組織の大幹部でした、なんてのは割とよく見た。ついでに何人かそう言う奴を手に掛けた」
「ドロドロしてるなぁ裏通り」
「堅気がそう言うドロドロを見なくて済むように頑張るのがおれ達だったんだよ。ま、それもクロッカーの“実験”に付き合わされて出来なくなっちまったが」
実験。人に対して使うにはあまりにも物騒な単語である。自然と物殺しの纏う空気が緊張を帯び、釣られたように、クロッキーもじっと声を潜めて続きを待ち構えた。
そんな二人を認めるように点頭し、フェイリャーは静かに続きを紡いでいく。
「確かめさせろ、と奴は言った。自分の探しているものが本当に存在するのか。いやそれ以前に、自分が“奴等”と同じことをして、本当に同じ結果が出せるのか。人間では試した、物でも試した、ついでにその辺の女子供でも検証した。だが遂に同じ結果は出なかった。何百例の実験と失敗を積み上げ、その度に改良していった。今度こそは成功させてみせるから――覚えてる限りこんな感じか。それ以外にも色々言い訳されたが、まあ手も足もガッチリ縛り付けられてる時点でおれに拒否権は無かった」
「……結果が、その傷なんですか」
「いいや、過程だ。奴ァおれに得体の知れねェクスリを打ち始めた。つってもまあ、おれだって曲がりなりにも暗殺者稼業なんぞやってた身だ。痛いだの苦しいだのは耐えられたし、毒だの自白剤だのにも抵抗するくらいの芸当は出来てたんだが」
「駄目だったんだ」
「五日くらいは頑張って耐えたんだがな、その先は無理だった」
でもちょっとは弁解させてくれ。
次に二人から、とりわけクロッキーから飛んでくるであろう呆れの声に先んじて、フェイリャーは手をぱたぱたと振った。そうして切り刻まれた喉から溢れるのは、仕草の軽薄さに見合わぬ陰惨な経験則だ。
「拷問するのに痛めつけるのは分かる。誰だって爪を剥がされりゃ痛い。必要以上に苦しめるのも分かる。息が出来なけりゃヤバい死ぬかもって本気で思うさ。後まあ、おれは男だから
「いろごと、って……え、物に?」
「悪いか」
「いや、だって物……え?」
「物だってヤりてぇ感情くらいあるわ」
妙な所にアザレアが食いついてしまった。思春期の女の子だからと言うわけではないのだろうが、クロッカーに何某か性的被害を受けたであろう身の上でありながら、逞しいものである。
ぱちぱちと目を瞬かせ、羞恥心と言うよりは疑問で一杯の声を絞り出した少女へ、フェイリャーは脱力感を隠せない。
「まあ情事の部分は置いといてさ……御嬢ちゃんよ、幸せなのは好きか?」
「へ? えぇと、そりゃまぁ」
「そうだろ。ところで御嬢ちゃん、噤を壊滅させた『inferinone』だが、実際使うとどう言う症状が出ると思う?」
「症状……よく知らないんですけど、聞いた感じ幻覚とか幻聴とか、後は……」
勢いで言って、ふと思い出す。
罪科の権化の前に、かの“廃物”――ビジョンが立った時の、クロッカーの言葉を。
――身体中から液体垂れ流して、血反吐と一緒に喘ぎ声吐き出してたのは何処の誰です?
喘ぎ声。悲鳴でも苦鳴でも、怒声でも笑声でもない。こんな言葉をわざわざ選ぶ理由など、アザレアには考える余地もなかった。
「もしかして気持ちよくなったりとかするんですか? 本気で? 本当に?」
「勃つのは確かだがよ、御嬢ちゃん。あんた自分の発言を今一度良ぉく振り返んな。おれ今結構恥ずかしいこと言わされたぜ」
どうやら話の流れ的には間違っていたらしい。フェイリャーの顔色は読めないが、路上で自身の息子に関することを言わされた羞恥心やら苛立ちやらは、やや低められた声にじわりと滲み出ていた。
すみません、と間髪入れず頭を下げ、呆れられながらも溜飲を下げてもらって、改めて考える。先程フェイリャーは幸福について尋ねた訳だが、十中八九己の回答へ繋げる為の誘導だったのだろう。ならば、出せる答えは一つしかあるまい。
「さっきの質問ですけど……多幸感って言うんですかね。何て言うか、凄い幸せな気分になるって言うか、癒されるみたいな感覚って聞いたことあります」
「その通り。『inferinone』は作用中ずっと幸せな気分になる薬物だ。その強さは並大抵の麻薬とは比べ物にならん。耐えてた時はまだ何とか自力で現実に戻ってきてたが、耐える気力が無くなった後は駄目だったな。一本打たれただけで半日夢から帰って来れなくなってた」
「ちょっと、先が想像出来るんですけど」
「お察しの通りじゃねェか? そんだけ幸せな気分に浸らされるんだ、切れたら反動で絶望感が溢れてくる。その上で幻覚幻聴が襲ってくる。……内容なんか、言うまでもないだろ」
少なくとも、死にたくなるほど辛いのは間違いないだろう。とは言え、ビジョンの傷を見ていると分からないものもある。
即ち、爪が剥がれ、肉が削げるほど身体中を掻き毟った痕。幻覚に悶えてのたうち回ったにしては、少々違和感を覚える傷である。おぞましい幻覚から逃げようとして引っ掻いたと言うならば、創傷が身体に付く意味はあるまい。
概ねそんな意味のことを問えば、フェイリャーは大儀そうに首を振った。
「女の子に言う内容じゃねェがよ。おれは少なくとも、あの時薄皮の一枚下が全部蛆虫で出来てるって本気で思ってたぞ」
「……は?」
「そう言う幻覚なんだよ。細い
なるほどそれは、抉れるほど掻き毟るわけだ。嫌悪感に顔を引きつらせる中で、物殺しは妙に得心していた。
極限の心身に於ける五感の誤作動と言うものを、アザレアは経験したことがある。丁度兄がその命を絶ち、それまで兄に向けられていた鬱屈が積もり積もった挙句、自身と妹へ向いた初期の頃だ。兄と同じく倉庫に閉じ込められ、食事も水も断たれ、かと思えば突発的に扉が開かれ、謂れなき折檻を繰り返されたあの日々。その最中で、己は一体何度扉の開く幻聴を聞き、そこから現れる母の幻覚に恐怖しただろうか。最早正確な数など覚えてもいないが、あれと似た感覚なのであれば、それは途方もない地獄だ。
顔に出かけた苦い表情を噛み殺しながら、物殺しは無言で続きを促す。その無表情から、フェイリャーは何を読み取ったのか。煙草の先に積もった灰を石畳の上へ落とし、また一吸い。紫煙と共に言葉を細く吐き出した。
「奴の『確かめさせろ』ってのは、多分あれのことだったんだろうな」
「と言うと?」
「
「……脚と、その首はどうして」
「腕が腐り始めた頃くらいに、奴が一旦縄を解いたことがあったんだ。その時に奴が持ってたナイフを分捕って、自分で滅多刺しにした。皮の下に蛆が居るって、本気で信じて抉り出そうとしたんだが、まあ当然いねェよな。そんでヤケクソになって、喉掻き切って死のうとした。――結局、奴が全部治療してくれたせいで死ねなかった訳だが」
つまり。
男の声が、重苦しく石畳を転がり落ちる。
「『inferinone』が抜けた時に幻覚が見えるなら、奴があの時使ってきたのは、麻薬を抜く薬だったんだろう。奴は麻薬に溺れた奴を、何とか引っ張り上げたかったのかもしれん」
「…………」
「治った直後は飛び掛かって殺そうともしたんだがな、その時奴が振り回した鉈のせいで頭が半分にカチ割られて、それでもう一度死にかけた。そこからも生き残ったおれを、奴は月の原の端っこに放り出した。足にお粗末な義足括り付けて」
アザレアからも、クロッキーからも、声は上がらず。フェイリャーはふっと複雑な色の滲む笑声を零し、半分ほどになった煙草を、ぎゅっと石畳に押し付けた。
三本目の煙草を取り出そうとして、手を止め。代わりに、未だずきずきと痛む右腕を、労わるように抱え込む。
「放り出したときの独り言、今でもよく覚えてるよ。あんまりにも憐れで」
「憐れ……?」
「だってよ。まだ、探してるんだろ?」
そう。彼はまだ、見つけていない。
それを知る故にこそ、フェイリャーがくじり出した声は、いつにも増して掠れた。
――今度こそ、見つけたと思ったのに。
――何故だ。何だ。何を探せばいい。私は一体何を探し出せばいいんだ。私はいつまで答えを探さねばならない。いつになったら私は終われるんだ、終わらせてもらえるんだ?
――嗚呼。誰か、教えてくれ。
――
――私はまだ、疲れてはいけないのか?
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