六十:他出

 何をしに台所ここまで入り込んだのか、と言うのが、彼を見た一番の感想だった。


「包丁の旦那、私らとしてはお客人に朝餉あさげの支度を手伝わせるのはちょっと……うちの面子に関わるんですが」

「俺は付き人だがそれ以前に調理道具だ」

「そうですけど、そうですけども。私じゃ旦那のお手前に敵わないのも言い返しようがない事実なんですがね、此方にも家の意地ってもんがあって」


 眼隠の構成員は、時として名家の屋敷の使用人を兼ねる。そして、この屋敷内での家事や諸々の作業は、余程不得手なものが混じっていない限りは全員が同じ仕事を持ち回りで担当するようになっている。

 そのような訳で地潜も今日の炊事場を任されている訳であるが、気付けば隣にはスーツにエプロン姿の包丁ケイが立っていて、己などより数倍卓越した手付きでトマトを切っているのだ。私刑に遭った遺骸を見たとて動じぬ男も、この時ばかりは動揺を隠せなかった。

 地潜が慌てる様を余所に、キーンは黙々と果物ナイフを操ってトマトに飾り切りを入れている。梃子どころか重機でも動かぬと言わんばかりに堂々たる居住まいを睨みながら、男は片手でボウルに卵など割り入れつつ、物言わぬ蛇の刺青を憎々しげに指で突いた。

 物の執着とは凄まじいものだ。げに頑固で引き離し難く、この屈強な付き人相手では力ずくと言うわけにもいきそうにない。だからと言って、このまま野放しにして我が物顔で台所に立たれるのも、それはそれで面子が潰れる。

 どうしたものやらと考えを巡らせ、結論。蛇は蛇らしく、いささか意地汚い手段に出ることとした。


「この御屋敷で私らのやることに手ェ出されるんなら、対価として手間賃をお出ししなきゃなりませんね」

「ほう、これを労働と見做すのか」

「そりゃあそうでしょう」


 付き人の羞恥心に訴えるべく、金の話を持ち出してみる。

 物の行動は概ね自分で自分を満たす為に起こされるものであって、そこに他者からの介入を受けると少なからず動揺するものだ。とりわけ、即物的な価値を付けられることに弱い――そう例えば、クロッキーのように。有体に言えば、褒められた時の照れ方が謙遜を通り越している。

 その素直ではない精神構造を利用せんと、男は思考回路を急速回転。乱舞する思考思索はおくびにも出さず、邪な笑みと言葉で本心を塗り隠す。


「受け取れないなら包丁を置いて大人しくお待ちなせぇ」

「…………」


 果たして、付き人の回答は。


「丁度良い、金に困っていた所だ」


 その悉くが、予想の斜め上を突き抜けた。

 卵を掻き混ぜようとしていた菜箸を危うく取り落としかけ、慌ててしっかと把持。やり場に困った視線を手元に落とし、気紛きまぎれにしゃかしゃかと箸を動かす。調味料を入れ忘れたと気付いたのは、割り入れた卵がすっかり液状になり果てた後だった。

 砂糖を大さじに掬い取り、卵液の中に放り込んで、そこに塩と胡椒も適量。挽器ミルが岩塩の粒を砕く小気味良い音を背景に、ようやく地潜は声を絞り出す。


「嘘でしょう?」

「生憎と真剣だ。俺はアーミラリから知識と武力を持たされたが、財布はおろか貨幣一枚も持たされてはいない。今の手持ちでは物の街にも帰れん。此処を追い出されれば野宿することになるな」

「今までどうやって生活してたんです旦那。流石に引きこもり無職だなんてことは――」

「“粗悪品”を斃した報奨金で賄っていた。墓地の物から毟るのは気が引けたが、全く貰わないのは法律違反だと言うのでな」


 切り終わったトマトを皿の上に転がし、今度はキュウリを手にしながら、キーンはほんの微かに苦笑してみせた。

 しかし、今までの話の何処に笑う点があったのか。男は考えども遂に答えを見出せず、ただ曖昧な相槌を打つばかり。その間にも手は休みなく、傍らのコンロで熱されたフライパンに味を付けた卵液を流し込み、鮮やかな手付きで掻き混ぜていく。

 焼き色が付き過ぎない程度の加減で一面に広がる黄金の楽園を半分に折りたたみ、ほんの刹那押し付け裏返す。同じように裏へも火を通して、即座に用意した皿の上へ。既にレタスとトマトが待機した空き地へと軟着陸させ、刻んだパセリを祝福の如く振り撒き彩りを加える。

 仕上げに掛けるソースの入った陶器を片手に、男は呆れ顔でキーンを睨めつけた。

 瞬き一回。次に開いた空の色の目は、静謐として付き人を見定める。


「どちらが本物の貴方ですか。生かす方か、殺す方か。私に聞かせられますか?」


 試すように問えど、動ずることもなし。


「どちらも俺だ。主に害成すものを遠ざけ、往く道の露を払うぶきであれ。俺の役目はそれ以上でも以下でもない」

「それはそれは、御立派な存在意義で何よりでさァ。……で、旦那が台所に立つことと因果あるんですかそのお題目は」


 話は結局、元の場所へ戻ってくる。うっかりしてキーンに流されそうになったが、元はと言えば止めさせたいから話を切り出したのだ。決して新たな使用人の実技試験をしたいわけではない。

 本日六つ目の卵を割りながら、蛇と包丁は応酬する。


「食事は人間の資本だ」

「確かに。私らでも出来るんですがね」

「そうだろう。だが料理道具に料理をするなと言って聞くと思うか?」

「さあ、どうでしょうね。ですが聞き分けのない未熟物が名家の台所に入っていいだなんて、そんな不敬なこたァ口が裂けても言えませんので」

「御高説耳に痛いところだ、生後一ヶ月足らずの未熟物に言う皮肉ではなかろうが。しかし毒蛇よ、本業が忙しいのは事実ではないのか?」

「ご心配どうも、これも仕事の内ですよ」

「だがお前は家政婦ではあるまい、これにばかり気と時間を取られるのも癪だろう。ならばこれは適材適所と言うものだ。ついでに言えば汽車代も稼げる」


 全員分の付け合わせを切り終え、新しい果物ナイフと林檎に持ち替えて、キーンは依然居座る姿勢を崩さない。いよいよ切る手札も尽き、地潜が口をへの字に引き結んだところで、気配は二人の背後にゆらりと現れた。

 揃って振り向けば、そこには救急箱を小脇に抱えて佇む男が一人。血の滲む傷だらけの手を摩る彼の、その首から上には、半壊した旧型テレビが鎮座している。あまりにも特徴的な容姿だ、最早見慣れた彼らが見間違うはずもない。


「ビジョンとか言うんでしたっけね?」

「ん。少し、水を借りても?」

「どうぞ」


 どちらからともなく半身をずらし、流し台の前を空ける。そこに静々と滑り込んできたビジョンを、地潜は横目に観察していた。

 ずっと着けていた手袋を脱ぎ、手首までを覆うシャツを捲った下には、拷問でもされていたのかと尋ねたくなるほどのおびただしい傷。ほとんどの指の爪が割れ剥がれ、見える肌には幾筋もの引っ掻き傷と擦過傷が刻まれている。見ているだけで手がひりひりと痛みそうな有様であるが、当のビジョンは最早慣れたと言わんばかり。平然と傷を水に晒し、乾いた血を擦り落としては、肉の色も露わな深い傷に消毒液を掛け――悲鳴どころか呻き声も上げない。

 痛みに対する鈍化とは、尋常の物にはおよそ備わり難いものだ。キーンやフリッカーのように戦場へ立つならばまだしも、ビジョンでそれは考えにくい。だが実際に、彼は爪を剥いだ傷をオキシドールへ浸しても、痛がる素振りさえ見せなかった。

 黙々と傷を洗い、絆創膏を貼り付けて、その上から手袋を着け袖を下ろす。結局何も言わずに作業を終えたビジョンへ、地潜は思い立ったように声を投げていた。


「ビジョンの旦那」

「何か?」

「嗚呼……いえ、ちょっとね。貴方に一体何があったか、後で私らに聞かせちゃくれませんか」


 少しの間、静寂が三者の間に横たわった。

 それまで消えていた電源が入ったか、ひび割れた液晶に砂嵐が映る。かと思えば、今しがた治療したばかりの指先がダイヤル式のチャンネルを回し、伴って画像は、見も知らぬ何処かの部屋へと切り替わった。

 コンクリートの素地が剥き出した、寒々しい一室。天井の裸電球だけが部屋を薄暗く照らす下、飛び散った血の赤黒さが、粗く色褪せた描画の中でも鮮烈だった。

 部屋の惨状が何を意味するものか、地潜は知らない。しかし、それでも背に冷たいものを感じて押し黙った彼へ、ビジョンは平坦に告げる。


「きっと、今まで君達が見聞きしたものと同じだ。聞いて面白い話じゃない」

「……正気で私らの前に出てきたのは貴方だけですよ。それだけで万金の価値です」

「そう。で、僕が昔のことを話したとして、君達に何が――何か出来るの?」


 温度のない声だった。意図して出した冷ややかさではないようだが、嫌でも責められているように感じて、思わず閉口してしまう。

 気まずい空気が少し。男の碧眼は作りかけの朝食に落ち、ビジョンは地潜の視線が外れたことで興味を失ったらしい。救急箱の蓋を閉じて小脇に抱え、炊事場を辞そうと踵を返しかけ、途中で止めた。


「何かする気なんだよね?」

「ぁあ、はい。例の、クロッカーに関してちょいと気になることがありまして。今までは犯人を追う方に重点を置いてたんですが」

「そっか、分かった」

「分かった、と言いますと」


 ぎぃ、と床の軋る音一つ。

 出入り口の方へ身体を向け、ゆっくりと確かめるように歩き出しながら、ビジョンは静かに答えた。


「話は、また後で」

「……宜しく頼んます」


 絞り出すような声に一つ頷き、ビジョンのひょろりとした背はそのまま姿を消す。

 後に残った静寂の中で、それまでの馬鹿げた話を続ける気には、二人ともなれなかった。



「わぁ、アザレアお金持ちぃ」

「お、お金は必要だけどこれは、ちょっと、やりすぎじゃないかなぁ……?」


 ――今日は諸事情で屋敷がやかましくなる。よって、息抜きついでに少し外へ出て頂きたい。

 そんな添え書きと共に、カシーレ伝いに名家の当主から渡された分厚い封筒。その中に収められた山ほどの紙幣で、ずっしりと重たくなった紅色の革財布を両手に捧げ持ちながら、アザレアは途方に暮れていた。

 この世界でも元の世界でも、物価は然程変わらない。ちょっとした甘味を仕入れるくらいならば硬貨一枚で済むし、気取ったレストランのメニュー表も常識の範囲内に収まる程度の値段が並ぶ。その中に在って、アザレアが渡された金額は、ともすれば一等地の宿に一ヶ月は連泊出来るであろう額だ。いくらその日暮らしのアルバイト生活で日々を渡っていたからと言って、突然数十万の臨時収入を手渡されては気が引けると言うものである。

 財布を開いたり閉じたり、中の紙幣を引き出したり戻したり。落ち着かぬ様子で金を弄ぶ少女の耳が、臆面もなく開かれる扉の音を捉えた。

 一旦意識を手元から離し、音源へ。藤のバスケットを手に張り切るは、白いワンピースドレスを纏った、齢十にも満たぬ乳母車の物――プラムである。命からがら此処へ辿り着いた折、汚損甚だしい女子高生の格好を一目見て、独断で湯殿へ引っ張り込んだ張本人だった。


「アザレアちゃん、おこづかいもらった?」


 開口一番ズレたことを尋ねられ、思わず隣にいたクロッキーと顔を見合わせる。

 あの額をお小遣いと言えてしまうとは、名家の金銭感覚はどうしたものであろうか。頭を抱えながら、アザレアは何とか言葉を捻り出した。


「お小遣いって言うか、月収っていうか、とにかくお金は沢山貰ったんだけど……それがどうかした?」

「んーとねー。おとーさまが、わぁしもそとに出てなさーいって。アザレアちゃんもおそといくでしょ?」

「うん」

「だからねー、いっしょあーそぼ」


 提案自体は渡りに船だ。アザレアはただでさえ人の街周辺に不案内であるし、クロッキーを伴うにしても、恐らくはすぐに会話が尽きるであろうことは予想するまでもない。それはキーンを同伴するにしても同様で、何より男ばかり引き連れて街を歩き回るのはとてつもなく気まずい。話しやすい根明の幼女が一緒に付いてくれるならば、それに越したことはないだろう。

 しかしながら、プラムの言動はまさしく自由奔放。恐ろしい額の金銭を手にしている今、彼女に振り回されるのに不安を抱かぬと言えば、それは確実に嘘となる。

 分厚く膨れた財布を見つめながら、喉の奥で唸り声を上げ。しばしの間脳内で議論を戦わせ、やがて出た言葉をそのまま声に乗せた。


「プラム、今日何処に行くか決めてる?」

「きょーはね、おばちゃんのとこあそびにいくのー。アザレアちゃんゆびわとかすき?」

「へ? えっうん、まあ」

「よかったー! おばちゃんねー、ざっかやさんなんだよ。いこいこ」


 ほらほら、と手招きを二つ。考えがあっての行動なのか、それとも単に無邪気な思いつきか。アザレアは結局判断出来ず、素直に暖炉の前から立ち上がった。

 書き物机の上に放り出された鞄――これも名家からの貰い物である――に財布をねじ込み、椅子に掛けていた外套を引っ掴んで羽織る。泡を食ったように追従するクロッキーを横目に鞄を肩に掛け、扉を開け放したまま待つ乳母車の前に立てば、プラムは小さく首を傾げながら肩をすくめた。表情があれば、満面の笑みでも浮かべていただろうか。

 故に、アザレアも笑い返す。


「ちょっとお金持ちすぎて怖いけど、行こっか。良かったら他の良い場所も教えて?」

「おまかせあーれ!」


 どんっと胸を叩いて言い張る様に、また少年と顔を見合わせ、互いに一笑。そっと転がした、道案内をよろしくの言葉に元気よく人の身を反転させ、バスケットを振り回しながら階段を目指し始めた小さな背を、二人で追いかける。

 とは言え、幼女の足に合わせた歩みだ。さして急ぐこともなく、至ってのんびりと正面玄関へ続く階段を降りる。そんなアザレア達を、一人の男が背後から追い抜かした。

 ゆるりと風を孕んで翻る茶色い外套、鼻腔を仄かにくすぐる葉巻の香り。そして何よりも、その首から上に鎮座する黒檀の黒電話。思考するまでもなく、アザレアは半ば反射のように、すれ違おうとした物の名を叫んでいた。


「テリーさん!」

「おぉっ? 嗚呼、アザレアじゃないか。あの後は大丈夫だったかね?」

「大丈夫だったって……それ言いたいのは私の方なんですけど」


 突然大声を上げられ、驚きも露わと言った風に振り返ったテリーの態度は、昨日のことなどまるで忘れ去ったよう。返答には思わず恨みがましい色が滲む。

 顧みれば、彼があの場で名など呼ぶからクロッカーに反撃を許したのだ。今更それを責めるほど愚かでもなければ怒ってもいないのだが、当の探偵はまるで涼しい顔――無論表情筋で判別など出来ないが、今やアザレアは、物の感情をその放つ雰囲気から読み取れるようになっていた――で、アザレアを逆に心配している。あの時の思案は無駄だったのかと、流石の物殺しも疑心を抱かずにはいられなかった。

 そんな彼女の心中を、探偵は見透かしているのだろう。おもむろに取り出した葉巻の吸い口に葉巻切りシガーカッターを当てながら、ごく穏やかに言葉を紡ぐ。


「少々狡い手を使って私は此処にいる。ではアザレア、物殺しの勘はどう騒ぐ?」

「……言いたくないです」

「そうだろう。ならばそれが答えだ」

「簡単に言いますね」

「まあ、予想していたことだからね。還る覚悟くらいとうに決めてある」


 無造作な物言いに恐れの色はなし。ただ滲むのは、開かれぬ前途に対する、ひたすらに虚ろなあきらめばかりだ。蝋尽きた灯を漫然と眺めるような、倦怠に満ちた空気を、今は矍鑠なる老翁もまた確かに孕んでいた。

 その空虚を感じ取った刹那、アザレアは咄嗟に、己が内から特権を引き出していた。白い靄が握りしめた手の内に集まり、やがて形を取り色付く。


「テリーさん」

「何だね?」

「どうぞ。御守りです」


 差し出されたものを受け取れば、掌に残るは白く小さな布袋。浜木綿ハマユウの刺繍が入ったその内からは、かさかさと乾いた音が聞こえてくる。所謂雑香ポプリの類であろうが、微かに匂うのはバラのものでもラベンダーのものでもなく。

 少し考え、テリーは答えを出した。


月桂樹ローリエだな」

「私の自己満足ですけど、良かったら」

「良いんだ。ありがとう」


 普段の彼ならば、もう少し言葉を重ねただろう。しかし探偵は言葉少なに匂い袋を押し頂き、さも大事そうに外套の懐へと仕舞い込んだ。そして所在を確かめるように袋のある位置を軽く叩き、満足気に一度首肯。大事にする、との一言には、物殺しが追認の点頭のみを返す。

 両者の間に、最早交わすべき言葉はない。テリーは黙ったまま階段を降りきって使用人達の使う勝手口の方へ向かい、その背を見送るアザレア達は、プラムに急かされてようやく階段を降り始めた。

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