五十九:蛇の道
灯前街図書館があらゆる記録と記憶の流れ着く果てと言うならば、名家の地下はあらゆる罪科と判決の留まり来る果てとでも言うべきか。
地下へと続く階段を降り、堅牢な南京錠を開けたその先に続く倉庫へ、そっと足を踏み入れる。古い紙と埃の臭いが一歩ごとに渦を巻き、カシーレは厭わしげに手袋の先で金庫の頭を撫でた。しかし歩みは澱みなく、木製の棚が林立する間を抜けて、ある一角にて立ち止まる。
自身の身長よりも尚高い棚にずらりと収められた、一抱えはある紙箱ども。側面に通し番号と日付が書かれたそれらの中から一つを選び抜き、降り積もった埃を指先で払う。見向くことを止めた歳月は分厚く、白い手袋の先に砂の色を引いては、しかし呆気なく宙に溶けた。それだけの長きに亘って見向くことを避けていたのだと、沈黙の内に非難されたように感じて、執事は溜息交じりに箱を引き出す。
通し番号四二一九-H、年月日MN十八年四月一日、事件種別
とは言え、内に秘められた証拠品の数々は未だ色褪せぬ。倉庫を出でて廊下を行き、突き当たりの扉を開く。待ち構えるのは数々の分析装置で埋め尽くされた広い部屋と、椅子に一人黙して座する、スキンヘッドに蛇の刺青を入れた強面の男。屋敷の使用人とは名ばかりの、眼隠における
「通しが四桁とはまた、随分と古い
抱えた箱を一瞥し、然程動揺することもなく男は一言。それに頷きのみを返し、広い机の上に箱を置いて、カシーレはそっと蓋を開けて中身を検めた。
グラシン紙で個別に包まれた数着の衣服と布類、数冊の本、ファイリングされた書類。弾切れの拳銃数丁。そして小箱に収められた壊れ物類。筆頭の手は迷いなく小箱を中から引き出し、その中から一本のバイアル瓶を取る。
小瓶には半分ほどまで充填された透明な液体。ラベルはなく、何が入っているのかは未だに分かっていない。瓶の蓋は開けられてもいなければ注射器を挿された跡もなく、つまりは何ゆえか一度も使われなかった代物だ。百年前の技術では非破壊調査が難航したこと、状況的に注射器の中身とは同じであろうと推測されたこと、そして他に落ちていた注射器の残留物からいくらでもサンプルを得られたことから、証拠として押収されつつも長らく見過ごされていた。
過去の調査に不備や不審があるとするならば、ないし何らかの進展を見込めるならば、それはこの内容物の特定に掛かっているであろう。カシーレはそんな直感を胸の内に得ていた。
――ともあれ、手を動かさねば何も始まらない。一旦小瓶を箱へ戻し、首元を飾る豪奢なフリルタイを、スーツの上着と共に脱ぎ捨てる。代わって部屋のロッカー内に掛けていた白衣へ腕を通せば、待っていたように使用人の男が椅子から立ち上がった。高い鼻梁に翔けたサングラスを外し、その奥に光る碧眼で、頭一つ分高い位置にあるカシーレの頭を見上げる。
「古い事件の再調査はやりたがらなかったでしょう、筆頭は。どう言った風の吹き回しで?」
『気は進みませんが、逃亡または未発見だった関係者が見つかるかもしれないともなれば、調査しない訳にも行かないのです。やって良い結果になるとは思えませんがね。』
小瓶へ意識を向けながらのカシーレの返答に、男は呆れ混じりの溜息を一つ。側頭に走る蛇の眼を指でつつきながら、頭痛を堪えるように声を絞り出す。
嫌だと公言するものを敢えて遂行しようとする。今までの――カシーレの生きてきた年数に比すれば――さしたる長さでもない側近歴の中では、あまり見ることのなかった筆頭の姿だ。それはつまるところ、厄介ごとの前触れでもある。
「そう言った案件の調査ほど嫌なんじゃないんで? もしや誰かの頼み事ですか」
『とても、親しき物から。』
「嗚呼……そりゃ、筆頭じゃ断れませんな。そのご
『御察しの通り。』
普段から口数の多い物ではないが、今日の筆頭は、いつにもまして言葉少なであると男は感じた。最前からの態度と併せ、どうやら文字に起こす以上の深刻な事情だか経緯だかを抱えているらしいと、男が推察出来る程度には。
男はカシーレが現在最も信を置いている側近である。その自負はあったし、そうあるように努めてもきた。そんな己にも言わぬ事情とは何か、気になる心がないと言えば嘘だろう。だがその一方で、筆頭第一の部下として、余計な詮索を入れる気は毛頭なかった。それを彼が望むとは到底思えぬし、言わぬと言うことはつまり、今からのことに重要性は有り得ても直接の関わりはないと言うことだ。
ならば、此処で口を開いたのは、詮索ではなく純粋な疑問の解決。
「“粗悪品”が
『並以上だとは思いますが、麻薬の過剰投与の副作用に耐え得るかと言われたならば疑問ではありますね。』
「でしょう。ですが、筆頭の話しぶりだと結構正気のご様子で。私が見たときにゃ言葉も話せなかった方が、ほんの何時間かでまともに頼み事が出来るほど復調しますかね」
『即ち?』
「いえね、例の麻薬には緩和剤があるんじゃないかと思いまして。
肩を竦めながらの、信を置く部下の言。カシーレにそれを蹴る愚かさはなかった。だが同時に、信じきるほどの間抜けでもなかった。
今までの凄惨な事件と、彼自身の身にも付いていた自傷の数々を思うと、テリーが自身の精神力だけで薬物の禁断症状をねじ伏せたとは考えにくい。外的に症状を緩和する何かがあって初めて、取り落としていた正気を掬い出すことが出来たのだ。しかし彼の言う通り、例えば実際にそんなものがあったとして、クロッカーが使う理由は何処にもないだろう。探偵の予想通り死傷を避けたのだとしても、それならば最初から投与の量や回数を減らせばいいだけの話である。
黙々と考えを巡らせ、カシーレはやがて一つの結論を導く。
『かの物が投与したのではないのやも。』
「……ご友朋が自力で見つけて盗み出した、と言うのはあまりに現実的ではないですが、ならばあの場に誰か協力者がいたと? まさか物殺しのお嬢だとか言わないでしょうね」
『手段に関しては不透明ですが、貴方から受けた報告の状況下で想定するならば、最も考えられる選択肢ではあるでしょう。』
「ふぅむ、筆頭が言い切るなら私も滅多な反論は出来かねますね。――ま、何にせよ私は私の仕事を進めるまでです。分析所に連絡を取っておきます」
ぽんと膝を一打ち、漂う空気を切り替えると同時に、男は立ち上がる。それに一つ頷きを返し、カシーレは素早くメモを走らせたかと思うと、横をすれ違おうとした側近の眼前へぴしりと差し出した。
『inferinone関連のデータを洗いざらい寄越せと脅しつけておいて下さい。』
「御意」
差し出された紙を二本指で挟み、手を振りざまにぴらぴらと揺らしながら、男は悠々と地下室を去ってゆく。それを一顧だにせず捨て置くのは、彼への信頼の証と言うべきか。
扉の閉まる音を合図としたかの如く、筆頭もまた動き出す。
片や。
瀕死の重傷からようやく立ち直った物の携帯電話が、病室でけたたましい声を挙げた。個室と言っておきながら、あまりの病床不足の為に出せるだけの簡易ベッドが敷き詰められたその最中で、電話の持ち主はのろのろとベッドサイドにほうり投げたそれへと手を伸ばす。
数度探り、触れた中指で引き寄せ、しっかりと掴んで手元へ。通話ボタンを押してひとまず黙らせ、受話口を己が頭の側面へと寄せる。
「……此方、ステアリィ」
“お久しゅう分析官殿。
受話口から流れてくるのは、聞き覚えのある低い声。忘れもしない、見事に剃り上げた禿頭に蛇を彫った強面がありありと思い出されて、ステアリィは思わず溜息を零した。この地潜という男が電話をかけてくる用事と言えば、概ね面倒ごとだ。
携帯の向こうにいる男へは生返事。ギプスで固められた両脚を引きずり、したたかに打ってすっかり痛めた腰を押さえ押さえ、硬い寝台の上に上体を起こす。苦労して完遂したステアリィは、病院着代わりに着せられたシャツの皺を伸ばしながら言葉を選んだ。
「今の私は仕事をするにも憚られる重傷人なわけだが、お構いなしかね?」
“生憎、私は分析官殿の現状に関して把握しきっちゃいませんのでね。それに、こっちもあまり形振りを気にしてもいられませんで”
形振り構わないのはいつものことだろう、と悪態をつきかけて、やめる。地潜の声音は、いつもの冗談めかした口振りではないように聞こえたからだ。
視線をぐるり。同室のもの達の様子を伺いながら、ステアリィは声を潜めた。
「欲しいデータは?」
“『inferinone』の解析データを。AからBから周辺の類似物質まで、洗いざらい全部寄越せとのご命令です”
「あの麻薬か……」
眼隠の連中が血眼になって追っている異常死案件の中心にある麻薬である。摂取すると凄まじい多幸感を得るが、極めて苛烈な禁断症状を伴い、その最果てにはほぼ例外なく精神を破壊される劇物。百年も前から名家のものどもを悩ませ続け、彼らから回される多くの無理難題に
近頃は分析所へ電話が掛かることも減っていたのだが、どうしたことか。
「だが、随分と急な話ではないか。また新しい被害者が出たのか」
“ええ、残念ながら。貴方のご友朋がよくご存知の物ですよ。テリーって名前、貴方も聞き覚えがあるでしょう”
「銀鳩探偵社の?……ふざけた冗談は勘弁したまえ、それの親友に厄介になっている最中なんだが」
“私どもにゃあまり時間がないんですがね”
確かに男の声音は、軽薄ではあっても冗談味はなかった。どうやら、あまり認めたくはないが、本当の話らしい。
再び周囲をぐるりと見回す。随分と長く眠っていたらしい、陽はすっかり落ちきり、周囲の簡易ベッドからは今にも消え入りそうな寝息が聞こえてくる。本来ならば外に出て話すべきなのだろうが、今のステアリィは介助なしで車椅子に乗ることも出来ない不自由の身だ。仕方なしに、声を潜めて通話口に囁いた。
「言った通り、今の私はまともに動けん。分析所の方へは連絡をしておく、明日ならばマイヤーが応対するだろう」
“頼んます”
地潜の返事は簡潔だった。最初から答えなど決まっている、そう言わんばかりに。
そろそろ痛みを増してきた腰を摩りながら、もう切ってもいいかと叩きつけた声に棘が混じってしまったのは、決定事項のように
“用はそれだけです。が、一つお尋ねを”
「何か?」
“探偵殿のご友朋の医師と言うと、アスクレピア医院のファーマシーさんでしょう。何故物の街に貴方がいらっしゃるんで?”
「嗚呼、そう言えば言っていなかったな」
そう大袈裟な用事でもないのだが、と前置きする。ただ静かに聞き入る男の耳に、ひそやかな声が流れ込んだ。
「オンケル、と言う物のことは?」
“月の原の駅長殿ですな。撃たれたとは報告入ってますが”
「嗚呼、ファーマシーが治療したのだが。――その時処方した痛み止めに、どうも自分の知識の中にない薬品が混じっていると相談されてね」
携帯電話の向こうで、息を呑む音が聞こえた。その反応が普通だろうと、分析官も喉の奥で苦笑する。
ファーマシーの処方する薬品とは、つまるところ“案内人特権”によって生成されたものだ。そして、彼の特権の範囲はその知識内に留まる。即ち、自分の知らない薬品を作り出すことは、本来は出来ない。
それが、どうやら可能になってしまったらしい。その理由をステアリィは汲むべくもないが、知識がないと言うことは安全性も分からぬと言うこと。医師としてはこれほど不安なものもそうはないだろう。
先日、己が携帯に掛かってきた医師からの懇願。その震えた声を思い返しながら、ステアリィは言葉を重ねていく。
「オンケルの命に別状はないそうだが、得体の知れないものが土壇場で生成されるのは不安だ、分析して欲しいと。それで、
“ほぉ、その試料は貰えたんで?”
「嗚呼、再現するのに苦労したそうだが、その分多めに。分析に使うには多すぎるくらいだ」
“成程。こっちにも少し回して頂けませんか”
「それは、構わないが?」
“……勘なんですがね、こっちの件と関係がありそうなんですよ”
思わず唸る。物のそれと違って、人の勘と言うのは当たりにくい。重ねてきた経験の年数が違うのだからある程度は仕方のないところである。
しかしながら、彼はカシーレに仕える、しかも第一の側近なのだ。こと事件や事故に関する嗅覚の鋭さという一点に於いて、この男に勝るものは少ない。そこにはステアリィ自身も含まれている。
少しばかり思索に耽り、返答。
「ファーマシーが作れるのは鎮静剤だけだ。貴方の勘が当たっているなら、麻薬のそれと言うことになるな」
“そうですな”
「それで彼が助かればいいが」
“無理でしょう”
即座に否定されてしまった。何故、と非難の響きを込めて問えば、電話口の向こうで首を振る気配がする。
きっとこの上もなく沈痛な面持ちであろうと、容易に想像はできた。
“今は、正気です。ですがいつまたとち狂ってもおかしくない。ご本人がそう言ってるんですから、人間の私は信じるしかないんでさ。悲しい話ですがね”
「そう、か」
“私らは可及的速やかにことに当たります。出来るのはそれだけです”
地潜はどこまでも冷徹に告げ、ステアリィは黙したまま。そのまま通話を切りかけた男の耳に、その声は果たして届いただろうか。
「せめて楽に、還れば良いが……」
男から返答はなかった。
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