六十一:述懐

 仕立て屋、雑貨屋、宝飾店。今にも押し潰れそうな骨董品店に、怪しげな香り漂う卜占と癒しヒーリングの店。たまに見る食料品店はどれも何処ぞかの認定証を受けた老舗で、住居すらもに懐かしさが溢れている。

 旧椿通り、景観保存指定区画。名家の息女曰く、人の街は古き昔に戦乱で一度、天変地異で更に一度破壊されたことがあると言う。旧統括区を含めたこの区画は、戦乱によっても自然災害によっても破壊を免れた、この街の始まりを色濃く残す所なのだと。そう解説が入ったならば納得出来る古めかしさだ。

 名家から体良く追い出されたものども――プラムとクロッキー、それにキーンと横並びになって歩きながら、アザレアは露店で買った紅茶に口をつけた。葡萄香茶ダージリンの香りと、たっぷり入れた砂糖とミルクの甘さに舌鼓など打ちつつ、アザレアは勇んで先頭を歩く乳母車へ笑いかける。


「プラムは物知りね」

「でしょでしょー。えっへーん!」

「俺も知っているが」

「大人気なく張り合わないで下さい」


 キーンからの余計な一言には満面の笑みで釘を刺し、もう一口。

 確かに、付き人がみっともなく意地を張ろうとする程度には、彼女は奇妙なほど街の地理に精通していた。この紅茶売りの露店とて、プラムの持つ謎の情報網から得られたものだ。一体この無邪気な幼女の何処にそのような伝手を作る術があるのか、アザレアには知る由もない。知る必要もないだろう。

 もやもやと物殺しが考える間にも、あっちの店へ寄り、こっちの店に顔を出し、そっちの店に挨拶回り。ちょこちょこと走り回りながら、プラムは顔見せや世間話に余念がない。かと思えば一行にこのところ評判だと言うパウンドケーキを買って渡し、どう見ても人気のない道に出ている露天商の男から古い指輪を買い、それを掘り出し物とはしゃぎ回る。言動の幼さとやっていることの老獪さが明らかに釣り合っていない。常に先頭を行く幼女の背を追いながら、物殺し達は困惑しきりにお互いを見合わせた。


「本当に物知りよね……今のお店、ケイさん知ってました?」

「いや、流石に知らんな。裏組織絡みの店だとは知っているが、内情までは」

「あれ、名家って確か裏組織とは仲が良くないんじゃ? そんな話聞きましたよ」

「確かに不仲ではあるが、上同士が牽制しあっているだけだ。末端は表立って抗争しているわけではない。案外、裏組織の構成員が経営する店は多いぞ」


 なあ、と言わんばかりに視線をプラムへ。名家の息女も追認するように頷き、蝶のスタンプが捺された紙袋――先程購入した指輪が入っている――を振り回しながら、下手なスキップを交えて走り寄ってきた。

 そのまま、袋をアザレアの鼻先へ突きつける。豆鉄砲を喰らった鳩よろしくキョトンとする物殺しに、プラムはあげると一言。ぐいぐいと空いた片手に押し付けられ、アザレアは戸惑いを隠せない。受け取る素振りが見えない女子高生を、幼女の純粋な視線がさも不思議そうに見上げた。


「いらなかった?」

「へっ!? やっ、別にそんな、そう言うことじゃなくって! えっと、ちょっと驚いたっていうか、話の流れ的に出所が気になるって言うか……」

「さっきのおじさん? おじさんねー、つぐみのひとなんだよ!」

「!?」


 プラムの無邪気な一言に、にわか剣呑な空気を纏ったのは、キーンだった。まだまだ言い足りない様子のわらしと、その言葉に耳を傾けようとする物殺しの間に、付き人は迷うことなく半身を滑り込ませる。遂に受け取ることを躊躇っていた紙袋が、巨体の割り込んだ拍子に石畳へと落ちた。

 たちまちの内に静寂が支配し、誰もが動くこと能わぬ緊張が張り詰める中で、言葉を発せられるのはキーンだけだった。


「路上で話すことではない」

「どして? だってつぐみ――」

「その噤の件でお前の親や眼隠が動いている。……ここまで言ってもまだ分からないか? 名家の物が。名家の当主お前の親のことだ、幼いからとひた隠しにはすまい。知らないとは言わせない」


 怒気さえ孕んだ声に、しかしプラムは臆した風でもない。ただ、石畳に落ちた袋を拾い、もう一度、目の前に立ちはだかる付き人へ押し付けた。

 だって。駄々をこねる子のような調子で放たれた反駁へ、更に言葉を積み重ねていく。


「あのひと、止めてくれるっていったもん」

「止める? 何を」

「あいつ止めるっていったもん! ぜったい止めてやるっていったもん! わぁしにいったもん、やくそくしたもん!」


――やくそくしんじられなくって何がめーけ名家なの、ばか。ばかばかばか!

――おにーさんのばかぁぁあ――!


 畳み掛けるように喚き、街中にこだませんばかりに叫んで、プラムはその勢いのまま路地を駆け出した。流石のキーンも、子供が突然癇癪を起して走り出しては慌てるしかない。待て、と何時になく焦燥を滲ませて叫び、信じられないほど早く小路の奥へ消え行く背を追おうとした付き人は、しかし抜け目なく足を止めて物殺しを振り返った。

 以心伝心。アザレアは何も言わず点頭し、言葉が後からついてくる。


「追いかけてって下さい。私はケイさんの後に付きますから」

「嗚呼。……すまない、俺の失言で」

「いいえ」


 ほら、と苦笑混じりに促せば、もう一度短い謝罪。それを受け止める暇もなく、キーンは既に細い路地へ入り込もうとしていたプラムの後を追いかけて走り出す。こちらも冗談のような速さであっという間に遠ざかり、角を曲がって消えていった。

 残された物殺しと絵描きの少年は、ちらと顔を見合わせ。困った風に肩を竦めて笑いあい、ゆっくりと石畳を蹴る。

 その華奢な背に酷くれた声を掛けるものが、一人。


「御嬢ちゃん、待ち」


 潰された喉から無理にひり出したような、聞いているだけで痛ましくなる男声。弾かれたように振り返れば、先程プラムが指輪を買っていた露天商の男が、億劫そうに片膝を立てて手を振っていた。年恰好自体はそれほど老いている風でもないと言うのに、声と言い立ち振る舞いと言い妙に衰えている。訝ったアザレアが恐る恐る距離を詰めてみれば、男は自嘲気味に鼻で一笑。左手で首元を覆うぼろ布を押し下げ、立てた左足を軽く地面に打ち付けてみせた。

 鉄の棒と石が触れ合う甲高い残響。喉元――を抉る恐るべき刀傷。そして巧妙に庇われた、肘から先に虚ろを孕む右の腕。それだけで、この物が受けた暴虐は容易に察せられよう。

 愕然とする少年少女の前で、男は目深に被っていた外套のフードを下ろす。出てきたのは、真横に立ち割られかけた寄木細工の箱。上蓋にはまっていたらしいガラスは最早粉々に割れて意味を成さず、収められていたであろう何かは黒い天鵞絨ビロードのクッションだけを残して影も形もない。首から下も首から上も、“廃物”か何かと見間違えそうな損傷ぶりであった。

 そんな顔するなよ、と男はまた苦笑。ごそごそと外套を漁って皺くちゃの煙草とマッチを一本引っ張り出すと、相変わらず何処かも分からぬ口に咥えて伸ばし、近場の御影石みかげいしで器用にマッチを擦った。盛る火を煙草へ移し、婦女子へ当てぬよう慎重に紫煙を吐き出して、再び声をくじり出す。


「フェイ……フェイリャーってもんだ。御嬢ちゃん見かけねぇツラだが、物殺しかい」

「はい。アザレアです」

「やっぱりそうか。何てェか、そんな気がしてた。――なあ、ちと話をしていいかい? 別に急ぎじゃねェ、名家の御嬢ちゃん追いかけるってんならそれでもいいが」


 寄木細工の箱、もといフェイリャーから振られた、唐突な談話の提案。クロッキーは物殺しの意見に従う姿勢を示し、一人決断を迫られたアザレアはと言えば、迷いなく首を縦に振った。

 この機を逃せば、恐らくは二度と会えなくなる。ただ旅の中で袖が触れ合い離れたとか、そんな安穏と無事を祈れる別れではない。そんな直感が、少女の胸をざわつかせたのだ。そしてそれは恐らく、対峙する傷だらけの物も感じたものだろう。

 フェイリャーはあからさまに安堵の溜息をついて、自身の足元に広げていた商品――どれも古く、しかして美しい金銀の細工物であった――をのそのそと手提げ鞄に仕舞い始める。手伝おうかと膝をついた二人の手も有難く借り、無事に詰め込み終えたその手で、先ほどまで宝飾品の並んでいた敷物を指した。

 些か逡巡の色を見せつつも、毛足の長い上に腰を落とす。染み付いた煙草の匂いが微かに鼻をくすぐった。


「聞きづれェ声で失礼すんな。改めて、おれはフェイリャー。噤って裏組織に居た……まあ、筋物スジモンとか、極道って呼ばれて後ろ指さされるような奴だった」

「だった? 今は――引退したんですか? その、傷とかで」


 聞きながらも、違うだろうとの確信がアザレアにはあった。どうにも彼の身についた傷は、事故などではなく凄惨な拷問を想起させるのだ。勿論アザレアが拷問に手を染めたことはないが、比較すべき雛形自体は二度見ている。

 すなわち、両の脚を無残にも断たれたクロイツと、あわや狂気に陥る一歩手前まで追い詰められたビジョンと言う、二度。そこに共通するものが何かなど、今更思い浮かべるべくもない。

 果たしてフェイリャーは、小さくかぶりを振った。


「消滅したんだ、噤は。俺はまだ五体満足だった。こんなになったのはそれよりも後の話さ」

「無くなったんですか? 一つの団体が?」

「嗚呼、五千の構成員と周辺の弱小組織五つ、しめて七千の筋者諸共。おぞましい食い合いだったって堅気の衆は言ってた。どいつもこいつもマトモじゃなくってよ、天国に行くの地獄に行くの、死んだ母ちゃんの許に行くの、意味分かんねェこと喚き散らして笑いながら、既に何も入ってない注射器を首にぶっ刺してたと」


 忌々しげに、しかしそれ以上に諦めの強い口調でそこまで言って、まだ未成年の女に喋る内容ではないと思い当たったらしい。言葉を失うアザレアに、気にしなくてもいいと慰めにもならぬ弁解を一つして、煙を上げる煙草をぎゅっと石畳に押し付けた。

 咳払いを一度。沈鬱な空気を無理に切り替え、暗鬱とした言葉を重ねていく。


「あんまダラダラ喋ってる訳にもいかんし、も少しざっくり言おうか。噤ってのはな、薬物ヤクに入り浸って自滅しちまったのよ」

「薬物……」

「『inferinoneインフェリノン』って名前でな。AとかBとか種類はあるが、とにかく使うと廃人間違いなしってくらいの強烈な薬だ。それが何処からか組織ン中に入ってきて、あっという間に幹部から下っ端から薬漬けよ」

「そんなものが流行ってたのに、フェイリャーさんは無事だったんですか」

「おれはその時、野暮用で組織から遠く離れてたんでな。それに、元々長とその側近しか存在を知らんような、霞みてェな奴だったしよ。方々に散らばってた下っ端やら叔父貴おじき分やらは事態の収集の為に呼び戻されたらしいが、おれは幹部連が全員使い物にならなくなった時点で、組織からは切り離されたも同然だった」


 そこまで言って、一息。抉れたような傷の残る首をそぞろに撫で、そっと壊れかけた頭を壁に寄せる。コツン、と小さな音がして、ばらばらに砕けた蓋のガラスが地に落ちた。

 対するアザレアは、聞かされた裏組織の話を飲み込むのに精一杯。今の今まで、彼女が極道ややくざに類するものに接した機会と言えば、椿通りで華神楽の監視に遭った程度なのだ。それが突然内情を、しかも既に無い組織のものを吐露されては、物殺しとは言え理解が追いつかない。

 しかしその一方で、アザレアは散らばっていた線が繋がっていく感覚も覚えていた。


 己を連れ去った物が格上の相手に対して使った武器。

 連れ去られた先で己が見た物品。

 かの物の手に掛かった物が受けた、または自分で付けてしまった傷の惨状。

 薬物によって壊滅した裏組織。

 此処から導き出せるのは――


「まさか……」

「ん?」


 確証のない推論である。当たっているとは思えないが、もしも当たっていれば、それはとてもおぞましい行為だ。心中の動揺を抑えつけ、アザレアはそっと言葉の続きを吐き出した。


「その組織を壊滅させたのって、クロッカーですか」


 少しの静寂。

 フェイリャーが返したのは、静かな否定だった。


「いや、クロッカーは組織が壊滅した後に動き始めた物だ。覚え違う筈もねェ、噤の本拠アジトで突っ立ってた奴を外に逃がしたのは、他の誰でもねぇおれだしな」

「貴方が? どうして、その……を助けようとしたんですか」

「あんなの、なァ」


 まだ酒も飲めないような少女の口から出るには、いささか過激で冷淡な言葉選びだ。そうしたところが普通の婦女子と物殺しの違いと言うものなのかもしれない。或いは、かくも刺々しい物言いになるようなことを彼からされたのだろうか。この数年間でかの柱時計が起こした事件は、控えめに言っても謝罪や服役などで許されるほど生温いものではなかった。同じような行為を彼女が受けたと言うならば、憎むなり怒るなりで口調が荒々しくなるのも無理はない。

 失笑するように喉を軽く鳴らし、真横に一閃された傷を突く。こじり出した声は、相も変わらず吐息のように掠れた。


「言い訳じゃねぇが、逃がした時のクロッカーはもっとマトモで……いや言葉が悪いな。人を嬲って放り棄てるような奴じゃなかったんだぜ」


 信じられないか。笑うフェイリャーに、アザレアは微妙な表情を浮かべるばかり。抵抗力なき少女としてクロッカーの狂気じみた感性と行為に晒された経験は、男の言葉が持つ説得力以上の不信感を彼女に抱かせていた。

 それでも、フェイリャーには彼なりの経験があり、物殺しとは違う付き合いがあるのだ。それを無碍にして耳を塞ぐほど、アザレアは幼稚な精神の持ち主ではない。

 ぎゅっと目を強く瞑り、深呼吸。長く息を吐き出しながら双眸を見開けば、陽を受けた虹彩が虎目石の輝きを放つ。


「正直、何も知らない方がスムーズに終わりそうではあるんですけど。でも多分、私はちゃんと知ってないといけないことでしょうから。聞きます」

「……そだな」


 フェイリャーの首肯は、どの言葉に対する肯定ものなのだろうか。物殺しはその疑問をこそ知らなくていいものと判じ、視線だけで続きを促す。男もまた頷きだけで応じ、ゆっくりと言葉を織り上げた。


「クロッカーが動き始めたのは、さっきも言った通り噤が薬物漬けになって壊滅した直後だ。おれは本拠の周囲に住んでた堅気の衆から連絡受けて、何もかも終わっちまった後にやっと駆け付けてきた。奴はそこで、一人だけ突っ立ってた」

「逆に怪しいと思うんだけど、それ」

「まあそう言うな、少年。奴は話しかけても揺さぶっても、おれがどんなに頑張っても喋りゃしなくてよ。武装だって何も無かったし、殺したにしちゃ返り血だって着いてなかった。何より、ありゃ人殺しが纏える空気じゃねぇ。初めて殺しを見た子供のソレだったよ。……物殺しの御嬢ちゃんなら、もしかしたら知ってる空気かもな」


 男の余計な一言に、思わずクロッキーがアザレアを見た。しかし少女は何も言わない。ただ、述懐される過去にだけ傾聴し、その続きを望むばかり。

 二人とも気圧されて須臾黙り込み、フェイリャーは大仰な咳払いで空気を切り替える。


「で、だ。何とか正気に戻そうって慌ててる内に名家の連中が来る音がして、しょうがねェからおれァ奴を引きずって本拠を抜け出した。とりあえず公安が目ェ付けなさそうな所まで引っ張って、そこでも何も言いそうになかったから、おれの隠れ家セーフハウスに連れて行ってよ。だんまり貫いたままの奴を座らせて、茶ァ淹れて……その後さ。あいつどうなったと思う?」

「どうもしなさそうな気がします」

「そりゃ今はな。だがその時の奴ァ、おれの目の前でぼろぼろ泣き始めた」


 嘘でしょ、と。少年少女クロッキーとアザレアの声が見事にユニゾンした。

 さもありなん。あのクロッカーが、悪辣と悪虐の権化が――血も涙もなく、自他の感情の揺らぎなどに塵ほどの価値も見出さぬであろう彼が、こともあろうに泣くなどと。いくら今と昔で心境の変化が起こるとは言え、そこまで劇的に己を表現するとは、どうにも信じがたい。

 しかし、いくら外野が信じられないと言ったところで、フェイリャーにとっては目の前で見てきた事実なのだ。猜疑心も露わな物殺しと物を置いて、彼はぎこちなく胡座を掻いた。

 嗄れた声を更に掠れさせ、紡ぐのはクロッカーより聞かされた過去。


――まで自分は、確か箱の中にいた。だから何が起こったのか見てはいない。しかし音は聞いた。聞こえた。

――最初は、笑い声。その次に銃声。五発か六発か、とにかく組長おさの愛用してた拳銃の中身が全部使い切られて、そこに断末魔と人の倒れる音が重なって聞こえた。

――それが……引き金トリガーだったのだろう。組長おさの部屋だけじゃない、他の所からも、雪崩れるように銃撃戦うちあいの音が。人の死ぬ音が其処彼処から響いていた。中には逃げる組員を撃ち殺すものもあった。互角の撃ち合い、同士討ち、奇襲、蹂躙……撃っても撃っても、死んでも死んでも、何処からか人が湧いてきた。

――しかしにとってはまだ、それはただの音でしかなかった。その時までは。


“何事ですか”

“これは戦争ですか、殲滅ですか、それとも自害の巻き添えですか”


――誰も彼も笑いながら死んでいく中で、それだけがまともな言葉だった。聞き間違う筈があるか、あれは……あれは、

――父上ファータ、だ。



「ファータ?」

Vaterファーター。西の方の言葉でな、『父親』って意味だ。おれ達裏組織の連中は大体、自分の所属してる組織の構成員を家族にたとえたがるもんなのさ」

「それはまあ、知ってるんですけど。私の所にもそう言うのありましたし」


 極道ものの映画だのゲームだの漫画だの、そう言ったものはアザレアの元居た世界にも溢れていた。彼女自身がそれを見たり聞いたりしたことは無いが、そうした娯楽品の中で動く主人公ヤクザ達が、目上の者や仲間に対して『叔父貴』だの『兄弟』だのと言った呼称を使うことくらいは知っている。

 しかし、そうならば疑問点も浮かぶと言うもの。


「『父』って、それ組長に使うやつじゃないんですか?」

「そうだな」

「組長は組長おさって呼んでませんでした?」

「そりゃまあ、クロッカーにとっちゃ親って呼べるのは組長じゃねェからな。そう言うことも含めて、奴ァおれに全部ぶちまけてくれたよ」



――父上ファータにも、多分銃は向けられた。気の狂うような笑い声と悲鳴を発砲音が掻き消して、少しの間静寂がそこにあった。私はそれでもまだ、そこから動くことは無かった。その時の私にとって、父上ファータはまだそこに入り込んできただけの、噤の幹部に過ぎなかった。

――銃声が全て去ったとき、父はまだそこにいた。誰かと……組長おさと話していた。


“重ねて問います、父上ファータ。これは戦争ですか、殲滅ですか、それとも自殺の巻き添えですか。子に謂れも意味もない死を強いて、貴男は何をされるのですか”

“何もしないでいい、何も成すことはない。する必要が何処にある? 幸福はもう此処にある。幸福は享受した。この幸福を子に与えないで何が親だ?”

“少なくとも私は父上ファータの言う幸福に身を浸そうとは思えません。それは破滅です。私は身を亡ぼす幸福を受け入れるほど、この世に絶望も失望もしておりません”

“何、味わえば分かる。そこら中にある、此処には、幸福が”

“お断りします”

敬仰けいぎょうする父の命令であってもか?”

“故にこそです”


――その時、銃声がもう一つ聞こえた。

――その後、父上ファータの呻き声と、何かが……親が、父上ファータが倒れる音が聞こえてきて……


“嫌です”

“嫌です”

“嫌です”

“……嫌だ”

“嫌だ!”

“嫌だ……!”


――それきり、何も聞こえなくなった。

――父上ファータは? 組長おさは? 他のもの達は? 何も分からなかった。私の所にはもう、何の音も入ってこなかった。それが恐ろしかった。何も知らないでいることが、急に、恐ろしくなった。

――確かめなければならないと。そう思った瞬間、



「『私は動けるようになっていた』――おれが聞いたのは、そこまでだ。その後の奴ァ、言うだけ言って疲れちまったんだろうな。その場でぶっ倒れちまった。それから一日中寝続けて、おれが見てない間に姿消しちまった。ただ『結論を探しに行く』ってメモだけ残してさ……」

「結、論?」

「それは、おれにも分からん。言えるのは、奴が今でも結論を探してるってことだけだ」


 まるで、彼が感じたあの時のようだと。

 満ちる静謐に、アザレアは思う。

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